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桜舞う季節に  作者: 神賀
14/21

14.傷心 [LonelY] -皆心に傷がある-

 ただいま、と呟きつつ玄関を開けると、疲れた顔のおっさんが靴を履こうとしゃがみこんでいた。おっさんは俺に気付くと、口の端を奇妙に歪めて笑みを浮かべる。いかにも憔悴したその顔はテンプレな中間管理職のサラリーマン像を思い起こさせた。


「おかえり」

「あ、ああ。どうしたんだ親父。そんなにげっそりとして」


 親父は履きかけの靴もそのままに、ゆっくりと俯いてその悲痛な顔を手で覆い隠し、か細い声で鳴いた。


「急で悪いが……母さんと外食してくる」

「あ、ああ……」


 本当に急すぎる。別に止めるつもりはないが、なんだっていきなり。不思議に思うのと朝の光景が脳裏によぎったのは同時だった。


「あー。もしかして朝の埋め合わせ?」

「ああ」

「てことは姉貴も一緒に?」

「ああ。美琴も行く」


 そうか。家の奥から感じられる親父の暗い雰囲気とは正反対の慌しい空気はそのためか。なんだか奥とこことが全く別の異空間のようだ。落差が激し過ぎる。


 おかげで何もかもを理解した。もう言葉は不要だ。だのに、陰鬱な空気の元凶である親父は力無く言葉を続ける。もう無理して喋らなくていいのに。


「経緯、説明した方がいいか?」

「むしろ聞きたくない。想像もつく」

「じゃあ、お前も来るか?」

「行きたくない」

「なら金貸してくれ」

「そうしたいのはやまやまなんだが23円しか持ってない」

「そうか……お前の夕飯は横田さんに頼んである」

「ありがとう。その、頑張ってくれ」


 俺の励ましが効いたのか、ううっ、と大の大人の情けない呻き声が響いた。俺は聞こえなかった振りをして再び外へ赴き玄関の戸をゆっくりと、本当にゆっくりと閉めた。扉が閉じきる最後の瞬間までうなだれた親父の姿を目に焼き付けながら。


「これが理由か」


 落ちかけている太陽を目を細めて眺め、一つ溜息を吐く。


「小池よ、お前が語ったどんな妄想よりも酷い結果だったぞ」


 陰惨と言う言葉が似合うほどに。


 それはそれとして、夕飯は食わねばなるまい。まぶたの裏に浮かぶ父の姿を振り切り、俺はお隣の横田家へと向かった。呼び鈴も鳴らさず速攻で玄関のドアを開けると、中へと声をかける。


「ごめんくださーい、誠でーす」

「上がっていいわよー」

「お邪魔しまーす」


 即座に了承されたので遠慮なく上がりこみリビングを目指す。勝手知ったるという奴だ。幼い頃から入り浸っているここは第二の我が家と言っても過言ではない。その証として、墨の柱に俺と真尋の背比べの結果がいくつも彫ってある。

 

 テレビの音が響いてくるリビングのドアの向こうには、これまた第二の母とも呼べる人物がいた。真尋の母であるその人は野菜を洗う手を止めずに振り返り、肩口で切り揃えられた黒髪を揺らして柔らかな視線を俺へと向ける。最近富に目立ってきたほうれい線が少々気になるものの、やっぱりいつもの様にその笑顔は眩しい。笑うと余計に真尋と似てるんだよなあ。


「おかえり誠君。真尋は一緒じゃないの?」

「ただいま。諸事情で俺だけ先に帰ってきたんだ。真尋もそろそろ帰ってくると思う。んで、ウチにはおばさんだけしかいねえの?」

「俺もいるよー」


 ソファからにゅっと日に焼けた腕だけが飛び出てくる。死角にいたから姿が見えなかっただけか。


「おう、八尋。随分と早いな。部活はどうした」

「今日は監督がいなくて自主練らしいから部活するしないは自由だってさ」


 回り込むと、ソファに寝っ転がっていた八尋が体を起こして場所を空けてくれた。当然の如く俺は空いたスペースにどっかりと座り込む。


「その様子じゃ期待外れで肩透かし食らったようだな。入学する前に言った通りだっただろう?」

「うん。ちょっとレベル低いなぁってさ」

「どっか強い学校行けば良かったろうに。引く手数多だったんじゃないのか?」

「そうだけどさー、こっちの方が家近いし」


 その気持ちは凄く分かる。俺も同じだからな。通学距離が遠いとそれだけで学校行きたくなくなる。


「それにさ、俺の憧れはマコちゃんなんだ。一緒の学校行けるチャンスがあるならそれを選ぶのは当然だって」


 よくもまぁそんな事を真顔で、しかも本人の目の前で言えたものだ。


「恥ずかしいからやめい」

「はははは。どう?俺と一緒にサッカーやらない?今からだって遅くないよ。そしたらきっとウチでも相当なレベルになると思うんだ」

「何を無茶苦茶言ってんだよ」

「無理かなぁ?自信ない?」

「そうじゃねえ。本当にやれば県上位レベルくらい簡単に行けるだろうさ。ただ俺がやる気になるのがそもそも無理ってもんだ。第一、お前一人でもそのレベルなら手が届くだろ?」


 八尋は肩をすくめて残念そうに頭を振った。


「できればもっと上を目指したかったんだけどね」

「育てりゃいい。俺も今日チラッと見てきたが、お前についていける素質がありそうな奴は三人ほどいたぞ。既にそのレベルにあるのも一人いた」

「ありゃりゃ、そこまで分かっちゃうんだ。やっぱマコちゃんすげーよ」

「そんなことはねえさ。もっとすげえ奴はいくらでもいる」


 偶然にも目の前のテレビでニュースに上がっている人物はそのすげえ奴だった。高校生でありながら緊張感の欠片も見せずに堂々とインタビューを受けているそいつは陸上界のホープ、舞坂桜児まいさかおうじ。今年開催されるオリンピックに弱冠17歳でありながらエントリーされている。


 それも当然だろう。かつて自惚れていた俺を打ち負かし、鍛錬の末に日本記録さえ超えてみせたこいつは正真正銘の天才だ。人懐っこい性格とどこか幼さの抜けない甘いマスクも相まって、名前通りに王子という呼び名で親しまれ、期待されている。凄く簡潔に言うと、実力の伴ったイケメンだ。天が二物を与えた存在であり、そんじょそこらの奴とは格が違う。


 舞坂は「調子はどう?」といやに慣れ慣れしい態度で質問する女性リポーターに笑いながら「上々ですよ」と答えた。続いて「緊張とか、不安とかない?」と聞かれると、しばらく俯いてから顔を上げ、妙な事を口走った。


「昔の……人生をかけた大勝負をしたときと比べれば大したことないですね」

「それは初めて聞く話ね。どんな勝負だったの?」

「負けた方が陸上をやめる。そういう勝負でした」

「それは本当に大事だわ。王子君の才能が潰されかけていたってことでしょう?なんでそんな勝負をしたの?」

「天才は二人もいらない。あいつはそう言ってました。その勝負で勝ちを得たから今の僕はここにあります。本当なら……いえ、負けたあいつの分まで僕は全力で走りますよ。皆さんの期待に応えて、必ず金色のメダルを取ってきます」


 あいつがそう言って綺麗に締めくくると画面はテレビスタジオへと切り替わった。


「随分と懐かしい事を言ってくれるなあ」


 感慨がそのまま言葉に出てしまった。確か真面目腐ったあいつの態度にイライラしていた俺が、喧嘩腰で勝負を吹っかけたのが始まりだったっけか。今思えばあの苛立ちも、本能的に自分に匹敵する匂いを嗅ぎ付けたことによる危機感からきていたのかもしれん。


 昔を思い出したせいか、知らず目を細めていたことに気付く。俺らしくないと頭を振って八尋を見ると、その顔は少し苦々しいものになっていた。目が合うと取り繕うように八尋の口が動く。


「えーと、今日の夕飯なんだろうね、マコちゃん」

「匂いからしてカレーじゃないことは確かだな」


 いかんな、弟分に気を使わせてしまった。別段落ち込んだりしていないし、むしろ気分が晴れたくらいなのだが、ちと思慮に欠けた態度だったか。


「夕飯、夕飯か……」


 うむ、空気を換えるためにも少々動くとしよう。


「おばさん、俺も料理手伝うよ」

「あらあら、気を使わないでもいいのよ誠君。八尋なんて食べるだけなんだから」

「だって俺料理下手だし、適材適所って奴だよ」


 八尋が不服そうに声を上げると、おばさんはさして気にした風でもなく笑った。


「ほら、あんなこと言ってるくらいよ?」

「そういうんじゃないよ。これは弔い合戦だ」


 舞坂の言葉を借りるようだが、親父の分までおいしいご飯を食べておかないとな。自身の力で得たもの程、その価値は大きい。


「ふふ、そういうことね」


 じゃあお願いしようかしら、とおばさんは苦笑して包丁を俺に渡し、じゃがいもの皮を剥いて乱切りするように頼んできた。今日のメニューは肉じゃがらしい。


 既にいくつか皮剥きは終わっていたが、残りの数個もちゃっちゃとピラーで剥いてしまう。続いて包丁を握りこみトントンとリズム良く乱切りにしていく。


「マコちゃんは本当になんでもできるよなあ」


 ニュースを見るのも飽きたのか、八尋がぼんやりと俺の手つきを眺めていた。


「慣れれば誰でもできるさ。お前もやってみたらどうだ」

「適材適所って言ったじゃん」


 くるりと手首を返して包丁の持ち手を差し出してみると、八尋はそれを受け取らず手を横に振って拒絶の意思を示した。


「正直言うと、家庭科の授業でやってみたら指切っちゃったことあるんだ。だから俺には向いてないよ」

「意外だな。手先の器用なお前がミスるとは」

「んー、まぁ理由が無いわけじゃないんけど……」


 ほつれたボタンを自分で縫うような真似をする男の台詞とは思えん。

 怪訝に思いながらも再び手首を返してじゃがいも切断を続けようとしたところで、いきなり耳元に元気の良い声が響いた。


「ただいまー!おにいちゃーん!」


 鼻腔をくすぐる香り。背中から感じられる息遣い。そして襲いくる俺を押し倒さんばかりの衝撃。手元が狂い、包丁の切っ先がじゃがいもを押さえていた左手に振り下ろされる。それと同時に俺の首まわりを小さな手がぐるりと覆い隠す様子が異常なほどゆっくりと目に映る。


「────ッ!」


 戦慄と恐怖が俺の常人離れした反射神経を刺激する。左手がじゃがいもから離れるのと、包丁の刃がまな板に叩きつけられるのは僅か数瞬の差だった。


「うおおおおお!あぶねえええええ!」


 冷や汗がどっと溢れ出る。一歩間違えれば指ごと切るところだった。


「説明する手間が省けたなあ。これが理由ね」


 はぁはぁと荒く息をつく俺と対照的に、八尋は至極冷静だった。お前これの経験者か。洒落にならねえぞ。


「下手したら血どころか命も失いかねんぞコレ」

「まぁねえ。マコちゃんもだけど、運動神経が良くて助かったよ。マジで」


 確かに。しかしそれは結果論だ。危険を作り出したそもそもの原因にはきつく説教してやらねばなるまい。俺はすぐさま背中にぶら下がり「はぁはぁ、おにいちゃあん」と猫なで声で鳴くツインテールの少女に怒声を浴びせる。


「こら千尋!料理中にやめんか!危ないだろうが!」

「えー?でも、おにいちゃんならどんな時でも私を受け止めてくれると思ったし!実際そうだったし!」


 全幅の信頼を寄せてくれていることはよく分かったが、そいつを間違った方向に持っていっていやがる。俺は神様でも英雄でもないんだ。トラックに轢かれたら死ぬし、刺されても当然死ぬし、女の子に抱きつかれたなら興奮する!


「ええい、そもそも不用意に異性に抱きつくな!男はみんな狼なんだぞ!俺だって飢えれば食いかねんぞ!」

「えへへ、いざそうなってもお姉ちゃんに護身術教えてもらってるから大丈夫だよー?見てて!」


 抱きついていた千尋は俺の首にまわされていた腕を解いて少し距離を置くと、その小さな足を振り上げた。空気を切り裂く螺旋を描き、俺の目前を通り過ぎていったその強烈な回し蹴りは、つい先日の柳川と暴虐の化身である姉貴を思い起こさせる。最近俺の周りではスカートがひらめきすぎなんじゃなかろうか。思わず上ずった声を出してしまった。


「ね?」

「ね、じゃねーよ!危ないつってんだろうが!」

「んもー、おにいちゃんは我侭だなあ」

「千尋、いい加減にしろよ。マコちゃんの言うとおりだろ。あとその護身術の試し切りに俺を使うのはやめろ」

「ぶー。八尋のけち」


 ふてくされたその顔は中々真尋が見せてくれない物なのでちょっと物珍しげに見てしまう。良く似た兄妹だからあいつもこんな顔するんだろうな。リスのように頬を膨らませて、まるで小さな子供のようだ。


「大体お前は加減を知らないことが問題なんだよ。ミコ姉しかり、マコちゃんがどれだけその加減知らずに手を焼かされているか分かってんの?俺もすげー迷惑してんのが分かんないの?」

「おにいちゃーん!八尋がいじめるー!」


 言動まで子供そのものだった。この程度のことで目を潤ませている。仕方ない。子供のように慰めてやるとしよう。あと、しれっと自分の不満も混ぜ込んでいる八尋はスルーしてやろう。


 ぽんと頭の上に手を置いて、撫で擦ってやる。全く、どいつもこいつも髪がさらさらだな。


「いじめではなく正当な物言いだと思うぞ。分かってやれ」

「でもぉ……」

「ほら、そんな悲しそうな顔すんな。あと俺からも頼む。姉貴の真似はやめてくれ」

「うー……」


 第二の姉貴誕生なんて事態になったら目も当てられない。千尋には天真爛漫のままでいて欲しい。でないと八尋が第二の俺になる。千尋に虐げられる八尋なんて構図を思い浮かべるだけで居たたまれない気持ちになってくる。


 しかし、そんな妄想に耽ったのは油断だった。


「隙ありーっ!」


 千尋の泣きそうな顔はどうやら擬態だったらしい。ちくしょうめ、大成功だよ。俺は抱きついてきた千尋を避けることもできず、そのまま体で受け止めて体勢を崩さないようなんとかこらえる他なかった。なにせ俺の右手には包丁が握られている。不用意な回避動作は割りと洒落にならない事態に発展する可能性がある。


「はぁはぁ、おにいちゃんの匂いがするぅ……」

「お前……」

「なんかごめん、マコちゃん……」


 千尋は俺の胸に顔をうずめて恍惚の表情を浮かべていた。これは不味い。なんか行動というか、考え方まで姉貴に染まってきている気がする。千尋の将来が危うい。


 親としてはこの事態をどう捉えてるんだ?そう思って流し台へ目を向けたが、おばさんはちっとも気にせず何処吹く風だ。こちらは完全無視で切り終わった肉を鍋に投入している。娘が垣間見せている変態性に気付いていないらしい。


 まぁ、そうかもしれん。真尋を育てた人だからな。多少の事では動じないか。しかし、それはあくまで母親の意見であり、もう片方がそうであるとは限らない。


 流し台の反対側、リビングの入り口の方から、どさりと床に何かが落ちた音がして振り向くと、もう一人の親である横田忠尋よこたただひろさんがわなわなと口を震わせて立っていた。音の正体は足元に転がっている鞄か。


「貴様、真尋だけでなく千尋までも……!」

「違うんだお父さん!」

「貴様にお父さんなどと呼ばれる筋合いは無いッ!!」


 ごもっとも。ちょっとふざけてみただけだ。傍から見れば俺はさぞ人の悪い笑みを浮かべていることだろう。


「からかうのはやめてやってよ」

「ははは、いやあ、いつもの様に逃げ出されないのがちょっと嬉しくてつい、な」


 八尋に注意されてしまったが、俺は今気分がいい。別に女の子が抱きついているからじゃない。返した言葉通りだ。いつもなら、どういうわけかおじさんは俺を見るだけで恐慌に陥り、脱兎の如く逃げだすのだが、今回に限ってはそれがない。それが例え俺に対する怒りによるものであっても、それだけで嬉しいのだ。


 おぼろげな記憶だが、不甲斐ない俺の親父と比べておじさんは全うに父親の役割を果たしてくれていた。あの時もそうだった。俺が───


「さっ……さっさと千尋をはな、放すんだ!」

「あれ?」


 包丁を握っている手が妙に熱い。なんかこの状況に既視感を感じる。俺に体を寄せる小さな存在。それを奪おうとする大人の男。


「ただいまー……どうしたの?」


 帰ってきた真尋が不思議そうな顔でおじさんの背後から覗き込んでいる。その顔には見覚えがある。あの時はもっと近くにいた。確か、今千尋が居る場所にそれを見た。


 記憶が蘇る。胸が痛い。




 ◆




「誠。真尋を放しなさい」

「い、嫌だっ!!」

「何度も言ったはずだ。真尋は男なんだ。お前と結婚はできない」

「おとーさん、なにを言ってるの?ボク、おんなのこだよ?」


 そう、そうなんだ。真尋は女の子なんだ。でないとオレたちはケッコンできない。だいたい、もし真尋が男だったらオレたちがへんたいになるじゃないか。


 そうだ、そうだよ。そうなんだ。


「あはは、真尋が、こんなカワイイ子が男の子なわけないッ!」

「誠、お前は頭がいい。その年で既に分別がある。だから分かるはずだ……可愛いからこそ男の子であると。現実を、事実をそのままに受け止めるんだ」


 おじさんは冷静だ。でもその言葉はつめたすぎてオレにはひびかない。まるで刃物のようにえいりなだけだ。


「違う違う違う違う!オレは、真尋は、おれは、こいつは……っ!!」

「いや、もういい。分かった。まずは包丁を放せ。とりあえず落ち着こう、な?」

「へんたいじゃねえええええええええ!!」


 だからオレはつめたい言葉につめたい刃で切り返した。




 ◆




 まさかこんな事で思い出してしまうとは予想外だった。人間、何がきっかけになるか分かったもんじゃないな。


 手に持った包丁をついと掲げて見やる。鋭利な刃物が血塗れた結果、俺から発生した恐怖は俺自身もおじさんも飲み込んだ。俺はそれから忘却という手段で逃げてしまったが、おじさんは抱えたままでずっと戦ってたんだな。たった一人で孤独のまま。なんて生真面目で強い人だ。


 本当の親父と違って心から尊敬する。


 それをはっきりと認識した今、その尊敬に値する人から向けられる眼差しが凄く痛い。胸に痛い。


「つーか、包丁しまえ!殺す気か!」

「おじさん!違うんだおじさん!そんなこともうしねえよ!俺は至って冷静だよ!」

「いいから包丁しまえ!いや、しまって下さい!」


 俺を指差すおじさんの手には未だ消えぬ縫い後が見える。傷は治っても跡は残る。こいつはきっとそういう事なんだ。俺の心にも、真尋の心にも、おじさんの心にもきっと癒しが必要だ。長い長い癒しが必要なんだ。


 だから、まず手始めに心を込めた料理を提供しよう。暖かい料理を食べよう。そのためにも手の中のこいつはまだ必要だ。


「でもこれは料理に必要なんだ!俺達を癒す料理を作るために!」

「そんな事はどうでもいいからマジでしまえよ!本当にしまえよ、ちくしょう!!」


 おじさんの必死な顔が目に焼きつく。


「あら、もう切り終わってるからあとは煮込むだけよ?もうすぐ出来るから待っててね」

「あ、そうなの。じゃあ包丁とまな板片付けるわ」


 あっさりと引き下がった俺が、あうあうと嘆く千尋を引き剥がして背を向けると、おじさんは力なくその場に崩れ落ち、ポツリと呟いた。


「俺は、勝った、勝ったんだ……!!」


 俺は背を向けたままその言葉に力強く頷く。

 そうだ。今日、この日は俺達が過去と決別した勝利の日。

 おそらく俺とおじさん以外には理解できないが、この感慨は筆舌に尽くしがたい。


 おかげさまで、肉じゃがは超美味かった。思い返すと涎が出るくらいに美味かった。

 きっとおじさんもそうだったのだろう。

 涙ながらに食べていた様子が鮮烈に記憶に残っている。

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