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第9話

「そう。ならやってみて」


 リリアンは一に挑戦的な物言いをする。一は平静を装うものの、戸惑いの表情を隠しきれない。


 本人はあれだけトラウマを克服したと宣っていたが、毎日寝る度にあの時の出来事を悪夢として再体験している一には、こんな事だけでも大変な治療法だった。


「さ、簡単な事よ。ただ一言言うだけでいいの。『ホワイトノイズ、君を許すよ』それだけでいいのよ?」


 リリアンはそう一に催促する。

 だが一は重苦しそうな面持ちだった。

 なぜなら、そんなこと心の底から微塵も思っていなかったからだ。


「ホ.ホワイトノイズ……お、俺は……」


 遂に一は口を開き始める。


 まるでその開き方は家で飼っている金魚が餌を求める時のようなパクパクと擬音が出そうな口の開き方で、リリアンは手を添えて笑みがバレないようにそっと隠した。


「すぅー、ふぅー……ホ、ホワイトノイズ。俺は、俺は君をゆ、ゆる……」


 一は俯いたままたどたどしい喋り方をしながらもなんとかあと少しでリリアンの言っていた通りの言葉を言い終えることが出来る。


 だが、その直前で、一はサンドバックに貼られてあるホワイトノイズの似顔絵を見た。そしてその時、一はあの時の事を走馬灯の如く一瞬で記憶が脳内を駆け巡った。トラウマが蘇り、一は一瞬硬直したが、沸々と怒りが沸き起こり、憎悪の目でホワイトノイズの似顔絵を睨んだ。


 あの雑音の混じった声を、俺は絶対忘れない。

 そう感じた瞬間、一の中で糸のような何かがぷつんと切れた音がした。


「すわけねぇだろうがッ!!」


 一はそう叫ぶや否や、サンドバック目掛けて強靭な拳をお見舞いした。サンドバックは跳ね上がるように揺れた。


「キェルアアアアアアアアアアアア!」


一は奇声を発しながら一撃を入れるだけでなく、一は連続で拳を打ち込む。


 様子が尋常ではなかった。

 常軌を逸した挙動だった。


 一が打つ度にサンドバックはドスン、ドスンと重々しい音が鳴った。


 今までの鬱憤が爆発したのか、一撃だけで終わらず、連続で撃つこみ続ける。

 そのラッシュは常人には捉え切れない速さであり、尚且つ一撃一撃が重々しい音だった。


 一が殴っていると、サンドバッグが上へ上へと揺れ動き、まるで大砲でも撃っているのかと思える程の重厚な音が部屋で鳴り響いていた。


「治療法の効果は無し…と」


 リリアンはメモ帳に何かをボールペンでスラスラと書き込んだ。

 本当にこんなことで治ると思ったのか、と一は聞きたそうな顔をしていた。


「別に期待はしていなかったわ。貴方、目に見えて重症だし」


がリリアンは一の顔を見ずとも一の言わんとしている事を察知したのか、直ぐに答えた。


「いや、スパーリングしたら少し落ち着いたよ。ありがとう」


 一は額や首元から運動したことで出てきた汗をリリアンから渡されたタオルで拭う。


「あのね、普通の人間は奇声を上げながら殺意増し増しでスパーリングなんかしないのよ」


 リリアンは呆れながら一に言った。

 ボコボコになったサンドバックから」揺れ動いて粘着力が弱くなったホワイトノイズの似顔絵が宙を舞って床に落ちた。


「二年経つけど、全然進展無し。いっそホワイトノイズを殺してすっきりした方はよっぽど健康的だと思うわ」


 精神科医らしからぬ物騒な物言いのリリアンだったが、一は「俺も本当はそうしたい」と同調した。


「俺だって本当はぶち殺してやりてぇがな、俺達殺し屋は仕事を通していない殺しは禁じられている。特に恨みによる殺しはもっとも忌み嫌われてる。最悪追放処分、もしくは処刑だ」


 一は無念と言いたげな落ち込んだ表情で言う。

 彼の所属する業界ではいくつかのルールがある。それ等の内の一つである私怨による殺しは彼等の世界では御法度である。

 もし破れば、相応の罰を喰らう。


「それはそうなんだけど……」

「俺はこの仕事が好きだ。俺に最も向いてる。クビになりたくないしその選択肢は今の俺には無い。地道に悟りを開く方法を探すさ」


仕事以外の殺しを禁じることでこの歪な世界の均衡がなんとか保たれていることは一もリリアンも十分に理解していた。


それ故にどれだけ同業者に恨みを抱いていようともこの二年間報復を行う事は無かった。

「このこと、今まで私以外に相談したの?デイヴィスとか」

 リリアンは眼鏡を外して机に置きながら言った。


「いいや。デイヴィスはあの動画を見て大笑いしてやがったから絶対に相談なんかしねぇ。それにこんな仕事してたら相談できる奴なんてほとんどいないだろ」

「友達は?」

「いない」

「なら家族は?」


 その時、一は身体をピクリと震わせ、暗い顔になる。


「…年の離れた妹が一人いる」

「いいじゃない。いっその事話しちゃえば?」

 リリアンは何の気なしにそう言ったが一は「冗談じゃない」と真剣そうな表情で声を荒げた。


「アイツは、愛海は俺とは違う。住んでる世界も違う。賢くて可愛い自慢の妹なんだ。そんなあの子に血生臭い世界の話なんてしたくもないし、本人もそう言うだろう」


 一は自慢するようにリリアンに言った。


二年前、彼女は中学三年生、つまり受験生だったが、無事第一志望の偏差値の高い高校に合格し、進学することが出来た。


 現在は高校二年生であり、青春を謳歌している。

 高校生活を楽しんでいる愛海の姿を見ることが彼の唯一の楽しみだった。


「それじゃあ今の所話が出来るのは私だけみたいね」

「あぁ、俺は友達が多い方じゃないからな」


 それから暫く一とリリアンは軽い世間話をした。

 世間話と言っても最近の裏の仕事の依頼の頻度、武器の手入れはしているか、ちゃんとした食事をしているか、などだった。


「それじゃあ最後に、ここからは友達としてアドバイスをさせてもらうわ」


 リリアンは白衣を脱いで肩が見えるノースリーブスの黒い服を露わにした。

 その姿は大抵の男性は見惚れてしまうが、今の一にはまったくの無関心であった。


 そのことにリリアンは少し悔しそうな表情だったが、一はそれも気にしない。


「たまには憂さ晴らしも必要よ、一。私と一緒に軽い運動でもどうかしら」


 リリアンは更に胸元のボタンを開けて肌を露わにする。流石の一も目線を彼女に向ける。


「おい、おい。なんのつもりだ」


 一は横になっていたソファーから起き上がった。


しかし、リリアンは一を押し倒してソファーに戻した。

 彼女の指が意志を持つ蔦のように伸びて一の身体を纏わり付き、弄ぶように動いた。


「ストレス発散と言えば男女が絡み合うアレよ」

「アレって、俺と君はそんな関係じゃないだろう」

「何よ、本名も曝け出した仲じゃない。今更恥ずかしがってるの?案外初心ね」


 リリアンは一に覆い被さる形で彼の身体に乗っかかる。

 このまま行為に発展しそうになったその時、一はリリアンを半ば力づくで押し返した。

 リリアンは「きゃ」とだけ言って後ろに下がった。


「……じゃねぇ」

「えっ?なに?」


 一はわなわなと震えながらソファーから立ち上がった。


「俺の悩みをセックス如きで懐柔出来るお手軽患者だと思うんじゃねぇ!」


 一はハンガーに掛けてあったスーツジャケットを取り戻し、「うわーん」と大の大人がするとはとても思えない、情けない姿でリリアンの部屋から一は出て行った。


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