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第10話

リリアンに襲われかけ、(性的な意味で)家に帰って来た一はぐったりしていた。


 身体的な疲れ、精神的な疲れ、その両方が彼にのしかかっていた。


 それだけでなく、これからのキャリアアップについても、丹念に悩んでいた。



 一はリビングにある一人掛け用のソファーに座り、テレビを点ける。


 時刻は既に夜の7時を過ぎており、一は電源の点いたテレビの画面を惰性に目で追っていた。

 ニュース番組、バラエティ番組、映画、ドラマ、アニメ、どれもこれも一の浮き沈んだ心の穴を満たしてはくれなかった。


 あれから二年、未だ一の元に昇格試験の依頼は舞い込んで来ていない。

 一はテーブルに置いた缶ビールを手に取り、それを煽りながら呆っとしていた。


 俺はもうダイアモンドクラスに上がれないかもしれない、一は先が長く暗い未来に耐え切れず、缶ビールを飲み干し、さらにもう一本飲もうと冷蔵庫に向かった時、冷蔵庫の前には彼の妹、腕間愛海が黒縁の眼鏡を掛け、制服姿のまま仁王立ちしていた。


「おっ愛海か。塾から帰って来たのか?ちゃんと勉強はしてきたか?」


 一は愛海が高校へ進学した後、塾に通う事を推奨した。


 高校での授業と自宅学習も良いが、より優秀な成績を取るためには学習塾へと通う方が良いと一は一なりに彼女を慮っていた。


「うん。勉強はばっちりだよ。それで兄ちゃん、またビール飲もうとしてる?」

「そう言うお前は何を飲んでるんだ?」

「牛乳。成長期だからね」


 愛海は瓶のタイプの牛乳を口に付け、黒の二つのおさげの片方の髪を指でくるくると弄りながら一に言った。


 彼女の表情は少しむくれていた。

 一は彼女が怒っている理由の見当がついていたが、敢えて気付かないよう努めた。


「あぁ、お兄ちゃんおビール様に会いたいから、そこを通してくれないかな?あと最近冷蔵庫の中身の減りが早い気がするんだがお前何か知らないか?」

「や、それは知らないけど、兄ちゃん何本飲んだ?」


 愛海は眉を顰めながら一に聞いた。一は困ったように頭頂部を右の人差し指でポリポリと掻くと、「一、か二ぐらい?」と疑問形で答えた。


「当ててあげましょう、五本です」

「失敬だな。四本しか飲んでないぞ!……あっ」


 自分で飲んだ本数を暴露してしまい、自分で面食らう一。その姿に愛海はため息を一つ吐きながら彼を見た。


「兄ちゃん飲み過ぎ。それ以上飲んだら肝臓がダメになるよ?」

「いいんだ、兄ちゃんもう終わってるから」

 一はそう言って冷蔵庫の中に手を伸ばす。だが愛海は彼の手を掴んで阻止した。


「兄ちゃん……もしかして、二年前のお仕事の失敗をまだ引きずってるの?」


 愛海が気まずそうに一に聞いてきた。

 一は「あー」と言って言葉に詰まる。


 二年前、一は仕事を失敗し、心が完全にボロボロになった状態で家に帰って来た。


 怪我は隠せたが、心の傷までは隠すことは出来ず、愛海に見抜かれ彼は妹に問い詰められた。

 その時、一はその場でウソと真実を混ぜながら愛海に悩みを打ち明けた。


 だが本当の事は話してはおらず、あくまで昇進に関わる大仕事を台無しにし、もうキャリアアップに繋がる仕事の話は来ないかもしれない、ということだけを伝えたのだった。


「…ごめんな、態度に出して。嫌な思いさせたか?」

「んーん。兄ちゃんさ、自分で嫌な事ため込んで消化しようとしてるでしょ?それじゃダメだよ。私にも話してよ」

「いや、それは出来ないんだ。会社の機密情報だから、もし話したら俺も愛海も殺されちゃうかも」

「その時は私がそいつ等を返り討ちにしてあげる」


 そう言って愛海は親指と人差し指を開き、銃を形作り、「バン、バン」と銃声の音真似をした。

 一は「そりゃ頼もしい」と言って笑った。


「…兄ちゃん、こっち来て」


 愛海はソファーへと座り、自分の膝を手でポンポンと軽く叩いた。


「ん?なんだ?なにしてんだ?」

「膝枕。可愛い妹のお膝元で頭を預ければ少しは気分もよくなるでしょ?」


 愛海の提案に一は躊躇いの表情を見せた。いくら家族といえども、うら若き女子高生の膝の上で頭を預けるなど、絵面からしてまずいからであると、一は冷静な頭で考えた。


「いや、それはダメだろ」

「なにが?家族なんだし普通じゃない?それとも兄ちゃんって結構初心なの?」


 一はその言葉を聞いて少しㇺッとした。一は基本的に愛海には甘い。


 小遣いはあげるし、ご飯だって自分より多い量を取り分けている。


 だが、舐められるのは我慢ならない。仕事でもプライベートでも、他人に舐められないように生きるのが、一の人生の指標に一つだった。


「お言葉に甘えさせてもらおう。膝を出せ」


 一は真顔で愛海にそう言った。

 彼のその態度に、愛海は僅かに揺らいだ。

 一がこのような反応をするとは思っていなかったのだろう。


「どうした?膝、出せよ。横になりたいんだ。妹の柔肌で、な」

「に、兄ちゃん案外大胆だね。感心しちゃうなぁ」


 愛海は言葉を僅かに詰まらせ、冷や汗をかいていた。だが一の頭を膝に乗せようとはしていなかった。


「おい、膝だよ。早くしろ。なんだ、吐いた唾飲むのか?」

「や、やっぱりやーめた。なにマジになってるの?アホらしいとは思わない?」


 愛海は一に向かって嘲るように笑うとソファーから立ち上がって離れた。


「うるせぇ!今俺は妹の膝枕で眠りてぇんだ!さっさとお前のそのほっそい足貸せって言ってるんだよ!」


 だが一は頭からつま先まで完全にアルコールが回り、完全に正気を失っていた。

 今の彼は自分の妹の膝枕を這いずり求める怪物と化していた。


「ちょ、酔ってんの!?あっこら足掴むな!」

 一は床に倒れ込み、仰向けになったまま両手で愛海の脚を掴んで離さなかった。


「いい加減に…しろ!」


 放せと言っても一向に放そうとしない一についカッとなり、愛海は一の顔面を力強く踏んづけてしまった。


「ぶげ!?」


 一は間の抜けた声を上げると、その場で力なく、ビクンと一瞬痙攣した後糸が切れた人形のように動かなくなってしまった。


「あっやべ。兄ちゃん…?大丈夫?」


 あんなにも騒がしかった兄が途端に静かになり、動かなくなった姿を見て、愛海は恐る恐る声を掛け、一の口に手をかざした。


 彼女の手平に生暖かい空気が一定のリズムで当たる。一応大事には至っていないようだ。そのことに愛海はホッと胸を撫で下ろす。


「……一応生きてるみたいだし、いいか」


 愛海は白目を向き、呆けた面をしながら気絶したまま眠っている自分の兄を見て、一回頷いた後、一を放置してソファーに座り直してテレビを見始めた。



「イチ、紹介したい人がいる。こっちに来い」


 野太い声が二階の一の部屋まで届いた。一の事をイチと呼ぶ男は、一の父親だった。


 イチと呼ばれた一本人は自分で付けた名前くらい、ちゃんと呼べ、と心の中で悪態を突く。この時一は20歳であり、殺し屋の世界に入ってから二年目だった。


 当時一は駆け出しの新人であり、収入は雀の涙ほどだったため、実家で暮らしていた。

 まだ彼は若く、無精髭もなく、現在よりも若々しい姿をしていた。


「なんだ、父さん?」


 一は父親の言う通りにリビングに降りて向かった。

 彼が何の気なくリビングに姿を現すと、見知らぬ女性と女児が居た。


「こんにちは」


 見知らぬ女性が一に向かって挨拶をした。


 女性は太陽の光を跳ね返すような、肩まで伸びた黒く美しい髪が特徴的な女性だった。


 そして、それに順じてその女性の隣に居た少女もまた、同じ髪の色をしていた。


「父さん?この人達は?」

「この人は天音涼さん、お前の新しいお母さんだ」


 一の父は一に何の配慮もなく直球的に言ってきた。


 一の父はある日妻に愛想を尽かされ、逃げられた。

 それから数年はずっと死人のような顔をして生きてきたが、ここのところ顔色が良かった。

 その理由が分かり、道理で、と一は心の中で納得した。


「紹介するわ。この子は私の娘の愛海よ。仲良くしてあげてね」


 天音涼は一に自分の娘である少女、愛海を紹介した。


 一の前に出すために軽く肩を押すが、人見知りなのか、恥ずかしがり屋なのか、母の背後に隠れてばかりだった。


 しかし、一の見立てでは、恥ずかしがっていると言うより母以外の他人を嫌悪しているかのような、そんな冷たい目を一に向けていた。


「シャイな子なんだな。一、ちゃんと挨拶してやれ」


 一の父は一に対して無茶を言った。他人と交流する気が微塵もない少女に対して、一はどう接していいか分からなかった。


 だが、彼女の気持ちが全く分からないというわけではなかった。今、愛海は赤の他人を強制的に家族にさせられているのだ。


 だから一は、自分が今思っているウソ偽りない率直な気持ちを少女に伝えるべく、愛海と同じ目線にすべく膝を落として彼女の目を見た。


「こんにちは、愛海ちゃん。俺は腕間一。俺は一人っ子だったから、妹が出来てとても嬉しい。兄になったからには、必ず君を守る。約束だ」

「……」


 愛海は黙ったままだったが、ジッと一の目を見て話を聞いていた。


 最初こそ無表情で敵意をむき出しにしていたものの、次第に頬を綻ばせ、「よ、よろしく」と、若干口をどもらせながら笑顔で挨拶をした。


 俺はこの子を何があっても幸せにしてあげなければいけない、一は何か使命のような物を、稲妻が彼の頭に直撃したかのような、運命のような物を感じていた。


「それじゃあ、早速食事でもしようか」


 一の父がそう言って食卓へと料理を運んだ。肉や野菜が乗った皿がテーブルに置かれ、食欲刺激する香りが鼻腔をくすぐる。


 一は愛海の脇を持ち、テーブルへと座らせる。そして一も一の父も、天音涼も座り、皆仲睦まじく食卓を囲んだ。理想的な家庭だ、一は幸せを感じていた。


 だがそれと同時に少し違和感を感じた。手が動かないのだ。一は椅子掛けを見てみると、いつの間にか鎖で手が拘束されていた。


 気づかなかった、一体何時、そもそも何故、様々な疑問が頭の中を駆け巡った。


「おいおいマジで?俺に弄ばれて牧本も殺せなかったような奴が約束を守るだって?」


 途端、この場に相応しくない、居てはいけないはずの声が一の背後から聞こえた。


「えっ?」


 一は上擦った間の抜けた声を出し、後ろを振り向いた。


 そこに居たのは、誰かの返り血を浴びた所為か、大量の夥しい血が付いたホワイトノイズであった。彼は右手に拳銃を持ち、左手にはカランビットナイフを装着していた。


「なんで、お前が居るんだ」


 一はこの異常事態を伝えるべく、辺りを見回す。一以外の家族は笑顔で食事に手を付けている。

 まるでホワイトノイズなど存在しないかのように。


「なんでって、アンタとまた動画を取るためさ。お題はそうだなぁ……」


 ホワイトノイズは拳銃を一に、ではなく愛海へと向けた。


「やめてくれ、頼む。それだけは勘弁してくれ」


 一は首を垂れて懇願した。


「自分の妹を約束通り守れるか試してみた!とか?」


 ホワイトノイズは照準を愛海に向け、引き金を絞った。


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