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マヨイガ

作者: 風元

 



   マヨヒガという奇談を知っているか。

      

   山奥にある無人の家の怪だ。

      

   ボクは子供だった頃、

      

   マヨヒガに入ったことがあるようだ。

 






 

 八月十五日、夏祭りの夜。

 

 神社裏の広場は煌々とした明かりに照らされていた。

 半ズボンの少年たちが、光と闇の狭間を駆けぬける。

 光の中央部では、揃いの浴衣を着た婦人会の女性や、甚平姿の男性、金魚のしっぽのような帯を締めた少女たちが円になって踊る。

 櫓の上から太鼓の音、スピーカーからは炭坑節が大音量で流れていた。

 屋台からは、焼きそばやホットドッグの臭いが流れ出て、かき氷の屋台には長い行列ができている。


 五種類のシロップから選べることができるのが売りのかき氷屋。

「あいちゃんはイチゴがいいの」

 父親の左腕にぶら下がって、ピンクのリボンをつけた娘が笑う。

「シロップは二種類かけてもらえるみたいよ。イチゴだけでいいの?」

 会場でもらった団扇で娘に風を送りながら、母が笑う。

「んとねぇ、イチゴとイチゴがいい!」

「イチゴとイチゴかぁ。イチゴがいっぱいだな」

 父も笑い、手を挙げて宣言する娘の頭を撫でた。

 母親が作った色違いの甚平を着て、幼稚園児の娘を中心に、家族は夏の夜に浮かれていた。


「ボクはイチゴとメロンがいいな」

 父の右腕に男の子がしがみついてくるまでは。


「サクはかき氷に二つかけてもらうんだ。すごいでしょう」

 満面の笑みで、大人たちを見上げる少年。

 大きな茶色い目玉。中途半端な長さの茶髪。ガガンボみたいに細い手足。

 白いタンクトップに青い短パンは、夏祭りの衣装にしては、くたびれている。

 擦り切れたビーチサンダルがその印象を強くするのかもしれない。

 小学校の一、二年生ぐらいに見える男の子。

 汗でしめったシャツを押しつけるようにして、父の右腕を抱えて見上げてきた。

「はじめまして。サク君というのか。愛子のお友達かな?」

「そうだよ」

「違うわ」

 父の問いに、サクと妻が正反対の答えを返す。

 冷たい声に振り返ると、妻は眉根を寄せて、乱入してきた子供をにらんでいた。

 左手がぎゅっと握られる。下を向いた愛娘が、小さな両手で親の手を引っ張っていた。

「えええーっ。お友達だよ。いつも遊んであげているじゃんか」

「愛子のお菓子をとったり、庭のお花をむしったりする子は友達じゃありません」

「盗ったんじゃないよ。サクはいい子だよ。ね、お父さん」


「……オレは君の父親じゃないよ」


 父親は見知らぬ少年から腕をとりもどす。

 この子の媚びるような上目遣いが気持ち悪い。

 初対面だというのに、この距離間の無ささは一体なんだ。

 そうか、これが例のあれか。


「妻から聞いているよ。俺の可愛い愛子をいじめたんだってね」

「その子、可愛くないよ。逆上がりだって、縄跳びの二重跳びだって、出来ないんだよ。ボクの方がずっと可愛いよ。ねぇ、だからサクを」

 指さされ、愛娘が怯えている。

 自分の腕をねっとりとつかんでくる不気味な手を振り払って、娘を抱き上げると妻に渡した。

 目をすがめて、闖入者を見下す。

「ねぇ、君のお母さんはどうしたの? どうして一人でいるの? 盆踊りなのにどうして一緒にいてくれないの? 一人でいるのはどうして? どうして放置されているの?」

 常に目の中に入れていたいほど大切な娘を馬鹿にされた父親が矢継ぎ早に冷たい言葉を放つ。

「ねぇ、君のご両親は君が大切じゃないの?」

「うるさいっ!」

 サクは男の足を思いっきり踏んづける。

「馬鹿。お前なんて死んじゃえ!」

 少年は明るい行列から飛び出した。




 ……あれがウワサの投げ童か。




 背後で、大人達の吐き捨てるような声がサクの耳に届く。

 うるさい、うるさいと、少年は走って、光りの輪から抜け出す。

 この町に引っ越してきて半年。最初は優しくしてくれた大人達が「ナゲワラス」という言葉を投げつけ出した。

 その言葉の意味はよくわからないけど、とびきりの悪口に違いないと、サクは唇を噛んだ。


 どうして優しくしてくれないんだろう。

 子供はチイキで育てるものだって、お母さんが言っているのに。

 なんでヒイキをするんだろう、ボクにだってかき氷をくれたっていいじゃないか。


 少年は、神社裏の林にあった、一本の木を蹴っ飛ばす。


 お腹がすいた。でも、家には帰れない。

 ごはんはお祭りで食べてきなと、お母さんに言われているから。


 何度か蹴り続けると、その木に寄りかかり、盆踊りの明かりをぼんやりと眺めた。


 サクは人が灯した明かりを見るのが好きだった。

 いつの間にかいなくなった二番目のお父さんは、サクのために明かりをつけておいてくれた。

 優しい明かりの記憶。

 今のお父さんは、明かりがついている時に家にいると怒る。お母さんも一緒に怒る。

 けど、それでも。

 おぼろげな記憶の中の風景に、明かりのついた家で、穏やかな笑顔でご飯を作ってくれる女性の姿があった。


 冷たく強い風が吹く。


「おなかがすいたな」

 あの明かりの中に入って、ご飯を食べなきゃ。

 給食がない夏休みは何も口に出来ない日が多いから、がんばらなきゃ。

 焼き鳥、焼きそば、フランクフルト、かき氷、たこ焼き、お好み焼き、みんな美味しそう。

 どれでもいい。なんでもいい。

 ごはんをちょうだい。


 月が隠れる。冷たい風が吹いて、サクの頬に最初の雨粒が落ちた。


 ぽつりぽつりと落ちてきた水滴が、あっという間にバケツをひっくり返したような本降りになる。

 雷が鳴る。

 夜の夕立。

 祭り会場が一気に騒がしくなった。

 親たちが子供の手を引き、抱き上げ、木陰や神社の軒下に入る。

 きゃあきゃあ騒ぎながら、どこか楽しそうだ。


 サクも雨に濡れていた。


 誰も声をかけてこない。

 少年の頭を拭いてくれるタオルもない。

 彼と手をつないでくれる者もない。


 空を見上げた。真っ暗だ。


 雨なら帰って大丈夫だろうか? 

 それとも『このぐらいの雨』とまたお母さんに殴られるだろうか。

 どのぐらいの雨なら家に帰っていいんだろう。

 サクにはその判断がつかない。

 ふと背後の林を振り返ると、その向こう、ずっと上に灯りが見えた。


 祭りの灯りも町の灯りも、サクには冷たかった。


 山の灯りなら、仲間にいれてくれるかもしれないと、ずぶ濡れの足は山へ向かった。

 

 ぴしゃりと、ビーチサンダルが濡れた足音をたてた。




 あの明かりの所に行ってみよう。 




『あんた、蛾みたいだね』

 

 あきれた目をした母に言われたことがある。

 サクは明かりが見えると、ふらふらと近づく癖があった。


『飛んで火に入る夏の虫みたいに、そのまま火に焼かれちまえばいいのに』


 そう笑ったのは、その時に母とつきあっていた男だ。

 あれは何番目のお父さんだったろう。

 言われた言葉は覚えているけど、顔は思い出せない。

 名前は始めから聞いてなかった。


 ふらふらと迷う蛾のように、サクは山道を登る。


 夕立は駆け足で通り抜け、強い風が雲を押し流した。


 星明かり、月明かり。


 雲間から届く明かりが、道を照らすようだった。


 夏祭りの音も明かりも届かなくなったが、舗装されていない道を進むこと自体が楽しくなってきた。

 

 水たまりの少ない場所を選んで、とがった岩と転がる朽ち木を避けて進む。

 急勾配の場所は、近くの枝を掴んで、腕の力ではい上がる。

 雨と汗で冷たくなった服だから、険しい道を歩いて暑くなるくらいが丁度いい。

 木の間から見え隠れしていた明かりが、はっきりと見えてきた。

 藪で傷つけた手足で、あとちょっとラストスパートをかけようとして失敗した。


 右足が滑り無様に転んだ。


 濡れた落ち葉と泥の大地に倒れ伏し、顔と体半分が泥だらけになった。

 尖った石にぶつかり、ヒジから血がにじむ。


 衝撃の瞬間は痛みで息をつめたが、しばらくじっとしていれば動けるようになると、過去の経験が教えてくれる。

 まぶたを閉じて、呼吸を数えていると、だんだん平気になってくる。


「よし。もう大丈夫っ」


 一度よつんばいになってから、地面に座り込み、口の中に入った泥水を吐き出し、シャツで顔をこすってから、顔をあげる。


 目の前に大きな屋敷があった。


「すっごい、おとぎ話みたいだ」


 出現の不可解さに、少年は気付かない。

 時代劇に出てきそうな、平屋のお屋敷。

 ちらちらと灯りが揺れていたのは、電灯ではなく焔の光りだったからだ。

 どっしりとした黒門の左右でかがり火が燃えている。 

 誘われるように、サクは敷地内に入った。


 門をくぐると、庭のあちこちに、紅白の花が咲き乱れている。

 夕焼け色の実がついた柿の木。

 満開のヒマワリの根元で、放し飼いにされているニワトリたちが餌をつついていた。


 家の裏に廻ると、牛小屋と馬小屋もがある。

 牛も馬もいた。

 はじめて見る牛はびっくりするほど大きくて、角で攻撃されそうな気がして近づけない。

 馬がじろりと見下ろしてきた。

 

 ぎょろりとした目玉の怖さに後ずさって、反対側に行く。

 桜の花が夜風にそよいでいた。

 人はいない。


 怖くなって、表に戻る。

 縁側の軒下には、たくさんの灯籠がつるしてあった。

 雨戸は開け放たれている。


「誰かいませんかぁ。ボク、濡れちゃったんです。タオルをちょうだい」


 家の中に向けて怒鳴ってみる。

 明かりがついているのに、返事がない。


「お腹が空いてるんです、何かちょうだい」


 ビーチサンダルを脱いで、上がり込む。床や畳に足跡をつけながら、中へ進む。

 手当たり次第に障子や襖を開けるが、家人は見あたらない。

 どの部屋も、行灯の明かりがともっている。

 どの部屋も、つい先ほどまで人がいたような気配がある。

 何枚目かの障子を開けると、座布団ふたつと黒と白の石が置かれた囲碁板があった。

 なのに、誰もいない。


 寒い。

 雨で濡れたシャツが容赦なく体温を奪う。


「だれかいませんかぁ」


 寒い。お腹がすいた。

 音を立てて乱暴に障子を開けていく。


「あっ」


 美味しそうな臭いがした。

 その臭いを辿って、次々と襖を開けると。


「うわぁああ」


 囲炉裏があった。

 塩をたっぷりつけた鮎が串刺しにされ、灰に立てて焼かれている。

 天井からぶら下がった自在鉤に掛かった大鍋からも、美味しそうな臭いがした。

 唾を飲み込んで、囲炉裏に駆け寄る。

 両膝をついて、片手をついて、鮎の竹串をとろうとして、


「お行儀が悪い!」


 手をはたかれた。




 女の人がいた。




 襖を開けたときは、誰もいなかったはずなのに。

「行儀が悪いわ。黙ってよその家の食べ物に手を出しちゃダメでしょう」

 白い着物に、水色の帯を締めた黒髪の婦人。

「だって、えっと、ボク、濡れて、お腹が空いて」

「だから?」

 流れるような動作で片膝をついて、女性はサクと視線を合わせた。


 見下ろされるのには慣れている。

 けれど、真正面から見つめる眼差しに、どうしたらいいのか分からなくなる。


「ああ、酷いかっこうね。怪我もしている」

 女の人がたもとから懐紙を出して、顔の泥と、ヒジの傷を優しくぬぐう。

「服もびしょ濡れで、唇が真っ青だわ。このままじゃ風邪をひくわ。お風呂に入って温まらないと」

 白くて綺麗な手を差し伸べられる。




 サクは何も考えず、考えられず、その手をつかんだ。




 お風呂で温まった身体に、かすりの浴衣を着付けてもらった。

 お湯につかってはじめて、少年は自分が冷え切っていたことを知る。


 かゆくない頭、さらっとした肌、消毒され治療された傷、清潔な浴衣のやわらかな布地は、気持ちがいい。


「さてと、ちゃんとしないとね」


 女の人が差し出してきた手を、サクは躊躇なくつかんだ。

 この人はボクの目を見て、ボクだけにお話をしてくれる。

 手を引かれて廊下を歩く。スキップをしたら、叱られた。

 長い廊下を通って、縁側に出る。


 ぎゅっと、心臓が縮まった。


「やだっ」

 サクが脱いだビーチサンダルがある。

「やだっ。やだっ。ボク、お腹がすいてるの」

 追い出される。

 そっちに行きたくないと頑張るけど、大人の力は強かった。

「お願い、ナゲワラスって言わないでっ! ボク、いい子になるからっ!」

 叫ぶ。


 しゃがみ込んで動かない子供を、女性は抱き上げた。


「でも、あなたはこのままじゃあ投げ童よ。親に放置されて、投げ捨てられた子供。

 最低限の挨拶もできないと、誰からも捨て置かれるようになるよ。

 そんなの嫌でしょう」

 抱き上げて、視線を合わせて語る。

「だって、だって」

「およその家には黙って入っちゃいけないの。

 おじゃましますって言った?

 家の人が良いって言った?」

 優しい声が余計に辛い。

 サンダルを履かされた。


 いつの間にか、女性も下駄を履いており、そのまま外を歩く。雨は止んでいた。


 おろされたのは玄関だった。

「朝はおはようございます、昼はこんにちは、夜は?」

「……」

「夜の挨拶は何?」

「……こんばんわ」

「そう、こんばんは。もっと、大きな声で言って」

「……こんばんわぁ。こんばんわぁ。こんばんわーっ!」

 やけになって大声を出す。

「はい、こんばんは。あなたはどこの誰ですか? お名前は?」

「あ??」

「名前は?」

「サク」

「名字と名前は?」

「鈴木サク」

「どこの学校なの? 何年何組?」

「月見が丘小学校、三年三組」


 ごまかしを許さない視線に、サクは唯々諾々と答えた。


「うん。いいね。

 他人の家に行く時は、挨拶をして、自分がどこの誰だかまず言ってから用件をいうの。

 返事がなかったらそこで帰ってね。用件を言っても、相手がダメだって言ったらやっぱり諦める」

 女性がサクの頭をなでた。

「私は松下フミ。この家には何の用があって来たの?」


「……お腹がすいたから、ごはんをちょうだい」


 誰にでも言ってきた慣れた言葉のはずなのに、彼女にソレを言うのは恥ずかしかった。

 少年の耳が赤くなる。

「いいわ。お上がりなさい」

 フミに続いて履き物を脱ぐ。

 黙って上がろうとして、また叱られた。

「入るときは、おじゃましますって言うの」

 言葉はきついが、目元は優しい。

「おじゃまします」

「はい、いい子。」




 フミが笑ってくれると、それだけで嬉しい。




 ぼたん鍋よ、と言われて、洋服のボタンを探してていたら、イノシシの肉を牡丹というのだと微笑まれた。

 箸がうまく使えずに悪戦苦闘しているサクに、箸の持ち方はこう、とフミがお手本を見せる。

 お箸の正しい持ち方に、初めて挑戦する少年の手に、大人の手が添えられる。

 サクが納得し目を輝かせるまで、フミは根気よくつきあってくれた。

 箸で口に運び、噛みしめたお肉は、びっくりするくらい味が濃かった。お肉があまいなんて、始めてだ。

「これ、これっ」

「美味しい?」

 驚いて、ちゃんとした言葉にすることも出来ずに訴えると、フミが目を細めて言いたいことをくみ取ってくれる。

 うなずいて、お椀ごと飲み込むような勢いで食べる。

「なんか、身体がぽかぽかしてきた」

「猪肉は滋養があるからね。お野菜もちゃんと食べてる?」

「うん」

 空っぽのお椀を見せた。


 食べられる時に出来るだけ胃袋に詰め込んで、食べ貯めるのが、サクの習慣になっていた。


 鮎の串を片手で押さえて、箸でつついて食べようとしたサクに、それはかじって食べた方がいいわよと、教えてもらった。 

 

 いろいろな事を話す。いろいろな物を食べる。


 あたたかい食事。あたたかい会話。


 ふぅっとサクは満足のため息をついた。


「もう、お腹いっぱい?」

「うん」

 身体と心。その両方が、初めて満腹になった気がする。

「なら、ごちそうさまをしないとね」

「うん。ごちそうさま。美味しかった」

 サクの声は弾む。

「はい、ごちそうさまでした」

 フミが軽く頭を下げる。

 サクもあわてて頭を下げた。

「じゃあ、帰る支度をしようね。あなたの服を持ってくるわ」

「えっ?」

「ご飯は食べ終わったでしょう」

 フミは正座の状態から、すらりと立ち上がった。

 少年は立ち上がれずにいる。

「……だって、またお腹がすいちゃうよ」

 泣きそうな顔で呟く。


「なら、お弁当も持ってきましょう」


 すべてを分かったような顔でフミが笑う。

 外は雨が止んでいた。








 大人になってから、サクは『マヨヒガ』という奇談を知る。

 漢字で書くと『迷い家』。

 岩手県の遠野物語で有名な民話だが、調べてみると日本各地に似たような話があるようだ。


 典型的な概略はこんな感じだ。

 山奥に迷い込んだ人が、偶然にも立派な屋敷にたどり着く。

 外から呼びかけても返事がないので、おそるおそる入っていくと、屋敷の中には多くの食器が並べられ、火鉢には火が入っており、囲炉裏では湯が沸いている。

 つい先ほどまで人がいた様子はあるのに、呼びかけても応えはなく、探しても誰もいない。

 迷い人は、しばらく休息をしたあと、自分が気に入った食器を一つだけ持ち出し屋敷を出た。 

 屋敷から持ち帰った食器は不思議な力があり、その器で米を計るといつまでも尽きることなかったという。

 だが、一度マヨヒガにたどり着いた者は、その後いくら山の屋敷を訪ねようとしても、再び見つけることは出来なかった。


 自分の体験とよく似ている。

 マヨヒガが出てくる、遠野物語六十三話では、「黒い門」「紅白の花」までが一致していた。

 だが、どの伝承でもマヨヒガは無人の館となっている。

 けれど、あの家にはフミがいた。

 あの人はいったい何だったんだろう。




 




 あの屋敷から家に帰り着いたのは深夜だった。

 サクの家の明かりは消えている。そのことに、ほっとしながら、寂しさを覚える。

 怒られないのは嬉しいけど、こんなに遅くなってさえ心配してくれない。

 足音を殺して家に入り、台所の明かりをつけた。


 持たされた竹のお弁当箱をあける。


 おにぎり。

 卵焼き。

 里芋と人参の煮物。

 キュウリの漬け物。

 鮎の甘露煮。


 目にも美味しそうなお弁当。


「いただきます」

 両手を合わせ、フミに教わった挨拶をして、食べようとした時、トイレの水が流れる音がした。

 あわてて椅子の上に置いて隠したが、臭いまでは隠しきれない。


「なんだぁ~、明かりが点いていると思ったら、うまそうな物があるな」

 鼻をひくひくさせた男に見つけられてしまった。

「ボクのだよ、返して!」

「うるせぇな。ちょっと味見するだけだよ」

 男は左手で弁当箱を持ち、素手で黄金色の卵焼きをつまむ。

「返して、ねぇ!」


「うるせえっ!」


 平均身長を大きく下回った背丈では、サクが両手を伸ばしても、弁当箱に届かない。

 からかうように、見せびらかすようにしながら、男は卵焼きを食べきった。


「うるさいわねぇ。あら、美味しそう」


 騒ぎに母親まで起き出した。

「食うか?」

「ちょうだい」

 派手なネグリジェを着た母が、上半身裸の男にしなだれかかる。

「返して、ねぇ」

「あら、美味しい。これ、ビールのつまみにいいわね」

 鮎の甘露煮で汚れた指先をなめた母が、冷蔵庫からビールを取り出した。

「おっ。気が利くな」

「ねぇ」


「うるせぇっ!」


 男がサクの腹を蹴る。

 床に倒れ、咳き込む子供を、母親が指をさして笑った。


「あら、それでおにぎりは最後なのね」

「なら、半分っこするか」

「嬉しい」

 子供の弁当を大人達がむしゃぶり食う。

 止めたいのに、殴られる恐怖で身体が動かない。蛇ににらまれたカエルのようだ。

「ほらよ」

 しばらくすると、蓋をした弁当箱がサクの前に放り投げられた。


 軽い音。


 悔しくて悲しくて、弁当箱をひっつかんで、外に出た。

 夜の道を走って走って、呼吸が苦しくなって、足が止まるまで走った。

 崩れるようにしゃがみ込んで、空を見上げる。


 おぼろげな街灯。その上に、宵の雨が嘘のような綺麗な月。


 下を向き、唇をかみしめて、竹細工のフタを開ける。

 

 サクは目を見開いた。


 たよりない明かりが映したのは、無惨な食べ残しではなく心にも美味しそうなお弁当。


 震える指で、おにぎりに触れた。

 ちゃんと触れる。夢じゃない。

 赤ジソ漬けで巻いてあるおにぎりを食べる。


 しょっぱい。

 おいしい。

 うれしい。

 かなしい。


 涙が出てきた。食べ続けた。


 まず食べて、それから生きて。


 迷う蛾じゃない、違うものになると、お弁当をくれた何かに誓った。




                                             了



読んでいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] まず、サクが大人になるまで生きられたことがわかり、ホッと一安心。 辛くて悲しい話ですが、同時に幻想的であたたかみがあるので、すんなり読めました。 親に捨てられ、身近に頼れる人もいない孤独…
[一言] 初めまして、こんばんは。絵本に出てきそうな御話が、育児放棄された子どものリアルさを和らげ、ともすれば凄惨な印象を与えかねないこの物語を優しく包んでいるように思いました。おとぎ話系の物語が好き…
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