第十話 介抱
どれほどの時間が経ったのか、もしかしたらそれほどは経ってはいないのかもしれない。まるで泥に沈んでしまったかのように重たくなった体を必死に動かし、ミーナはゆっくりと立ち上がった。
いつまでも座り込んでいるわけにはいかない。まずは適当な綱で侵入者を拘束し、次いで、傷つき倒れた幼馴染の容態を確認する。
「ねえジェフ、しっかりしてよ!」
僅かに涙声の少女の呼びかけに少年は反応を示さない。ミーナは揺さぶっていた手を止め、うつ伏せになったまま動かないジェフの体を仰向けに起こす。
そこで少女の目に入ったのは切り裂かれて血まみれになった衣服と、かがり火の赤々とした灯りでも解るほどに血の気が引いた、土気色の少年の顔だった。
未だ出血は止まらず、衣服に染み込みきらない鮮血が甲板を濡らす。
「すぐに誰か呼んでくるから!」
あまりの惨事に少女は吐き気とめまいを覚えたが、必死に意識を保とうと二、三度深呼吸し、船室へと駆け出した。
何度声を掛けても起きない船長は捨て置き、エリーを連れたミーナが急ぎ足に戻る。
「事の詳細は後で聞くわ。とにかく早く手当てをしないと」
後ろ髪を束ねつつ、娘はジェフの傍へとしゃがみ込むと、手早く衣服を脱がせていく。
「ジェフは……助かりますよね?」
その傍らに同じくしゃがみ込んだミーナは、真剣な表情のエリーを覗き込むように尋ねる。
「大丈夫、助けて見せるわ」
悲痛な少女の問いに、彼女はその蒼色の瞳を動かさずに答える。そして赤黒く変色し始めた血に塗れた衣服を脱がし終えると、刀傷を露出させた。
するとエリーはおもむろに自身の上体を起こし、意識を集中させるかのように数回大きく深呼吸した。
そして、その長いまつ毛を伏せると、天からの雫を受け止めるかのように両の手ひらを高々と掲げる。
「生きとし生けるもの、全てを守り包み込む水の癒しを今この者に与え給え……」
術の詠唱とともに真珠色の輝きが彼女の手を、ともすれば全身を包み込み、その光の源を瀕死の少年の体へと振りまいた。虹にも似た輝きを放つ乳白色の雫がジェフを包み込み、その体も同じように輝きを帯びる。
そして一瞬、閃光にも似た強い輝きを放つと光は消え、かがり火の揺らめく灯りだけが辺りを照らす。
「あ! 傷が治ってる!」
目が慣れ、再び薄暗い船上で物を捉えられる様になった時には、先ほどまでは出血が止まらなかった傷が、何事も無かったかのようにすっかり塞がっていた。
「もう大丈夫よ。もっとも表面上の出血を止めただけだから痛みは残るでしょうけどね」
そう言うとエリーは倒れる様に床にへたり込んだ。額には大粒の汗が浮かび、大きくため息をつくと、ぐったりとした様子でその頭を垂れる。
「エリーさん!」
そんな彼女の傍に寄り、ミーナは心配そうに顔を覗き込んだ。
「これだけ高位の術を使うのは久々だから、流石にくたびれたわ」
「と、とにかく部屋に戻って休んでください! 見張りは一応わたしがしますので!」
「ありがとう。ちょっと心配だけど、そうさせてもらおうかしら。……そうだ、これをお守り代わりに渡しておくわ」
顔を上げて作り笑いにも似た苦しそうな笑顔で少女にそう言うと、エリーは小さな宝石のはめ込まれた指輪を懐から取り出した。
「炎の感応石がはめ込んであるの。私にはあまり用が無いから、ミーナちゃんにあげるわ。結構上質な感応石だから、小さな力でも強烈な火炎を生み出せるわよ」
「ありがとうございます。……でもこれって大事な物じゃないんですか?」
「いいのよ、持っていて。あなたが使った方が役に立つはずよ」
「じゃあ……、取り合えず借りるって事で」
高価というよりも、何か別の意味で大切な雰囲気のする指輪だったが、彼女の好意を無下にするわけにもいかず、少女はそれを受け取り指にはめた。
「部屋まで肩を貸しますから。早く休んでください」
「大丈夫、それよりジェフくんを……」
その時、突如として大きな水音が辺りに響く。一瞬、二人は顔を見合わせた後、拘束したはずの男の方を見た。
だが、その姿は既に無く、切断されて残った綱だけがそこにあった。
「逃げられた……」
ミーナは船の縁に急いで駆け寄ったが、その瞳に映ったのは黒々とした川面に残る波紋だけ。
「もう襲って来ないと思うわ、今日は……ね」
同じく水面を見つめながら怪訝な表情を浮かべるエリー。彼女の顔を横目で見ながら、少女はこの先に待ち受ける何かを感じ取っていた。
「取り合えず、少し休ませてもらうわ。ジェフくんもしばらく休ませないと」
意識の戻らぬ少年を船室のベッドに運んだ後、エリーも疲れ果てたその体を横たえた。
「何かあれば起こしてちょうだい。次はちゃんと起きるわ」
布団を被った二人を見届けたミーナは、緊張と恐怖で、胸が張り裂けそうになりながらも見張りを始めた。
東の空が白むころ、髭面の男は呑気な大あくびとともに甲板に姿を現した。
「おはよ……って、なんで嬢ちゃんが見張りを⁉」
船長の姿を見た少女は強張った顔つきを一転させ、安堵の表情を浮かべると深くため息をついた。
そして無事に朝を迎えられた事と、ようやく孤独な時間が終わった事で緊張の糸が切れ、その瞳からは大粒の涙がこぼれる。
「な、なに急に泣いてるんだ? 説明してくれないとわからんよ!」
少女の涙に動転した船長は、樫の木を思わせる染みだらけの両手を彼女の肩へとやった。
「よ、夜に、ジェフがっ……」
泣きじゃくり、上手く言葉が発せない。
それでも何とか気を落ち着かせながら、一つ一つ単語を区切りながらも事の顛末を告げていった。
「そんな事があったのか……気づけなくて、本当に面目ない」
随分と時間を掛けながらも、話を一通り伝え終えた少女。その体力は限界を迎えたのか、まるで糸の切れた操り人形の如くその場に崩れ落ちた。
「嬢ちゃん! おいっ、しっかりしろ!」
視界は真っ白な霧に包まれ、自身を呼ぶ声は遠く、まるで地の果てから聞こえるかのようだった。