001
「兄様ー」
聞き慣れた声とともに、部屋のドアが開かれる。
ちょうど良いタイミングだったと言うべきか。俺は仮想現実インターフェースを被りかけていて、もう少し遅かったら妹の声に何も反応できなかったところだった。
今日は土曜日。部活にも入っていない俺にとっては完全に自由の日だ。定期試験もまだ先だし、当然ながら友達と遊びに行く予定なんかもありはしない。
規則正しい母親や妹にあわせていつもと同じ時間にはたたき起こされるものの、朝食を食べて部屋の掃除を簡単に済ませてしまえば、後は自由な時間。当然、やることはゲームと決まっている。
それにしても、と俺はドアから顔を覗かせた雪乃を睨み付けた。
「ドア開けるときはちゃんとノックしろって」
危ないだろ、いや妹に見られたら危ないようなやましいことしていたわけじゃないけど、そういうケースが無いとは言えませんからね、こう、年頃の男子としては。
「まぁまぁ、兄妹なんだし細かいこと気にしないで」
「兄妹だから守らなきゃいけない節度って言うのもあると思うんですけどね、兄としては……」
兄妹っていうのは危ないんですよ。雪乃だから過ちとかありえないけど、俺にも大人しくて優しい可愛い妹が居たら危なかった。
しかし、俺の抗議なんてのれんに腕おし、妹様はちゃっかりと部屋の中に体を滑り込ませた。
雪乃は中学3年生、俺の1つ年下に当たる。ポニーテールに結んだ黒髪がトレードマーク。去年まで陸上部に入っていたせいで、良く日に焼けた肌と相まって、むやみに活発な印象を振りまく奴だった。休日ということもあるんだろうが、格好もTシャツにデニム地のショートパンツという、可愛さとかはともかく、活動性重視のものだ。
「で、何だよ。俺ゲームやりたいんだけど」
「酷いなぁ、私とゲームどっちが大事なの?」
「ゲームだよ」
銀剣の自キャラの方が妹より可愛いしな。見た目も性格も。
「うわぁ……」
そんな目で見ないでくださいよ。兄がこういう奴だって十分ご承知でしょう。
「だから放っておいてくれ。ゲームやらせろ」
「……そんなだから彼女一人も出来ないんだよ?」
「お前だって彼氏の一人も家に連れてきたことねえだろ」
「そこは中学生と高校生の違いって奴でしょ」
そんなことを平気で言う妹に、俺はげんなりとした。
「お前が高校生にどんな幻想を抱いているのかしれないが、なんっも変わらないからな。高校生になったところで。特にお前の学校中高一貫なんだからクラスメイトさえ変わらないんじゃねえの」
確かに小さい頃、家の前を自転車で通っていく高校生の姿は随分と大人に見えた気はする。しかし、高校生となった今、自分がそんな大人になったかと言うと全くそんなことは無かった。中学に上がっても、高校に上がっても、何ら劇的な変化なんて無く、平凡な日々が連綿と続いていくだけだ。
妹はそんな至極現実主義な俺の意見に、口を尖らせる。
「確かにそうかもしれないけどさ-、じゃあクラスメイト入れ替わった兄様はどうなの。気になる人ぐらい居ないの?」
「気になる人ねぇ……」
一瞬頭に同級生の半泣きの顔が思い浮かんで、次に太ももの感触が思い出されて、俺は慌てて頭を振った。あれは違う。ちょっと踏みつけられたりとか座られたりとか色々衝撃が強すぎて、ついフラッシュバックしてしまうだけだ。心的外傷後ストレス障害の一種と言っても過言では無い。ネットゲームの煽りから始まる恋なんてあってたまるか。
というか、2シーン目に即太ももとか何なの、俺単なるヘンタイ野郎なの。
「なんだか気になる反応だねぇ、兄様」
「いや、ちょっとな。兄はちょっと自分の闇の部分と戦っていただけだ」
「またそんな中二病を引きずったようなことを言って……」
闇と言ってもちょっとピンク色の闇ね。妹に男の世界はわかるまいて……。
「つか、何の用だったんだよ、いい加減ゲームやらせろよ」
「あ、そうそう。そうだよ。話を逸らされるところだったよ、危ない危ない」
綺麗な楕円軌道を描いて話題から逸れていったのは雪乃の方ですからね。
「今日は兄様にデートのお誘いに来たのです!」
「……あ?」
腰に手を当てて、胸を反らして思いっきり得意げにそんなことを言う妹を、俺は眉をひそめてみやった。考えたのは、黄色い救急車って実在するんだろうかということだ。
見上げれば、薄くけぶったような青空。陽射しは仄暖かく、吹く風は清冽。遠出をするにはぴったりの気候だった。シルファリオンの天気は。
―アグノシア帝国 国境の山岳都市シルファリオン
花咲月 28の日
10分後、俺は銀剣の世界にログインしていた。そして、ふうとため息をつく。
「……だがことわ」
気の狂ったような頼み事をノータイムリジェクトしようとした俺に、雪乃は指を差し翳してみせた。
「ちょっと待って。シスコンの兄様がどんな勘違いをしたのか良くわかるけれど、人の話は最後まで聞くように」
「何をどう誤解のしようがあるのか良くわからんけどお前ぶっ殺すぞ」
……雪乃のお願いというのは、結局、銀剣のクエストを手伝って欲しいというものでした。
良かった。我が家の前に黄色い救急車が横付けされるという不名誉な事態に陥らずに済んで。
雪乃も俺と同じく、ベータサービスの頃から銀剣をプレイしている。それまでのパソコンのディスプレイでやるネットゲームには見向きもしなかった妹だったが、仮想現実というものにはいたく興味を示し、俺のインターフェースでの体験プレイで完全にはまってしまった。元々ファンタジーとかそういうのは好きで、漫画やライトノベルは貸し合う仲だ。普通のゲームはパソコンの前でじっとしているというのが性に合わなかったみたいだが、異世界の中に入ってそこで自分の体を動かすがごとく冒険できるというなら大歓迎と言うことらしい。
去年までは部活もあったしそこまでプレイ時間も長くはなかったが、3年になって部活を引退してからは順調にログイン時間も延びてきている。なにやら、ゲーマーでも無い普通の中高生の間にも仮想現実型のゲームは段々流行りつつあるらしく、クラスメイトの女の子と一緒にプレイしたりもするようだ。
良い時代になったとしみじみ思ってしまう。俺らの世代では、まだネトゲ廃人と言えば、とても表向きには出来ない屑の代名詞みたいなものなんですけどね。
それにしても遅い。今日は両親ともに出かけているので、家の戸締まりやらを二人でして、それぞれの部屋に分かれてログインしたはずなのに、何故こんなに集合場所に着く時間に差が出るんだろうか。
もう一度空を見上げてため息をついた俺の背中に、割と強烈な勢いで何かがぶつかる。
「ユキちゃん、お待たせ!」
そのまま後ろから抱きつかれて、俺は目を白黒させた。
「うへへへ、ユキちゃんは相変わらず可愛いなぁ」
そのまま流れるようなボディタッチ。全身に走るもぞもぞした気色悪さをこらえながら、念のため後ろを確認する。こんなことをする奴は一人しか居ないはずだが。
「このヘンタイっ!」
「う、うわわっ、わああああああ!」
脇腹の辺りに伸びてきた右腕を捕まえて、強引にぶん投げる。武器破壊などを受けてしまった時のためにスキルスロットに忍ばせている投げ技スキルが発動し、痴漢を石畳の上に叩きつけた。
「に、兄様酷い……」
「酷くありません。兄妹でもやって良いことと悪いことがあります」
石畳の上に大の字になって伸びたのは、言うまでも無く愚妹のゲームキャラクターだった。
『Neige』 フランス語で『雪』という捻りも何も無い……まぁ『ユキ』も人のこと言えないが……それが、雪乃のキャラクターネームだ。
そういえば、「『ユキ』は兄様に取られちゃったしなー」なんてぶーたれられた気もする。
リアルと全く同じポニーテールに、日に焼けた活発そうな肌。顔立ちとかは、それなりに美化されているけれど、半袖ショートパンツの格好も相まって、現実の雪乃の姿と重なる容姿をしている。
栂坂さんもそうだったけど……女の子はキャラクターを自分に似せたがるんだろうか。
まぁ俺はそもそも性別違うんで似せようがないんですけどね。
「というより遅い」
「私の活動拠点は、メイランディアなんだもん。アイテム補給して転送されてくればこのくらいかかっちゃうって」
「そんなもんかな。まぁ、馬鹿やってないでさっさと行こう。結構あのクエスト時間かかるって噂だよ」
「はーい、もうユキちゃんつれないなぁ……」
「ユキちゃん言うな」
ぶーたれる妹に肩をすくめて見せた。
妹の頼みを受けるかどうかはちょっと迷ったが、最近一緒に遊んでいなかったなというのもあり、久々にこの銀剣世界の観光をしたかったのもあり、結局は受けることにした。
まだ週末は始まったばかり、戦争は夜にも出来るし、たまには妹孝行してやって、良い兄を演じてやるのも良いだろう。ネカマキャラで妹のゲームをサポートするのが果たして良い兄なのかは別にして。
あと、この前約束しておきながら、遊んでやらなかった負い目もあったしね。全部栂坂さんが悪いんですけどね。
PT申請を出すと、間をおかずに受け入れされて、インフォメーションスクリーンにヒットポイントゲージが二つ並ぶ。
「それじゃ、行こうか」
俺は妹と並んで歩き出した。道行く人からは仲の良い姉妹とか女友達にでも見えるんだろうか。
……まぁそんな光景を見たとしても、大体のところはむさい男やおっさん同士なんだけどね。中の人は。
章というほどのものでもないですが、導入は前部までで一区切り。
新章スタートです。




