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第十九話 夕焼け

「うわぁあ!」


 鋭い拳撃がミーナの頭上をかすめ、背後の石壁を砕く。

 もう彼女に出来る事はただただ逃げ回る事だけだったが、それでも何か出来る事は無いかと必死に思考を巡らせ続けていた。


「うう……」


 少女が必死に怪物の気を引き付けている頃、エリーは鮮明では無いものの意識を取り戻した。

 ぐったりとした体に懸命に力を込めて顔を上げると、彼女のぼやけた視界に入ったのは今にも打ち殺されそうな少女の姿。


「やめなさい! あなただけでも逃げるのよ!」


 酷く痛む喉に精いっぱいの力を込めて叫んだつもりだったが、その声は少女の耳には届かなかった。それならばと残された力を振り絞って手のひらに火球を湛えるが、何かを思いついたかのようにその炎を消した。

 そして何度か咳払いをすると、再度渾身の力で声を張り上げた。


「ミーナちゃん! 指輪を!」

「えっ⁉」


 もう駄目だと思っていた少女にとって、これ程にも無く心強い声だった。満身創痍とはいえ、エリーの意識が戻ったことは彼女の折れかけていた心を立ち直らせるには十分だった。


「でも……っ」


 言われた通りに、けれどもこの攻撃がとても通用するとは思っていなかったが、それでもミーナは指輪に念を込める。

 深紅の感応石が煌めくと辺りを紅く染め上げる炎が立ち昇り怪物を包み込んだが、その結果は少女の思った通りだった。それは全く意に介さないかのように炎を掻き分け、拳を振り下ろす。


「違うの! 私に指輪を!」


 声に反応したミーナは、飛び退くように攻撃を避けた後にエリーの元へ駆け寄る――はずだった。

 肉体的な疲労に加え、如何に感応石という媒体を通したと言っても、何度も術を使った事で彼女の体力は限界に達した。踏み出した足にはもはや力は入らず、踏ん張りの利かなくなった膝が折れる。

 少女はまるで熱射病でも罹ったかのように体が熱く、意識も焦点も定まらない。


(ちょっと……マズいな……)


 僅かに残った意識の淵に残る絶望、そして眼前に迫る怪物。


「しっかりしろよ! ミーナ!」


 それでも天は少女を見放さなかった。先ほどの回復術で戻った力の全てを振り絞ったジェフが怪物の足首に一太刀浴びせたのだった。


「うごおああああ‼」


 強烈な痛みで悲鳴を上げた敵の標的は、右手一本で長剣を構えるジェフへと移った。

 もはや誰かの心配をしている場合では無かった。幼馴染にもらった僅かな時間でミーナはエリーへの傍へと急いだ。




「まだまだだぁ‼」


 火事場の馬鹿力なのだろうか、使い物にならなくなった左腕を揺らしながら片手で操る長剣は、既に怪物の手の指を数本斬り落としていた。


「指輪を!」

「はい!」


 エリーは指輪を受け取ると、歯を食いしばるような表情を浮かべてそれを握りしめた。微弱な紅い光が輝き、広げた手のひらの上には宝玉の内部に光を湛える指輪の姿があった。


「これが私に残された全ての力。ミーナちゃん、ここにあなたの力も込めれば、さっき言ったようにこの感応石は激しい爆発を起こすはずよ」


 だが、手渡された指輪の宝玉は、先ほど砕け散った灯り取りの感応石とは違い、ひびの一つも入っていなかった。


「でも、これをどうすれば……」

「あの魔物に生半可な術は効かない、かといって懐に飛び込むのは自殺行為。ならばあなたのその武器で、奴の急所にこれを命中、炸裂させるしかないわ」


 少女の左手に握られたパチンコに視線を落とすエリー。それは打つ手無しのミーナたちに残された最後の手段だった。


「頼んだわよ、大丈夫、ミーナちゃんなら出来るわ」


 励ますかのようにミーナの手を握る彼女の手は力無く、そして氷の様に冷たかった。

 そして、力を使い果たしたエリーは崩れるように倒れ込むと、再び意識を失った。


「まかせて……ください!」


 ミーナは自身を鼓舞するかのように呟くと、二人と同様に最後の力を振り絞り、異形の魔物を打ち倒すべく立ち上がった。




 まともに喰らってはいないものの、何度も攻撃をその身に受けていたジェフの顔は腫れあがり、全身の至る所に鮮血の跡が残る。

 それでも懸命に剣を振るい続けていたが、いよいよそれも限界に達したようだった。折れた左腕に攻撃を受け、少年は咆哮のような悲鳴を上げると膝から崩れ落ちる。


「ジェフ!」


 駆け寄る少女は決着をつけるべく、指輪を握りしめた。

 急所、いかに怪物であっても必ず弱い、柔らかい、脆い箇所があるはず。ミーナはそれが何処なのか考えつつ、指輪をパチンコにつがえる。


――爆発する、膨張する、膨らむ。そうだ、あの部分ならば!


 少女は閃いたかのように目を見開き、武器を構えた。


「おい! ばけもん! こっちだぞ!」

「あいつ、なにを……?」


 少年がうずくまったまま見つめる先には、かつて彼に玩具と揶揄された武器を構え、自身に攻撃を引き付けようとする幼馴染の姿が。それを見たジェフは身を転がせて怪物から間合いを取ると、長剣を再び握り直した。

 その動きを視界の隅で見たミーナは、一瞬だけジェフの方を見ると小さく頷いた。

 少女の決意をくみ取った若き剣士は次に繰り出す一太刀が最後だと自身に言い聞かせ、残された力を振り絞り、震える足で立ち上がる。

 そして、満身創痍の少年のとどめを後回しにするかのように、挑発に乗った怪物はミーナににじり寄る。

 けれども、少女は一歩も引く事無く構えを崩さない。徐々に、徐々に詰まる間合い。

 あと一歩も踏み込めば怪物の拳が届く――、その瞬間だった。


「ジェフ!」

「まかせろ!」


 ぼろ雑巾のようになったその姿からは想像出来ない跳躍で、ジェフは敵の太ももに剣を突き立てる。慢心から身構えることなく、もろに攻撃を受けた怪物は激痛に絶叫する。

 そして、その裂けんばかりに開かれた口にミーナは狙いを定めつつ、指輪の宝玉に術の力を込める。摘まんだ指に感応石が砕け始める感触が伝わり、限界に達する――はずだった。

 だが、いくら少女が念じてもそれ以上に石が砕ける事は無く、限界を迎えるのは彼女の方だった。

 けれどもその時、不意にミーナは胸のあたりから優しい暖かさを感じた。


(負けないで……)


 聞き覚えのある声とともに、体に力が戻ってくるような気がすると再び術を込め――。


「くらええ‼」


 放たれた指輪は宝玉の中心からまばゆい光を発しながら放物線を描き、そして怪物の口へと飛び込み、その体内へと入り込んだ。

 次の瞬間、くぐもった爆発音が響くと怪物の胴体が一瞬膨れ上がる。

 もはや戦う力など残ってはいないものの、構えをとり続ける二人の前で怪物は動きを止めていた。これが駄目なら成す術無し、ミーナたちの体力は限界に達していた。


――そのまま倒れてくれ!


 二人の願いは通じ、怪物は背からその巨体を石床へと倒れ込ませ、二度と動くことは無かった。


「や、やった! やっつけたよ!」


 勝利を確信するように叫んだ後、二人は腰が抜けた様にその場に座り込んだ。




 静寂の中、ようやく立ち上がったミーナはジェフの元へと歩み寄った。


「さっきはありがとう、助かったよ」

「どうってことねえよ」


 座る気力もないのか、いつの間にか大の字に寝転んだジェフは、腫れ上がったその顔にきざな笑みを浮かべて答えた。


「痛いでしょ?」

「まあな。でも俺よりもエリーさんを……」


 少女は促されるままにエリーの傍へと向かい、うつ伏せに倒れ込んだままの彼女の身を抱える様に介抱する。小さく肩を揺さぶると彼女は小さくうめきを漏らし、僅かにだが目を開けた。


「やったの……かしら?」

「はい!」


 その言葉を受け、少女の腕の中でエリーは安堵の表情を浮かべた。


「ありがとう、あなたのおかげよ。さあ、本を、もう一冊の本を探して」


 エリーはそう告げると支えられながらゆっくりと上体を起こし、温もりの戻りつつあるその手でミーナの頬を撫でた。

 少女は一度小さく頷き、部屋の中央に置かれた祭壇へと足を進めた。




 鈍い色の金属で出来た箱を覗き込むミーナ。一見するとそれはやはり空き箱で――。


「あっ!」


 思わず声を上げると、箱の端から僅かに顔を覗かせる紐を見つけ、それを引き上げる。かぽっ、と小さな音と共に底板が外れ、箱は二重底になったその正体を現した。

 そして思った通り、そこには一冊の革表紙の本が置かれていた。


「はー、これが禁術の書かれた……」

(これを見つけてくれる人がお姉ちゃんたちで良かった)


 本を手に取り一人呟くと、それに応えたかのように幼い女の子の声が聞こえた。それが何なのか、誰の声なのかを理解していたミーナは、懐に入ったブローチを服の上から押さえつつ、おもむろに目を閉じた。


(さっきはありがとう、あなたが力を貸してくれたんでしょ?)


 声には出さず、静かに祈るように想いを心に浮かべると、再び幼子の声がミーナの心の中に囁き掛ける。


(どういたしまして。でも本当に助けてくれたのはお姉ちゃんたちの方。ずっと、暗い、何もないところに独りぼっちだったのを連れ出してくれた……)


 その声は僅かに震え、涙しているようだったが、それでも語る事を続けた。


(でも、もうここから連れ出してくれても、わたしは独りぼっち。お父様もお母様も居ない)


 少女は彼女の身に起きた事を、何となくだが感じ取った。だが、その身に起きたであろう悲劇を根掘り葉掘り聞くことははばかられた。


(わたしはどうすればいいの? 何か出来る事は?)

(もう思い残す事は無いかな。私のようになる人が、これ以上現れない様にしてくれたしね)


 生と死の狭間に取り残された孤独な魂の、感謝にも似た呟きは、少女の心を深く突き刺した。

 そして、紅の宝玉に宿った魂は先の戦いにおけるミーナへの助力によって、その存在は既に薄れ始めていた。それは呪縛からの解放でもあり、そして別れの時が近づいているという事でもあった。


(ねえ、最後に、空を、太陽が見せて欲しいの……)


 消えゆくような呟きを受けた少女は、小さく頷くと階上の塔へと向かった。




 強い季節風に煽られた雪雲は既に少女の頭上から姿を消し、山際に沈み行く朱い太陽はその姿を名残惜しそうに隠していく。その一方では夜がゆっくりと大地を包み始め、薄紫から濃い藍色へと空を染め上げていった。

 そんな寒風に晒されながら、懐から取り出したブローチの宝玉には無数のひびが入っていた。ミーナはそれをそっと手の平に乗せ、夕焼けの光が深紅の宝玉へと差し込む様に手を向けた。


(これでいいのかな?)

(ありがとう、とてもきれいね。だけどもう夜が来る、何だかさみしいな)


 それがミーナの聞いた最後の囁きだった。夕日に吸い込まれるように宝玉は暖かな光を一度放つと、それっきり輝く事は無かった。

 そして、その深紅の、鮮血のような宝玉はゆっくりと輝きを失った紺碧色へと姿を変え、やがて一陣の風に吹かれると、粉雪の様に舞散っていった。


「これは……」

「あなたの魂が……心が、その子を縛り付けていた呪縛から解き放ったのかもしれないわ」


 ミーナが声に振り向くと、エリーが壁にもたれるように立っていた。


「始まりと終わりは表裏一体。生命の終わり、死とは消滅ではなく魂の回帰。生命の象徴たる太陽も、夕焼けと共に夜の暗闇に飲まれていく。けれども、それは終わりでも消滅でもないわ」


 おもむろに少女の傍へと歩み寄った彼女は、今まさに沈み行く夕日を見つめる。


「これで良かったんでしょうか?」

「さあ? それはミーナちゃんが一番良く分かっているんじゃないかしら」


 空は濃紺に染め上げられたが、通り風が、それは場違いなほどに暖かく、優しく吹き抜けた。


「帰りましょう。皆が心配しているわよ」


 穏やかな笑みのエリーに、ミーナは悲しげな表情を一瞬見せたが、すぐにいつもの明るい笑顔に戻ると、少し大げさに頷いた。

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