第四話 旅立ち
翌朝、いつもの通りには見慣れた後姿があった。
「おはよう!」
「おう」
ミーナの大きな声の挨拶に、ジェフは見るからに不機嫌そうに返事をする。
「なんかあったの?」
少女の問いに対して、少年は一度も視線を向けもしないで口を開き始めた。
「昨日さ、帰りが遅いって親父に説教されてよ」
親への不満を垂れるジェフの聞き役に徹するミーナの脳裏には、気の利かない言葉しか思い浮かばず、終始頷く事しか出来なかった。
「俺、卒業したら家を出ようかと思ってるんだ。最近ホント家が嫌で……、子供は親の所有物じゃねえんだよ」
「うーん、まあねえ……」
しばし話を聞いていたものの、あまりにも過激化する愚痴に少女がいよいよ相槌を打てなくなった頃、二人は学校へと着いた。
「んー、まあまた今度話は聞くよ。じゃまた放課後ね!」
「なんだよ……、ったく」
困り果て、眉を八の字にしたミーナは逃げ出すかのように教室へと向かったが、それを見送るジェフは小さく舌打ちした。
午前の授業を終えたミーナは、昨日見つけた本の事を調べようと図書室を訪れていた。
整然と並ぶ本棚から適当に辞書を抜き、これまた適当にそれをめくる。
けれども、そんな事をしていて昨日の本の正体が分かるわけもなく、少女は困り顔で髪をかきむしった。
「おや、レンフィールドさん、何か調べものかい?」
すると、背後から落ち着いた年配の女性の声が聞こえた。
「あ、司書さん。変な本を物置で見つけたので、ちょっと内容が気になって」
司書の質問にミーナはさり気なく嘘を混ぜたが、それは深く考えたわけでは無く、突発的に本能がそうさせたかのようだった。
「どれ、ちょっと見せてもらえる?」
分厚い眼鏡越しに目を細め一枚一枚と頁をめくるその様子を、ミーナは興味深げに、けれども、どこか少し不安げに見つめる。
「これはおうちの物置にあった、と言ったわね?」
気のせいか司書の目に鋭さを感じたミーナは、嘘を見抜かれまいとわざとらしく大きく頷いた。
「中々興味深い物かもしれないわね。良かったら私にこれを預けて頂けないかしら? 調べて差し上げるわ」
普通に考えれば、願ったり叶ったりの申し出だったが、直感で預けてはいけないと感じたミーナは首を縦には振らずに目を逸らす。
「あ……、えっと……」
「駄目な理由でも、あるのかしら?」
しかし眼鏡越しに光る彼女の鋭い双眸に睨まれた少女は言葉を返せず、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
その時、昼休みの終わりを告げる予鈴が響き、不意に少女の硬直が解ける。
「あっ! もう戻らなくっちゃ! ありがとうございました!」
ミーナは司書からひったくるように本を受け取り、そのまま振り返る事も無く図書室から逃げるように飛び出して行った。
午後の授業を終えたミーナは小走りにも近い速度で歩きながら、校舎を後にしようとしていた。内心はもっと本を調べたかったが、ジェフとの約束も忘れてはいなかった。
だが、何よりもあの司書にこの本を知られてはいけない――、そんな悪寒にも似た感情が少女の足を校舎から足早に遠ざける主因であった。
「おい」
その時、背後から未だ不機嫌そうなジェフの声が聞こえた。
「や、やあ……」
一度びくりと肩を揺らすと、作り笑いをしながら振り向くミーナ。
「これ、今から売りに行くぞ。付き合ってくれる約束だよな?」
まだ機嫌悪いの? だったら一人で行きなよ――、ミーナは喉まで出た言葉を必死に飲み込むと、仏頂面の少年の後に着いて街中へと歩き始めた。
「どうしても買ってくれないのかよ⁉」
宝石店の薄暗い店内にジェフ怒鳴り声が響く。
「何度も言わせるな、出所不明の品は買い取らん」
店主の発言は至極当然であった。真っ当な商売人が盗品の疑いがあるような代物を、成人してもいない少年から買い取るわけがなかった。
「もう行こうぜ!」
思い通りの結果を得られなかったジェフは扉を乱暴に開け放つと、それ以上なにも言わずに外へと出ていった。
そして、店主に向かい小さく会釈をすると、ミーナは急ぎ足に少年の後を追った。
口を真一文字に結んだままの少年の傍らを、同じように黙って歩いていたミーナだったが、いよいよ沈黙に耐えられずに口を開く。
「あのさ、王都に出ればこういう物でも買ってくれるお店ってあるんじゃないかな?」
あまりにも突拍子の無い少女の言葉に、ジェフは驚きの表情を浮かべて言葉を返した。
「お前、本気で言ってんのか? それってほぼ家出だよな?」
「家出ってわけじゃないよ、ジェフとは違うの。わたしはただ、王都まで行けば本の事が分かるかな、ってそう思っただけ」
肩から掛けた帆布地の鞄を叩きながら、少女は笑顔を少年に向けると言葉を続ける。
「それにさ、もう冬休みにもなるし。どこか遠くまで冒険してみたくて」
屈託のない笑みを浮かべるミーナを見たジェフは、結んだ口元を緩めると呆れたように大きなため息をついた。
「いいぜ、付き合ってやる。家出っていうか、折角のお宝も売りたいしな。その代わりビビって途中で帰りたいとか言いだすなよ?」
「それはこっちの台詞だよ! 逃げ出さないでね!」
景気づけに強めにジェフの背中を叩いたミーナは、夕焼けに照らされた雑踏の中を走り出した。
「んだよ! 俺はビビったりしねえぞ!」
真っ赤に染まる少女の背中を追って、表情の明るくなった少年も行き交う人々の合間を縫うよう通りを駆け抜けた。
それから数日後、いよいよその時がやってきた。
とうに人々が眠りに落ち、日付が変わった頃、ミーナは音を立てぬようにゆっくりと窓から自分の部屋を抜け出した。
祖父には何も言わず――罪悪感はあったが、言えば反対される事は分かっていた――せめてもの罪滅ぼしに、一通の置手紙を残して家を後にする。
なめし革で出来た外套をしっかりと着込み、普段よりも遥かに重たい鞄を肩に掛け、ジェフとの待ち合わせの場所へと静かに、ゆっくりと歩き出す。
けれども、はやる気持ちを抑えきれない少女の歩みはやがて駆け足となる。荒くなった息は吐き出される度に白く、湯気のように広がり消えていく。
やがて待ち合わせ場所の、街外れの丘にある大木が見えてくると、そのそばに立つ人影が見て取れる。ミーナは大きく手を振りながら駆ける速度を更に上げた。
「おまたせ!」
「待ちくたびれたぜ、来ないのかと思ったぞ」
息を切らす少女を見ながら、少年は茶化すように笑みを浮かべる。
「さっさと行こうぜ、明日の日暮れまでには隣町に着かないと」
ジェフは腰に携えた長剣の具合を直しながら言う。
「それ、どうしたの?」
「ん、この剣か? うちの店のを一本持ってきたんだ。あんだけこき使われたんだから、給料代わりってとこだな。いざとなったら、未来の剣豪になる俺が守ってやるよ」
少年がそう言って笑うと、その白い歯が月明かりに照らされる。
「ばれたら大変じゃん! ……まあ、どっちみち戻ったら大目玉だけどね!」
他愛も無い会話の中、二人は笑いあう。
そして、ひとしきり笑い声が聞こえた後、小さな二つの影が丘の向こうへと真っ白な月に見守られ、ゆっくりと消えていった。