第十八話 窮地
青白く冷たい光に包まれた部屋に、叫ぶような女の声がこだました。
「さあ奴らを引き裂け! お前たちのような、社会のはみ出し者に打ち殺される絶望をとくと味合わせてやれ!」
言葉を受け、怪物――先ほどまではどこにでもいるようなゴロツキであったが――はミーナたちに襲い掛かると思われた。エリーとジェフは武器を構え直し、ミーナも一応だが構えをとる。
だが最初に怪物が狙いを定めたのはその背後に居た老女だった。
「な、なにを……⁉」
化け物は振り返ると、司書の喉を締め上げつつ体を持ち上げ、更に力を込めていく。苦しみもがく老婆は枯れ枝のような細い指で、自分を押さえつける手を必死に振り解こうとした。
だが抵抗虚しく、濁った音の断末魔のうめきと共に何かが砕ける鈍い音が響いた。
そして、それとほぼ同時に抵抗していた老婆の動きは完全に止まった。
「自我や知性が、僅かかもしれないけれど残っているのね。自分が侮辱された事を理解しての行動よ」
短剣を構えたままにエリーが呟くと、ミーナとジェフは余計に青ざめた。
「獣を相手にするよりも、よっぽど質が悪いって事ですね」
「殺されずになまじ捕まったら……」
これ以上の想像は無用だった。無用な恐怖は判断力を鈍らせることになる。
怪物は手にした死体を投げ捨てると、おもむろに振り返る。そして仕切り直しとばかりに再度、階上にまで響くのではないかという咆哮を上げた。
改めて対峙するその巨体は、少女の二倍はあろうかという大きさだった。そんな怪物を眼前にミーナもジェフも、そしてエリーですらも震えが止まらなかった。
「ち、ちっくしょおおお!!」
数秒、双方はにらみ合っていたが、緊張に耐えられなくなったジェフが大上段に剣を振りかぶったまま飛び出す。
大振りの一撃は空を斬り、避け際に繰り出された怪物の拳が少年の体を捉えると、その威力は少年の体を壁際まで弾き飛ばした。
「ジェフ!」
悲鳴にも似たミーナの叫びが響くと、エリーは覚悟を決めたかのように唇を噛み締めた。
「ジェフくんを連れて逃げなさい!」
「で、でもエリーさんは⁉」
「いいから! 早く!」
躊躇う少女を怒鳴りつけると、エリーは雄叫びを上げながら怪物へと斬り掛かった。
壁際に倒れ、ぴくりとも動かない幼馴染の元へと駆け寄ったミーナは、その体を抱き起こす。あらぬ方を向いた左腕と折れた鼻からの出血、見て取れる負傷以外にも怪我がありそうだった。
「ジェフ! ねえジェフ!」
少女の問い掛けに反応は無く、少年は完全に意識を失っていた。
「連れて逃げろって言われても……」
少女は震える腕で幼馴染を抱えたまま、エリーの戦いに目をやった。
戦況は芳しくなかった。荒い息遣いと顎から滴り落ちる汗が、彼女の消耗具合をはっきりと物語る。
怪物の大振りな攻撃の間を縫う様に斬撃を放っても、それは僅かに表皮を傷つけるのみ。かといって、距離を置いて放つ火術も、その強化された肉体には何の意味も成さなかった。
娘の動きは徐々に鈍くなり、放つ火球も小さく弱々しくなっていく。
「はぁ……、はぁ……」
息も絶え絶えに、やがて防御一辺倒になった彼女は、石壁に退路を断たれる。
「どうしよう……」
自分に出来る事が何か無いのものか――。ミーナは未熟な自分を呪いつつも、必死に何かをしようとした。
そして見様見真似だが、一応、知識としては持っている回復術をジェフに施そうと試みる。
「生きとし生けるもの、全てを守り包み込む水の癒しを今この者に与え給え……」
高々と掲げた両の手から滴り落ちる湧き水の如き光が、優しく少年の体を包み込む。
その煌めきの強さは、かつてエリーが見たせものと比べれば、ほんの僅かでしかなかったが、少年の意識を取り戻させるには何とか事足りる力ではあった。
「うぅ……」
「ジェフ! ねえ起きてよ!」
力量に見合わない高位の術のせいで、少女は軽い吐き気すら覚えたが、それよりもジェフを救う事で頭がいっぱいだった。
そして、何度かミーナが声を掛けると、やがて少年は少女の名を呼び返した。
良かった――、そう思ったのも束の間だった。
背後から乾いた音が響き、少女が振り返ると、そこには窮地に追いやられたエリーの姿があった。
手から滑り落ちた短剣は乾いた音を響かせて石造りの床へと落ちた。エリーは首を絞め上げられたまま壁に押し付けられ、その両足が地を離れる。
「はな……し……な……さいよ……」
異常に節くれ立ち、肥大化した怪物の指に手を掛けて振り解こうとしても、人のそれを遥かに超えた怪力に抗う事は出来なかった。
けれども、死を覚悟した彼女の予想とは裏腹に、一向にとどめを刺しに来ない怪物は口角を上げると、目を細めて不気味な笑みを浮かべた。
それがどういう事なのかを悟ったエリーは、化け物の思い通りになるくらいなら、と自身に残された全術力を使い、己の生命を使い果たしてでも一矢報いることを考える。
だが首を締め上げられた彼女の意識は徐々に遠のき、その引き剝がしに掛かる手も痺れ、やがてその腕も力無く垂れ下がった。
それを見た怪物は増々好色な笑みを浮かべたが、それも束の間、不快な感触を背に受けて顔を向けた。
「エ、エリーさんを放せ!」
震える手でパチンコを構えたミーナはそう叫ぶと、振り返った怪物の顔面目掛けて、もう一度小石を放った。
楽しみを邪魔された化け物はこめかみに青筋を浮かべながら怒りに震えた。少女が再度放った小石は額に当たったが、それは怪物を刺激し逆上させるにしかならなかった。
だが、怒り狂った怪物がエリーから手を放した時点で、ミーナの目的は一つ達成された。
「や、やば……」
とは言え、ごく低音の唸り声と共に睨みつけられたミーナは背筋の凍る恐怖に縮み上がる。
それでも勇気を振り絞って次弾を構え直すと再度狙いを定めた。次こそは目を潰してやる――と考えている間に怪物はその巨躯からは想像出来ない身のこなしで、少女目掛けて突進した。
「ひぇええ!」
構えを解いたミーナは間一髪でその攻撃を避けると、両の拳から続けざまに繰り出される猛攻を必死に避け続けた。小柄で身軽な彼女は宙を舞う木の葉の様に嵐のような攻撃をかわし続けたが、逆を言えば少女の体では怪物の一撃にとても耐えられないという事であった。
右に左に、時には化け物の股を抜けて身をかわすミーナ、伊達に野山を駆けていない体力と身のこなしだった。
けれども、避け続けていてもどうにもならない事は明白で、負傷した二人と共に生還するには眼前の怪物を殺さないまでも、行動不能にする必要があった。
そして好機は訪れた。如何に怪物といえどもその巨体を動かし続けるのは相当に疲労する。そして敵が疲弊し、動きが止まったその一瞬をミーナは見逃さなかった。
今度こそ命中させてやる――、その強い意志が手の震えを一時だけ抑えてくれた。引き絞った弦から放たれた小石は、甲高い風切り音と共に怪物の眼球を直撃した、ように見えた。
だが人ならざる怪物にとって、命中の瞬間に咄嗟に瞼を閉じ目を守る事など造作も無かった。
もっとも、ただの人間ならば瞼を閉じた所で、一時的とはいえ視力を失う程の威力はあっただろう。だが、強化人間たる怪物には単に痛みを与えるのが関の山だった。
「だ、だよね……」
怒りに燃える怪物は、痛む瞼を擦りながら少女を睨む。秘策と思っていた一撃が通じず、ミーナはひきつった笑いを浮かべるほかなかった。