第八話 船出
翌朝、東の空が僅かに白む頃に船は港を発った。次第に明るくなる空、やがて昇った朝日が川面を照らすと、舳先が割った川面から水しぶきがきらきらと輝いた。
「んーっ、良い気持ち……」
晩秋の陽光を浴びる少女は大きくのびをすると、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。そんな様子でミーナが始まったばかりの船旅を満喫していると、不意に彼女を呼ぶ声が聞こえる。
「なあー! 手伝ってくれよー!」
振り向くと、埃と蜘蛛の巣にまみれたジェフが口をへの字に、船倉から頭だけ出していた。
「ええーっ⁉ 掃除を頼まれたのはジェフでしょ? 一人でやりなよ!」
「そんなこと言うなよ、それにお前今暇だろ?」
「うーん、まあ暇だけどさ……」
「頼むよ~、整理して出たガラクタはくれるって船長が言ってたし、何か良い物有ったらやるからさ、なっ?」
あまりにしつこい幼馴染の頼みに、少女は渋々だが手伝う事にした。
薄暗い船倉で、二人は指示通りに荷物と不用品を整理した後、適当にだが埃や塵を掃除した。
「サンキュ、助かったよ」
ジェフは軽く礼を言った後で少女に背を向けて、不用品をまとめた木箱の中を漁り始めた。
「どういたしまして。ところでどう? 何か良い物有りそう?」
「そうだな……」
木箱の中を引っ掻き回す少年の傍らで、ミーナも目ぼしいものはないかと物色する。
「お、これなんかは修理すれば使えそうだぞ」
ガラクタの中から引きずり出されたのは、随分とくたびれた革鎧だった。その腹部は裂け、胸部から上の状態も良いとは言えなかった。
「直さないと着れないよ?」
「任せておけよ。うちが道具を売るだけじゃなくて直したりもしてるの知ってるだろ?」
「そう言えばそうだね」
革鎧の状態を確かめるジェフの横で、ミーナも何か役立ちそうなものはないかと木箱の中を物色する。
何に使っていたのか分からないようなゴミ同然の、まさにガラクタを掻き分けていると、その中に奇妙な手触りの紐がついたYの字型の棒を見つけた。
「何だこれ? この紐、変な感触。引っ張ると伸び縮みするよ!」
「あー、それ? ゴム紐っていうんだ。最近見かけるようになった素材だよ」
「ふーん、で、この道具は何?」
ゴム紐を引っ張っては戻しを繰り返すミーナ。ジェフはその様子を一瞥すると再び手にした鎧に目をやる。
「そりゃパチンコって言うんだよ。その紐が戻る力で石とかを遠くに飛ばせるぜ」
「武器?」
「一応それで鳥とかを仕留められるらしいぞ」
少年の言葉に少女は目を輝かせると、パチンコを彼の目の前に突き出した。
「使い方教えて! 掃除のお礼ってことで!」
「しゃーねーなぁ……、でもこれ壊れてるな。そのうち直してやるよ」
「ありがとー! 楽しみに待ってるよ!」
ミーナはパチンコを手渡すと、ジェフとともに甲板へと軽い足取りで上がっていった。
少女は傾き始めた日に照らされながら、ぼんやりと遠くを眺めていた。
「ミーナちゃん」
不意に名を呼ばれ振り向くと、エリーが疲れた表情を浮かべて立っていた。
「あっ、エリーさん。仕事は終わりですか?」
「ええ、大分くたびれたわ」
彼女は額に浮かんだ汗を右手で拭ってから、左手にもったカップに口をつけた。
「なんだか大変だったみたいですけど、どんな仕事をしてたんですか?」
労いの言葉を掛ける少女は好奇心に満ちた視線をエリーに向ける。
「簡単に言えば、この船を動かしてたのよ」
「えっ? エリーさんがこの船を漕いでるって事ですか?」
大きな目を更に真ん丸に見開いたミーナ。そんな彼女を見たエリーは思わず吹き出すと、俯き加減にくすくすと笑いながら船の縁に腰掛けた。
「私ってそんな怪力の大女に見えるのかしら? ちょっと傷ついたわ」
もう一度カップの中身を口に含んだ娘は、それを飲み下すと顔を上げてミーナを見遣る。
「あっ、そういう意味じゃなくて……」
「冗談よ、気にしてないわ。で、この船だけど、近頃見かけるようになった蒸気機関という機械の力で動いているのよ」
「じょうききかん?」
「詳しい仕組みは私にもよく分からないけど、炭や薪を燃やした炎の熱で……あれを動かして船を動かすの」
簡単に説明をする彼女は言葉を切ると、水音を立てて回る外輪に目を遣った。
すると、船の側面に設えられた外輪に視線を向けながらも、ミーナは質問を続ける。
「でも炭をくべる仕事をどうしてエリーさんが? 力仕事ならジェフにやらせればいいのに」
「この船の場合はそうもいかないわ。何故なら石炭の代わりに炎の感応石を熱源にしているからよ」
「じゃあ術で動く船って事ですか!」
「まあ広義にはそうなるかもしれないわね。もっとも、アルサーナ……つまり隣国の船舶はこんな回りくどい事をせずに、水術を使って水の流れを操って船を動かすのよ」
説明を一通り終えたエリーは、再度カップの中身を口に含んだ。
「エリーさんって色々知ってるんですね! ……そこでお願いがあるんですが、わたしに術の稽古をつけて欲しいんです。わたしもエリーさんみたいにかっこよく術を使えるようになりたいんです!」
そう言った少女は船の縁に近づき、船外に両手の平を向けると、眉間にしわを寄せて念を込めるかのように唸る。
「ん~~~~~~っ、やっ!」
そして掛け声と共に手を叩くような何とも弱々しい破裂音が響き、落ち葉をくべた焚火から出るような白い煙がうっすらと広がり、直ぐにかき消えた。
「これでも一応、勉強中なんですけどね……はははは、はあ……」
あまりにもお粗末なそれを曝け出すと、がっくりと肩を落としたミーナは自嘲的な乾いた笑い声をあげた。
そんな彼女の様子を見て肩をすくめたエリーは、一度小さくため息をつくと少女に歩み寄る。
「仕方ないわね、少しだけ教えてあげるわ」
少女の華奢な肩に右手を掛けると、彼女は片目を閉じて微笑み掛けた。
「もっと意識を集中させて、どんな事象を発生させたいのか強くイメージするのよ」
「ん~~~~」
突き出された少女の手の平が僅かずつだが輝き始める。
「もうちょっとよ、体の内にある力と意識を押し固めて手の中に蓄えて」
ミーナは瞼を強く閉じ、険しい表情のまま更に意識を込め続ける。
「今よ!」
輝きが一段と増した瞬間、エリーの掛け声と共に少女はその大きな目を見開く。
ポンっ。先ほどよりは幾分か強さを増した破裂音が響く。
けれども、少女が望むような閃光や爆炎は一切現れなかった。大きくため息をつくミーナの顎からは汗が滴る。
「もう今日はやめにしましょう。汗を拭かないと風邪をひくわ」
既に太陽は沈みかけて、先ほどまでの暖かな陽気は水上を吹き抜ける寒風にかき消されていた。
「うう……」
額の汗を拭うと肩を落とすミーナ。そんな彼女の肩に手をやったエリーは、その顔を見つめながら言葉を掛ける。
「大丈夫、きっとそのうち出来るようになるわ。ただ、攻撃的な術だから身が危険にさらされるような場面に遭遇しないと、イメージを掴めないかもしれないわね」
「明日はもっと厳しくお願いします!」
「そうね、私に余裕があったら考えるわ。けれども身を守るのは力だけとは限らないのよ」
諭すようにそう言ったエリーは船室へと歩みを進め、その後をミーナが追った。
夕食も済み、停泊した船上にはかがり火が灯っていた。炎が川面を照らしていたが、その水面はまるで墨を流したかのように黒々として見えた。
「見張りは朝までなの?」
「ああ、これでも修理しながらのんびりやるよ。って、もう修理終わりそうなんだけどな」
先ほど見つけた革鎧を持ちながらジェフは言った。
「何かあったらみんなを起こすんだよ」
「大丈夫、それくらいわかってるさ」
心配そうな視線を向けるミーナに、ジェフは怪訝な表情を浮かべる。
「おまえらしくないじゃん、俺の事心配するなんて」
「何ていうか、嫌な予感がするんだよね」
「変なこと言うなよ、怖がらせようって魂胆か?」
「そんなんじゃないけど、とにかく気を付けてね」
胸騒ぎの原因は分からなかったが、幼馴染に気を付けるようにと念を押した少女は寝床へと向かった。
「嫌な予感、ね……」
腰に携えた長剣の柄に手をやったジェフの呟きは、漆黒の闇夜へと吸い込まれていった。