「古い家系図を読んでいるだけの婚約者はいらない」と捨てられたので、侯爵家の爵位継承申請から手を引きました。翌朝、元婚約者は“次期侯爵”ではなくなったそうです
「古い家系図を読んでいるだけの女を、侯爵夫人にするつもりはない」
王立文書院の創設百周年を祝う夜会で、婚約者のエドガーはそう言った。
音楽が止まったわけでもないのに、私の周囲だけが妙に静かになる。
エドガーの隣には、真珠色のドレスをまとった伯爵令嬢セリーナがいた。
社交界では有名な人だ。明るく、話が上手で、舞踏会ではいつも人に囲まれている。
「リディア。君とは五年も婚約していたが、最後まで変わらなかったな。休日まで文書院に籠もって、古い紙の染みを眺めている。そんな女と一生暮らすのは御免だ」
「そうですか」
「セリーナなら、次期グランヴィル侯爵夫人として申し分ない」
その言葉に、私は一つだけ確認した。
「では、婚約は正式に解消ということでよろしいですね」
「ああ」
「承知しました」
私は胸元から小さな手帳を出し、明日の予定に一本線を引いた。
エドガーが不愉快そうに眉を寄せる。
「何をしている?」
「あなたの爵位継承申請に関する私的調査を終了しました」
「……何だ、それは」
「グランヴィル侯爵家の系譜調査です。婚約者だから無償で続けていましたが、婚約がなくなるなら、私が続ける理由もありません」
彼は鼻で笑った。
「家系図を読むだけだろう。もう必要な書類は揃っている」
「そう思われるのでしたら、問題ありません」
私は手帳を閉じた。
「それから、明日付で審査担当からも外れます。元婚約者の案件を私が扱うのは、公平ではありませんから」
「勝手にしろ」
「はい。そうします」
五年間の婚約は、それで終わった。
私、リディア・セルヴァンは、王立文書院で古文書の解読をしている。
王都の人たちには、よく「昔の字を読む仕事」と説明する。
間違いではない。
けれど、古い文字を読めるだけでは足りない。
同じ名前の人が三人いれば、生年、土地、納税記録、婚姻記録を突き合わせる。
火事で出生簿が焼けていれば、教会の洗礼記録や軍役名簿から血縁をたどる。
遺言状に「長男」とあっても、その長男が法律上の嫡子かどうかは別の記録で確かめる。
爵位、領地、相続、婚姻。
貴族が「昔からそうだった」と言うことほど、文書で確かめなければならない。
エドガーが「次期グランヴィル侯爵」と呼ばれているのも、まだ正式に決まった話ではなかった。
現グランヴィル侯爵には子がいない。
そこで侯爵の甥にあたるエドガーを後継者として認めてほしいと、王家へ申請している最中だった。
二年前、エドガーから頼まれて、私は勤務時間外にも彼の家系を調べ始めた。
侯爵夫人になるなら、自分の家の歴史くらい知っておきたかった。
それに、彼の役に立てるのが嬉しかった。
少なくとも、その頃の私はそう思っていた。
翌朝。
文書院へ出勤すると、机の上に紅茶が置かれていた。
「今日は砂糖を二つ入れた」
向かいの机から声がした。
主任系譜官のルシアン・フェルドだ。
「一つで十分です」
「昨日、婚約破棄された人間に一つでは足りないと思った」
私は彼を見た。
「もう広まっているのですか」
「文書院の百周年祝賀会でやれば、文書より早く記録される」
少しだけ笑ってしまった。
ルシアンは、私がここへ入ったときからの先輩だ。
侯爵家の三男で、爵位を継ぐ予定はない。
そのせいか、貴族の肩書きを驚くほど気にしない。
「申請案件の担当変更、受理したよ」
「ありがとうございます」
「本当にいいのか?」
「はい」
私は鞄から一冊の調査帳を出した。
「私的に調べた分も、必要な箇所はすべて写しを残しています。ただし、この先の追加調査はしません」
ルシアンは調査帳をめくり、ある頁で手を止めた。
赤い線が一本引いてある。
「やはり、ここか」
「ええ」
八十三年前の土地譲渡証書。
そこには、エドガーの曽祖父にあたるオーウェン・ハルトが、グランヴィル侯爵家から領地を受け取る代わりに、ある権利を放棄したと書かれていた。
古い書体で、文章も回りくどい。
けれど意味は明確だった。
――本人およびその子孫は、グランヴィル侯爵位の継承を求めない。
私は四か月前にそれを見つけていた。
「エドガー様には?」
「伝えました」
「何と?」
「『そんな一枚で百年後の話まで決められるはずがない。別の文書を探せ』と」
「それで君は探していた」
「後から権利が回復された可能性はありますから」
実際、私は四か月かけて、王都だけでなく三つの地方文書庫にも照会を出した。
権利回復の勅許。
侯爵家との再契約。
例外を認めた裁判記録。
何か一つでもあれば、申請は成立する可能性があった。
何も見つからなかった。
それでもエドガーは言った。
『結婚までには見つけてくれ』
私は、見つかるかどうか分からないものを探し続けていた。
婚約者だから。
「今日、継承審査会がある」
ルシアンが言った。
「君が外れたので、私が引き継ぐ」
「分かりました」
「確認しておくが、この赤線を消せと言われたことは?」
私は少し黙った。
「……あります」
「誰に?」
「エドガー様に」
ルシアンの表情が変わった。
「記録は?」
「面談記録に残しました。日付は四か月前です」
「そうか」
彼は静かに調査帳を閉じた。
「それなら、君はもう何もしなくていい」
午前十時。
継承審査会が始まった。
私は担当から外れているので、別室で修道院の寄進記録を読んでいた。
十一時二十分。
廊下を走る足音がした。
文書院では珍しい。
扉が開き、エドガーが入ってきた。
顔が真っ赤だった。
「リディア!」
私は顔を上げた。
「ここは閲覧室です。大声はお控えください」
「何をした!」
昨日も似たような質問をされた気がする。
「何のことでしょう」
「申請が止められた!」
「審査結果について、私は担当ではありません」
「お前が抜けた途端だぞ!」
「ですから、私は抜けただけです」
エドガーは机を叩いた。
「例の古文書だ! あんなもの、解釈次第だろう!」
「いいえ」
私は立ち上がった。
「『本人および、その血を継ぐすべての子孫』とあります。意味は一つです」
「なら別の意味に読め!」
一瞬、部屋が完全に静かになった。
閲覧していた学者たちまでこちらを見ている。
私は、五年間婚約していた人の顔を見た。
これまで何度も、彼のために難しい文書を読んだ。
何度も、彼に有利な根拠がないか探した。
けれど。
「古文書は、読む人の都合で意味を変えません」
「お前が証明書に署名すればいい!」
「事実と違う証明はできません」
「婚約者だっただろう!」
「昨日までです」
エドガーが言葉を失った。
そのとき、廊下から別の声がした。
「そして、婚約者だった時期にも、彼女は一度も虚偽の証明をしていない」
ルシアンだった。
その後ろには、文書院長と、グランヴィル侯爵本人が立っていた。
侯爵は六十を越えた穏やかな男性だが、今日は目が笑っていなかった。
「エドガー」
「叔父上、これは誤解です。リディアが感情的になって――」
「四か月前の面談記録を読んだ」
侯爵が言った。
「お前は彼女に、不利な記述を調査報告から外すよう求めたそうだな」
「それは、まだ確定した資料ではなく――」
「同じ内容の記録が二点見つかった」
ルシアンが書類を差し出した。
「当時の王室台帳と、グランヴィル家自身の支出記録です。オーウェン・ハルトは領地と年金を受け取る代わりに、子孫を含めて継承請求権を放棄しています」
エドガーの顔から色が消えた。
「では……私は」
「現時点で、侯爵位の継承資格を証明できない」
文書院長が答えた。
「申請は却下となる」
「そんな……」
侯爵が続けた。
「私は、お前なら家を任せられると思っていた。だから王家へ特例を願い出ることも考えていた」
エドガーが顔を上げた。
「では、今からでも――」
「やめた」
「叔父上?」
「自分に不利な記録を消させようとする者に、侯爵家の記録と財産を預ける気はない」
それが決定打だった。
血筋の問題だけなら、特例の余地はあったのかもしれない。
けれど、エドガーは自分でその余地を潰した。
話はそれだけでは終わらなかった。
午後になると、セリーナとその父親が文書院へ来た。
私はまた何か言われるのかと思ったが、セリーナは私ではなくエドガーを見た。
「あなた、継承はもう正式に決まっていると言いましたわね」
「ほとんど決まっていた!」
「『ほとんど』を『正式に』とは言いません」
彼女は静かだった。
昨日の夜会で私の隣に立っていたときより、ずっと冷静に見えた。
「父には、次期侯爵との縁談だと説明していました。私は爵位がなくても結婚できるかもしれません。でも、嘘をつかれたまま結婚する気はありません」
「セリーナ!」
「昨日の婚約解消にも、私は立ち会うべきではありませんでした。リディア様、その点は謝罪いたします」
私は少し驚いた。
「受け取ります」
セリーナは頭を下げ、父親と帰っていった。
エドガーは追いかけようとして、文書院長に止められた。
審査中の資料を持ち出そうとしていたからだ。
その姿を見ても、私はもう何も感じなかった。
悲しくも、嬉しくもない。
ただ、終わったのだと思った。
夕方。
仕事を終えて帰ろうとすると、ルシアンが廊下で待っていた。
「院長から聞いた?」
「何をですか」
「来月から正規の系譜官に推薦するそうだ」
私は足を止めた。
「私を?」
「君以外に誰がいる」
「でも、今回の件があった直後です」
「だからだよ」
ルシアンは言った。
「好きな相手の家に有利な資料を探し続けても、不利な一行を消さなかった。系譜官に必要なのは、古い字が読めることだけじゃない」
私は返事ができなかった。
エドガーは、私の仕事を役に立たないと言った。
ルシアンは、仕事の中で私が守ったものまで見ていた。
その違いが、少し痛かった。
五年間、私は何を見てもらおうとしていたのだろう。
「泣く?」
「泣きません」
「では、甘いものは?」
「質問のつながりがおかしくありませんか」
「昨日から一度もまともに食べていないだろう」
図星だった。
ルシアンは少し視線を逸らした。
「文書院の裏通りに、レモン菓子の店ができた」
「古書店ではなく?」
「今日は本の話をしない」
私は思わず笑った。
「あなたが?」
「努力する」
「では、一時間だけ」
「勤務では?」
「私用です」
「それは貴重だ」
彼は大げさに頷いた。
三か月後。
私は正式な系譜官になった。
グランヴィル侯爵家は、別の傍系親族を後継者候補として申請し直した。
今度は最初から、都合の悪い資料も含めてすべて提出された。
エドガーは王都を離れたと聞いた。
次期侯爵を前提に借りていた屋敷も馬車も手放し、父親の領地で働いているらしい。
私が何かを奪ったわけではない。
もともと彼のものではなかったものが、彼のものではないと確認されただけだ。
半年後。
閉院時刻を過ぎた文書院で、私は一枚の新しい紙を読んでいた。
古文書ではない。
婚姻申請書だった。
「どうしてそんなに真剣に読むんだ」
向かいでルシアンが困った顔をしている。
「誤字がないか確認しています」
「系譜官の職業病だな」
「あなたの生年月日が一日ずれていました」
「危なかった」
「危ないの意味が軽すぎます」
赤いインクで訂正すると、ルシアンが笑った。
付き合い始めて半年。
彼は、私の仕事を褒めることはあっても、それを理由に結婚を求めたことは一度もなかった。
最初に言われたのは、
『休日に、一緒にレモン菓子を食べてほしい』
だった。
次は、
『仕事の話をしなくても、君と話したい』
だった。
そして昨日。
『家系図ではなく、これから先の頁に僕の名前を置いてくれないか』
少し気取った言い方だったので、私は笑ってしまった。
でも、嬉しかった。
古い文書を読んでいると、ときどき思う。
文字は、人がいなくなったあとも残る。
都合よく消したくなる一行も。
忘れたくない一行も。
だから私は、書かれていることを勝手に変えない。
そして今は、自分の人生についても同じだ。
誰かに「役に立たない」と書かれたからといって、それを自分の価値として写し取る必要はない。
私は婚姻申請書の最後に、自分の名前を書いた。
その隣に、ルシアンの名前がある。
「これでよし」
「審査は通りそう?」
「今のところは」
「厳しいな、系譜官殿」
「記録は正確であるべきですから」
笑いながら紙を重ねる。
かつて私を捨てた人は、古い一行を消せば未来まで変えられると思っていた。
私は逆だと思う。
過去は変えられない。
でも、その続きを誰と、どんな言葉で書くかは、自分で選べる。
私の次の頁には、もう私の名前がきちんと残っている。




