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「古い家系図を読んでいるだけの婚約者はいらない」と捨てられたので、侯爵家の爵位継承申請から手を引きました。翌朝、元婚約者は“次期侯爵”ではなくなったそうです

作者: 余白書房
掲載日:2026/11/02

「古い家系図を読んでいるだけの女を、侯爵夫人にするつもりはない」


王立文書院の創設百周年を祝う夜会で、婚約者のエドガーはそう言った。


音楽が止まったわけでもないのに、私の周囲だけが妙に静かになる。


エドガーの隣には、真珠色のドレスをまとった伯爵令嬢セリーナがいた。

社交界では有名な人だ。明るく、話が上手で、舞踏会ではいつも人に囲まれている。


「リディア。君とは五年も婚約していたが、最後まで変わらなかったな。休日まで文書院に籠もって、古い紙の染みを眺めている。そんな女と一生暮らすのは御免だ」


「そうですか」


「セリーナなら、次期グランヴィル侯爵夫人として申し分ない」


その言葉に、私は一つだけ確認した。


「では、婚約は正式に解消ということでよろしいですね」


「ああ」


「承知しました」


私は胸元から小さな手帳を出し、明日の予定に一本線を引いた。


エドガーが不愉快そうに眉を寄せる。


「何をしている?」


「あなたの爵位継承申請に関する私的調査を終了しました」


「……何だ、それは」


「グランヴィル侯爵家の系譜調査です。婚約者だから無償で続けていましたが、婚約がなくなるなら、私が続ける理由もありません」


彼は鼻で笑った。


「家系図を読むだけだろう。もう必要な書類は揃っている」


「そう思われるのでしたら、問題ありません」


私は手帳を閉じた。


「それから、明日付で審査担当からも外れます。元婚約者の案件を私が扱うのは、公平ではありませんから」


「勝手にしろ」


「はい。そうします」


五年間の婚約は、それで終わった。



私、リディア・セルヴァンは、王立文書院で古文書の解読をしている。


王都の人たちには、よく「昔の字を読む仕事」と説明する。


間違いではない。


けれど、古い文字を読めるだけでは足りない。


同じ名前の人が三人いれば、生年、土地、納税記録、婚姻記録を突き合わせる。

火事で出生簿が焼けていれば、教会の洗礼記録や軍役名簿から血縁をたどる。

遺言状に「長男」とあっても、その長男が法律上の嫡子かどうかは別の記録で確かめる。


爵位、領地、相続、婚姻。


貴族が「昔からそうだった」と言うことほど、文書で確かめなければならない。


エドガーが「次期グランヴィル侯爵」と呼ばれているのも、まだ正式に決まった話ではなかった。


現グランヴィル侯爵には子がいない。


そこで侯爵の甥にあたるエドガーを後継者として認めてほしいと、王家へ申請している最中だった。


二年前、エドガーから頼まれて、私は勤務時間外にも彼の家系を調べ始めた。


侯爵夫人になるなら、自分の家の歴史くらい知っておきたかった。


それに、彼の役に立てるのが嬉しかった。


少なくとも、その頃の私はそう思っていた。



翌朝。


文書院へ出勤すると、机の上に紅茶が置かれていた。


「今日は砂糖を二つ入れた」


向かいの机から声がした。


主任系譜官のルシアン・フェルドだ。


「一つで十分です」


「昨日、婚約破棄された人間に一つでは足りないと思った」


私は彼を見た。


「もう広まっているのですか」


「文書院の百周年祝賀会でやれば、文書より早く記録される」


少しだけ笑ってしまった。


ルシアンは、私がここへ入ったときからの先輩だ。

侯爵家の三男で、爵位を継ぐ予定はない。

そのせいか、貴族の肩書きを驚くほど気にしない。


「申請案件の担当変更、受理したよ」


「ありがとうございます」


「本当にいいのか?」


「はい」


私は鞄から一冊の調査帳を出した。


「私的に調べた分も、必要な箇所はすべて写しを残しています。ただし、この先の追加調査はしません」


ルシアンは調査帳をめくり、ある頁で手を止めた。


赤い線が一本引いてある。


「やはり、ここか」


「ええ」


八十三年前の土地譲渡証書。


そこには、エドガーの曽祖父にあたるオーウェン・ハルトが、グランヴィル侯爵家から領地を受け取る代わりに、ある権利を放棄したと書かれていた。


古い書体で、文章も回りくどい。


けれど意味は明確だった。


――本人およびその子孫は、グランヴィル侯爵位の継承を求めない。


私は四か月前にそれを見つけていた。


「エドガー様には?」


「伝えました」


「何と?」


「『そんな一枚で百年後の話まで決められるはずがない。別の文書を探せ』と」


「それで君は探していた」


「後から権利が回復された可能性はありますから」


実際、私は四か月かけて、王都だけでなく三つの地方文書庫にも照会を出した。


権利回復の勅許。

侯爵家との再契約。

例外を認めた裁判記録。


何か一つでもあれば、申請は成立する可能性があった。


何も見つからなかった。


それでもエドガーは言った。


『結婚までには見つけてくれ』


私は、見つかるかどうか分からないものを探し続けていた。


婚約者だから。


「今日、継承審査会がある」


ルシアンが言った。


「君が外れたので、私が引き継ぐ」


「分かりました」


「確認しておくが、この赤線を消せと言われたことは?」


私は少し黙った。


「……あります」


「誰に?」


「エドガー様に」


ルシアンの表情が変わった。


「記録は?」


「面談記録に残しました。日付は四か月前です」


「そうか」


彼は静かに調査帳を閉じた。


「それなら、君はもう何もしなくていい」



午前十時。


継承審査会が始まった。


私は担当から外れているので、別室で修道院の寄進記録を読んでいた。


十一時二十分。


廊下を走る足音がした。


文書院では珍しい。


扉が開き、エドガーが入ってきた。


顔が真っ赤だった。


「リディア!」


私は顔を上げた。


「ここは閲覧室です。大声はお控えください」


「何をした!」


昨日も似たような質問をされた気がする。


「何のことでしょう」


「申請が止められた!」


「審査結果について、私は担当ではありません」


「お前が抜けた途端だぞ!」


「ですから、私は抜けただけです」


エドガーは机を叩いた。


「例の古文書だ! あんなもの、解釈次第だろう!」


「いいえ」


私は立ち上がった。


「『本人および、その血を継ぐすべての子孫』とあります。意味は一つです」


「なら別の意味に読め!」


一瞬、部屋が完全に静かになった。


閲覧していた学者たちまでこちらを見ている。


私は、五年間婚約していた人の顔を見た。


これまで何度も、彼のために難しい文書を読んだ。

何度も、彼に有利な根拠がないか探した。


けれど。


「古文書は、読む人の都合で意味を変えません」


「お前が証明書に署名すればいい!」


「事実と違う証明はできません」


「婚約者だっただろう!」


「昨日までです」


エドガーが言葉を失った。


そのとき、廊下から別の声がした。


「そして、婚約者だった時期にも、彼女は一度も虚偽の証明をしていない」


ルシアンだった。


その後ろには、文書院長と、グランヴィル侯爵本人が立っていた。


侯爵は六十を越えた穏やかな男性だが、今日は目が笑っていなかった。


「エドガー」


「叔父上、これは誤解です。リディアが感情的になって――」


「四か月前の面談記録を読んだ」


侯爵が言った。


「お前は彼女に、不利な記述を調査報告から外すよう求めたそうだな」


「それは、まだ確定した資料ではなく――」


「同じ内容の記録が二点見つかった」


ルシアンが書類を差し出した。


「当時の王室台帳と、グランヴィル家自身の支出記録です。オーウェン・ハルトは領地と年金を受け取る代わりに、子孫を含めて継承請求権を放棄しています」


エドガーの顔から色が消えた。


「では……私は」


「現時点で、侯爵位の継承資格を証明できない」


文書院長が答えた。


「申請は却下となる」


「そんな……」


侯爵が続けた。


「私は、お前なら家を任せられると思っていた。だから王家へ特例を願い出ることも考えていた」


エドガーが顔を上げた。


「では、今からでも――」


「やめた」


「叔父上?」


「自分に不利な記録を消させようとする者に、侯爵家の記録と財産を預ける気はない」


それが決定打だった。


血筋の問題だけなら、特例の余地はあったのかもしれない。


けれど、エドガーは自分でその余地を潰した。



話はそれだけでは終わらなかった。


午後になると、セリーナとその父親が文書院へ来た。


私はまた何か言われるのかと思ったが、セリーナは私ではなくエドガーを見た。


「あなた、継承はもう正式に決まっていると言いましたわね」


「ほとんど決まっていた!」


「『ほとんど』を『正式に』とは言いません」


彼女は静かだった。


昨日の夜会で私の隣に立っていたときより、ずっと冷静に見えた。


「父には、次期侯爵との縁談だと説明していました。私は爵位がなくても結婚できるかもしれません。でも、嘘をつかれたまま結婚する気はありません」


「セリーナ!」


「昨日の婚約解消にも、私は立ち会うべきではありませんでした。リディア様、その点は謝罪いたします」


私は少し驚いた。


「受け取ります」


セリーナは頭を下げ、父親と帰っていった。


エドガーは追いかけようとして、文書院長に止められた。


審査中の資料を持ち出そうとしていたからだ。


その姿を見ても、私はもう何も感じなかった。


悲しくも、嬉しくもない。


ただ、終わったのだと思った。



夕方。


仕事を終えて帰ろうとすると、ルシアンが廊下で待っていた。


「院長から聞いた?」


「何をですか」


「来月から正規の系譜官に推薦するそうだ」


私は足を止めた。


「私を?」


「君以外に誰がいる」


「でも、今回の件があった直後です」


「だからだよ」


ルシアンは言った。


「好きな相手の家に有利な資料を探し続けても、不利な一行を消さなかった。系譜官に必要なのは、古い字が読めることだけじゃない」


私は返事ができなかった。


エドガーは、私の仕事を役に立たないと言った。


ルシアンは、仕事の中で私が守ったものまで見ていた。


その違いが、少し痛かった。


五年間、私は何を見てもらおうとしていたのだろう。


「泣く?」


「泣きません」


「では、甘いものは?」


「質問のつながりがおかしくありませんか」


「昨日から一度もまともに食べていないだろう」


図星だった。


ルシアンは少し視線を逸らした。


「文書院の裏通りに、レモン菓子の店ができた」


「古書店ではなく?」


「今日は本の話をしない」


私は思わず笑った。


「あなたが?」


「努力する」


「では、一時間だけ」


「勤務では?」


「私用です」


「それは貴重だ」


彼は大げさに頷いた。



三か月後。


私は正式な系譜官になった。


グランヴィル侯爵家は、別の傍系親族を後継者候補として申請し直した。

今度は最初から、都合の悪い資料も含めてすべて提出された。


エドガーは王都を離れたと聞いた。


次期侯爵を前提に借りていた屋敷も馬車も手放し、父親の領地で働いているらしい。


私が何かを奪ったわけではない。


もともと彼のものではなかったものが、彼のものではないと確認されただけだ。



半年後。


閉院時刻を過ぎた文書院で、私は一枚の新しい紙を読んでいた。


古文書ではない。


婚姻申請書だった。


「どうしてそんなに真剣に読むんだ」


向かいでルシアンが困った顔をしている。


「誤字がないか確認しています」


「系譜官の職業病だな」


「あなたの生年月日が一日ずれていました」


「危なかった」


「危ないの意味が軽すぎます」


赤いインクで訂正すると、ルシアンが笑った。


付き合い始めて半年。


彼は、私の仕事を褒めることはあっても、それを理由に結婚を求めたことは一度もなかった。


最初に言われたのは、


『休日に、一緒にレモン菓子を食べてほしい』


だった。


次は、


『仕事の話をしなくても、君と話したい』


だった。


そして昨日。


『家系図ではなく、これから先の頁に僕の名前を置いてくれないか』


少し気取った言い方だったので、私は笑ってしまった。


でも、嬉しかった。



古い文書を読んでいると、ときどき思う。


文字は、人がいなくなったあとも残る。


都合よく消したくなる一行も。

忘れたくない一行も。


だから私は、書かれていることを勝手に変えない。


そして今は、自分の人生についても同じだ。


誰かに「役に立たない」と書かれたからといって、それを自分の価値として写し取る必要はない。


私は婚姻申請書の最後に、自分の名前を書いた。


その隣に、ルシアンの名前がある。


「これでよし」


「審査は通りそう?」


「今のところは」


「厳しいな、系譜官殿」


「記録は正確であるべきですから」


笑いながら紙を重ねる。


かつて私を捨てた人は、古い一行を消せば未来まで変えられると思っていた。


私は逆だと思う。


過去は変えられない。


でも、その続きを誰と、どんな言葉で書くかは、自分で選べる。


私の次の頁には、もう私の名前がきちんと残っている。

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