選ばれし者
早朝。
社員はほぼいない。
床掃除をしながらおばちゃん二人はぺちゃくちゃと喋る。
「それでさぁ、もう私ほんとに腹立ったのよ~」
「金と愛ねぇ…金で愛は買えないことをわかってないのよ、その人」
「そうよねぇ、ほんとに金にしか目がないって感じだったわよ」
「かわいそうな人ねぇ」
「私嫌いだわ~ああいう人は」
「あたしも」
義務的にいつも通り床を拭いてモップを片づけに行く。
こうしてパート仲間と話していても愚痴が多い。
それも主婦のパートが大半で旦那や子供の愚痴を一方的に言いだす。
自分は独身だし、聞くしかない。
正直、つまらない。世の中つまらないことだらけだ。
「そう言えば今日新しいモップが来たのよ。古いモップと新しいのを入れ替えしといてってチーフが言ってたわよ」
「やっと来たの?まったく金があるならさっさと掃除道具ぐらい揃えてほしいわよねぇ」
「そうねぇ…ああ、これよ、これ」
「新品!やっぱり新品の方が使いやすそうじゃない」
「ねー、早く換えちゃいましょうか」
新品のモップは4本。
二人で2本ずつ持って掃除用具入れの場所まで運んだ。
古いモップを外の廊下に出して行く。3本出して4本目で手が止まる。
「ちょっと、何よこれ…バケツにはまっちゃってるじゃない」
「ああ、それね。それは無理よ貴美子さん」
「えぇ?」
「そのモップよ。例の伝説のモップは」
「ああ、これだったの」
伝説のモップ。
このモップはどんなに力の強い人でも抜けないのだそうだ。
試しに昔、プロレスラーの知り合いがいる社員の人に頼んでこのモップを抜いてもらおうとしたことがあるらしいが、それでも抜けなかったとか。
何人かで引っ張っても、モップにロープをくくりつけて何十人かで綱引きのように引っ張ってみても抜けなかったらしい。
それどころかどんなに乱暴に扱っても真っ直ぐにバケツに刺さっており、木でできている柄の部分が古くなっていても折れることもないのだそうだ。
社員は不気味がってこのモップを捨てようとしたのだが、ある日一人のパートの男の人がいつの間にかこのモップを抜いていて、掃除に使っていたそうなのだ。
するとその男の人はパートから社員になり、その後どんどん出世していったのだとか。
パートの人は入れ替わりが激しいため、その男の人の最後を知る者はいないが、伝説のモップとしてパート仲間内で代々ずっと噂され続けているのだった。
「すっかり忘れてたけど、このモップを抜いた人は特別な力が手に入るんだっけ?」
「そうそう、だから選ばれし者だけが抜けるのよ」
「やだ、そんなに真面目に言わないでよ。でも噂でしょー?大体最初に抜いた人がいるのになんでこのモップはまたここに刺さってるのよ」
「もう、貴美子さんやっぱりちゃんと聞いてなかったのねぇ…最初に入った時に先輩達がずっとこの話しを後輩のあたし達にしてたじゃないの」
「ああ、そう言えばそうだったわねー。懐かしいわぁ…先輩達しつこかったわよね」
「でもあの頃はあたしよくこのモップのこと気にして見てたわ~」
「そうだったの?」
「そうよ~。あ、そうそう、貴美子さんのさっきの答えを言うとねぇ…」
最初にモップを抜いた男の人は、掃除の時に必ずこのモップを使ったのだそうだ。
そして使い終わると、またこのバケツに刺して帰って行っていたのだそうだ。
他の人が抜こうとしてもやっぱりびくともしなかったらしい。
つまりこのモップは抜いた男の人しか使えなかったのだ。
男の人は社員になり、掃除をしなくなった。
特別な力を手にして出世することができたため、モップは必要なくなった。
そしてこのモップは、次の「選ばれし者」を待っているのではないか、次にこのモップを抜く者がいつかまた現れるのではないかと密かに言われている。
だからこのモップがここに刺さっているということは、男の人が社員になって出世して行ったあと、このモップを抜ける「選ばれし者」がまだずっと現れていないということだ。
「埃だらけねぇ、このモップ」
「そうねぇ、誰も抜けないし、ずっと隅の方にあるわよねー」
「こんなの力入れれば簡単に抜けそう…なの…に…」
笑いながら柄の部分を持ってちょっとふざけて軽く引っ張り上げてみただけだった。
モップは簡単に上に持ち上がり、バケツから離れていた。
完全にモップはバケツから抜けていたのだ。
「え…?」
「き、貴美子さん……モップが…」
「ぬ、抜けるなんて思ってなかっ…」
「はぁ~、5階の掃除も終わったわよ~、腰痛い腰痛い」
「あら?中村さん達はもう終わったのよね?」
「古いモップが出てるってことはやっと新しいのが来たの?」
三人のパート仲間がモップを片づけに入ってきてこっちを見ると口を開けたまま黙った。
やはり自分のことを見ていた。
「貴美ちゃん、そのモップって…」
「まさかあの伝説の…?」
三人が驚いた顔で近付いてきた。
バケツから抜けているモップと私をまじまじと見ていた。
「抜けちゃったみたい…?」
首を傾げつつ苦笑いすると、自分以外のパート仲間達は喜びはじめた。
「すごいじゃない!貴美ちゃん!選ばれし者よ!」
「貴美子さんが選ばれし者だったなんて…!」
「あたしの代で選ばれし者が現れるとは思ってなかったよ!」
「すごいわぁ、いいわねぇ、よかったわねぇ中村さん…!勇者みたいじゃない!」
そして翌日から私のあだ名は「選ばれし者」や「勇者」になったのだった。