11.追憶 [LosT] -今も昔も封印対象-
夢を見た。昔の夢だ。
走っていた。ただひたすら前を向いて走っていた。躓いて転んだ。足が痛くて動けない。その間にたくさんの人間に追い越されていく。俺は痛みに耐えきれず、ただ泣き続けるだけだった。
そういう夢を見た後は、いつもより早く目が覚める。そして決まって眠気は無く、頭の中も変にすっきりしている。二度寝しようとも思わない。
目覚まし時計を見やると、まだ六時を示していた。
「…またか」
久しぶりに見た夢だった。すっかり吹っ切れたと思っていたのに、蔵野のおかげで呼び起こされてしまったらしい。
とはいえ、昔とは状況が違う。俺だって変わった。
目を強く擦って布団から抜け出した。鳴り始める前に目覚まし時計のスイッチを切って、とりあえず顔でも洗ってこようと洗面所へ向かう。
洗面所には先客がいた。こちらに背を向けてじゃばじゃば顔を洗っているようだ。頭からは明らかに適当な縛り方をした髪の房が一本垂れ下がり、小刻みに揺れていた。こう言うの見ると、なんだか無性に引っ張りたくなるよね。なんなのだろう、この心理。
なんて益体も無いことを考えて、なんとなくじっと見ていると、その人、俺の母は洗面が済んだようで、タオルで顔を拭きつつこちらを向いた。
「あら、今日は早いのね。おはよう」
「おはよう」
いつも通りの朝の挨拶。そしていつも通りのエプロン姿。既に朝食の準備は済んでいるのだろう。あれ?だったら何故今頃顔を洗っているのだろう?
「誠ちゃん、顔洗ったらご飯食べていいわよ。もうできてるから」
「ああ、わかったよ」
予想通り、既に準備はできていたようだ。それを告げる母さんはとてもとても穏やかで──
「うふふふ、今日は朝から気持ちよく過ごせそうだわぁ」
凄絶な笑みを浮かべていた。
それはまるで姉貴を想起させて、いや、この場合は姉貴が母さんに似たのだが、正直言って身が震えた。さすがは元祖、醸し出すオーラが半端無い。なんというか、やばい。凄いやばい。
しかし、母さんは俺に対して特に何かしてくる様子はない。おっかなびっくり、洗面台へと近寄る。
「ふふ、ふふふふ……」
俺は隣の洗濯機で洗い物を取り出してはニヤニヤと笑っている母さんをチラチラ横目で見つつも、手早く顔を洗い、食卓へと急いだ。
ふぅ、ちょっと落ち着こう。まず座れ。話はそれからだぞ俺。
テーブルに肘をつき、額の前で手を組む。そうして、先ほどの母親の笑顔を思い出す。ヤバイ、そう、ヤバイのだ。あの笑顔でいるということはつまり、母さんにとって良い事があった、もしくはこれからあるという事に違いない。だが俺の経験則からいって、それは必ず…
「ほう、珍しく早いじゃないか」
突然声をかけられ、思考中断。振り返ると、後ろ手に引き戸を閉めようとして、結局大部分開けっ放しにしてしまっている色んな意味で締まりの無い父親が目に入った。
親父は、無精ひげをさすりながら窓の外を見る。
「今日は雨が降るかも知れんなぁ」
笑いながら失礼なことを言いやがる。確かに曇ってるけど。言い返そうかとも思ったが、今はそれどころじゃない。一刻も早く相談する必要がある。
「親父、大変だ。母さんが笑ってたんだ」
「そりゃ結構なことじゃな……まさか……!」
「そのまさかだ。あの笑顔は間違いねえ。どうする?」
「ミコト…美琴を起こして来い!急げ!」
美琴というのは姉の名前だ。確かに、あの状態の母さんを宥めすかすにはそれが一番手っ取り早いんだが……
「断固として断る!」
「なっ…!お前は何を言ってるか分かってるのか!?」
「もちろんだ」
ああ、話してる間に頭が冴えてきた。そう、俺があわてる必要はなかったんだ。
「姉貴をこんな朝早くに起こしても殴られるのがオチだ。挙句、なんだかんだで起きない可能性の方が大きい」
「しかしだな……!!」
親父はそわそわと、座りもせずに右往左往している。こりゃ間違いないな。
「親父。何か身に覚えあるんだろ?よく考えてみりゃ、俺さっき母さんに投げ飛ばされたわけでもなし、間違いなく対象はオヤジだ」
びくっと親父の体が震える。
「何やったかしらねえけどとりあえず謝って――」
俺の言葉はそこで途切れた。右往左往する親父の向こう、洗面所へと続く入り口から母親のにこやかな笑顔がのぞいている。その目は確実に親父を捉えていた。
……よし、俺は何も見なかった。
そわそわうろうろする親父をよそに傍観する事を決めた俺は、ご飯を大盛りについでいく。うひょー。この白米見るだけで涎でてきそー。
「おはようございます、あ・な・た」
「うぉッ!いつの間に背後に!?」
俺が丁度味噌汁をつぎ始めたところで、哀れな獲物は喉元に殺気という牙を突きつけられた。
「ちょっと聞きたい事があるのよねぇ」
「な、なんだい?母さんや」
顔面蒼白の親父と凄絶な笑顔の母親。そして一人飯をかき込む俺。白米超うめえ。
「さて問題です。これはなんでしょう?」
「そ、それは…!」
母親が取り出したるはひとつのカード。オウ、ただのカードだ。ピンク色の。まごうことなき桃色の。本格的に展開が読めたので、俺は朝飯に集中する事にした。
「イヤ違うんだそれは坂西がどうしてもというので付き合っただけであって俺本来の気持ちとしてはいくつもりがなかったというかなんというか」
嘘つけ。
「じゃあ、これはいらないわよね?」
言うや否や、母はそのカードを投げ捨てた。カードは飯をかっ喰らう俺の真横を通り過ぎ、空気を切り裂いて壁に突き刺さった。え、突きっ…突き刺さっ…ええっ!?
「まて!落ち着け!話せばわかる!」
焦る親父の頬から血がにじむ。皮膚を切り裂いたらしい。なんて豪傑な桃色カードだ。安い店に行ったのだろうと思っていたが、金属製のプレートとは、もしかして高いお店とかなのか?俺は行った事無いから知らんが、店のグレードでそういう小品も地味に変わったりするのかもしれない。
興味が沸いたので、ちょっと見てみる事にした俺は、白米をもごもとと咀嚼しつつ、その桃色カードを壁から引き抜く。
「もごもご、むぅ、これは…!!」
ご飯を飲み込むと、その手に握ったカードをわざとらしく掲げる。
この色艶、感触、どれをとっても紛れもなく本物のプラスチック製だ。
「え?何コレ?マジでプラスチック?」
人差し指と中指、そして親指を使ってカードを挟みこみ、湾曲するように力を込めてやると、カードはぺこぺこと独特の音を立てながらぐにぐにと曲がる。ぺこぺこ。曲がる。ぺこぺこ。曲がる。ぺこぺこ。「うああああ!」ぺこぺこ「ひぎぃ!」ぺこぺこぺこ「ごめんなさい!ごめんなさい!」ぺこぺこぺこぺこ。
俺がなんとなくカードをぺこぺこしているうちに、親父は腕ひしぎ十字固めをかけられていた。ぎりぎりみしみしと骨が悲鳴を上げているような音が聞こえる。うむ、惚れ惚れするほど完璧に決まっているな。母さん柔道経験者だっけ?
しかし姉といい、母といい、うちの家系の女はどうしてこうも無駄に肉体的に強いんだ。まるで超人じゃないか。おしとやか、大和撫子、慎ましいといった言葉はあの人達の辞書には存在しないのだろうか。
そう言えば、俺がインスタントコーヒーの瓶のフタが回せず、開けられなくてうんうん唸ってたときに、母さんが横から掻っ攫って簡単に開けた、なんてエピソードもあったな。まぁ小学生のときだから俺の力が弱かったってのもあったんだけど、それからその瓶、フタが回しても回しても緩々な状態になっちゃったんだよね。
さらに、それから数年後、今度は姉貴が同じことをやってみせて、ああ、これが血か、と俺は酷く納得したものだ。なんかもう、嫌になってくるわ。
ふぅ、とため息をつく。
「もー…、朝っぱらからうるさいんだけどー…」
噂をすればなんとやら、あれに見えるは邪悪の化身、恐怖の代名詞、城崎美琴、もとい俺の姉ではないか。こんな朝早い時間に起きてくるなんて珍しい。
「やめてよー…二日酔いで頭痛いのにぃ……」
あ、やべぇ。明らかに機嫌が悪い。ツンツンと跳ね飛んだ髪が寝癖のせいか鬼の角のように見える。さっさと学校いかねえとめんどくさい事態に巻き込まれそうだ。
「なぁにぃ?またやってんのー…?」
まだ寝ぼけ気味なのが不幸中の幸いだ。早く逃げねば!
そのとき、焦る俺の耳に玄関の呼び鈴が聞こえてきた。続いて、
「おはよーございまーす。マコちゃーん、迎えに来たよー!」
と、いつもの幼馴染の声が届く。これが神の福音か。すかさず俺は返事を返す。
「よしきた!今行くすぐ行く急ぎ行く!」
ナイスタイミングだ、真尋!お前は俺の救世主かもしれんぞ!
急いで残りの飯をかきこんで、茶碗を炊事場に放り込むと、すぐさま俺は走り出し、玄関先へと駆けつける。
「わっ、マコちゃん、そんなに急がなくても待ってるからゆっくり……」
「何を言うか!ことは急を要するのだ!さあ行くぞ!すぐ行くぞ!さっさと行くぞ!」
言葉を返しつつも玄関前に放り出していたカバンを拾い上げ、動こうとしない真尋の手を引っつかんで、お魚くわえたドラ猫を追っかけるように外へと飛び出す。さすがに裸足じゃないが。
「いってらっしゃーい」
ふと後ろを振り返れば、笑顔で俺を送り出す母親が、親父にコブラツイストを決めているのが見えた。姉はその隣で、呆けたようにこちらに視線を向けている。
俺はその光景に封印を施すように玄関のドアを勢い良くしめた。
「よし」
俺は短くそうつぶやくと学校へと歩き出した。さすがに今起きたばかりの姉貴がわざわざ追いかけてはこないだろう。ひとまず危機は去ったな。
「えーと、マコちゃん?」
事態を良く飲み込めていない真尋がえらく困ったような顔をしていた。
「手……」
「え?ああ、すまんすまん」
そういえば手を握りっぱなしだったな。
よほど俺は焦っていたらしい。手を離すと、じっとりと汗で湿った手のひらが外気に触れて少しひんやりとした。
「もう学校行っていいの?」
「おう」
すでに歩き出したというに何を言っているんだ、真尋。
「慌てていたが財布も忘れちゃいないし、携帯も持っている」
昨日、全部カバンに突っ込んで、そのまま放置していたからな。カバンさえあれば事足りるのだ。
「でもパジャマのままだよ?」
「……え?」
なるほど、確かにパジャマのままだ。白い生地に黒く小さな水玉模様がステキなシルクパジャマのままだ。肌触りがすげえ心地良い服だ。雲間から覗きだしたお日様の光を浴びて、どことなく神々しくすら見える。
ああ、俺は今、輝いている…。
「マコちゃん、気取ってないで着替えてきた方が……」
「嫌だ。家は今、地獄そのものなんだぞ」
「でも」
「学校で体操服にでも着替えればいい。言い訳は途中で溺れた子犬を助けるために川に飛び込んでずぶ濡れになりました、だ。口裏を合わせて置けよ?幸いまだ六時半にもなってないし、目撃者もそうは…」
そこまで言いかけてふと思う。真尋ウチにくんの早すぎじゃね?それに双子は?まぁ、朝早すぎだし、まだ寝かせておいてもいいとは思うが、こいつが双子を置いてくるなんてちょっと意外だ。
「どしたの?」
きょとんとした顔で俺の目をまっすぐ見る真尋。負けずに俺も見返す。真尋はいつものようにあどけない顔で、俺の視線を全部受け止めてくれていた。そして徐々に顔が赤らんで……
「待てよ、なぜ頬を染める」
「え、いや、その…」
その照れた仕草がまた女の子そのものだ。もじもじしながら「てへへ」とかやめなさい。こっちが恥ずかしい。
「まぁいい。それよりも真尋。お前ウチにくるの早過ぎじゃねえか?」
「え?ああ、その、ちょっと嫌な夢見ちゃって早くに目が覚めてね。でもマコちゃんの顔見たら安心しちゃった」
「なんだ、俺と同じか」
「マコちゃんも怖い夢見たの?」
「ああ、そうだ。世にもおぞましいゾンビが出てきてただれた死肉を貪り食ってたんだ。そして死肉はお前の成れの果てだった。その死肉はゾンビにぐちゃぐちゃと噛まれながら生気のない虚ろな目で俺を見つめて、『た す け て』と…」
「…っ」
真尋は怖い話が苦手だ。俺と違って。俺が即興で適当に作った話でも超びびる。俺と違って。なので、俺がゾンビとか言ったあたりから、真尋は耳をふさいで目をつぶっていた。俺と違って。そうなると、当然周りが見えていない。しかし今は登校中であり、話しながらも歩いているわけで、周りが見えていないなら、
「いたっ!」
このとおり壁にぶつかってしまう。しかもそれだけでは終わらず、バランスを崩したのかふらふらとあとずさり、どすんとしりもちをついてしまった。
「いたた…」
ちょっと涙目でおでこをさすっている真尋を見て俺は、はぁ、とため息をついてしまった。まったく、漫画みたいなことしやがる。
「お前はアレか、アホの子なのか」
この歳になっても子供っぽさが全く抜けてねえ。まぁ、それは純真さを保ったまま清らかに成長したとも言えるし、ある意味、凄い貴重なのかもしれん。
「え、なに?まほ?」
「いや、なんでもない」
ああ、そのままのキミでいて。
心の中でそう呟き、俺は学校へと行くのであった。パジャマのままで。
「マコちゃん、やっぱり恥ずかしいよ……」
「心頭滅却すれば火もまた涼し!気にしたら負けだ!」
真尋の言葉もなんのその、俺はガンガン先へ進む。反して真尋は徐々に遅れてくる。そりゃそうだよね、パジャマ着たままの奴と一緒に歩いてたら恥ずかしいよね。俺だって恥ずかしいもの。だから俺はガンガン進む。真尋を置いてガンガン進む。
気付けば、その気持ちを忘れるために走り出していた。
※書き溜め分終了。以降、確実に更新頻度下がる。