第九話 襲撃
雲が空を覆ってしまったのか、月も星も見えない真っ暗な夜だった。
「うー、寒いし眠いなー、てか怖えーよ」
外套に包まったジェフはかがり火の傍で震えていた。
静けさがひたすらに辺りを覆い、時折聞こえる、何かが跳ねるような遠くの水音や、獣の遠吠えが少年の不安を掻き立てる。
その時、船首の方で今までとは少し違った水音が聞こえたような気がした。
「なんだ……?」
一体なんだろうか――。様々な想像が脳内を駆け巡り、それはいらぬ恐怖を煽る。
けれども自分の役目を全うしようと、勇気を奮い立たせ、音のした方へとゆっくり歩みを進めた。
手が震え、胸の鼓動がはっきりと感じ取れる程に強く、そして早くなる。
だが、剣に手を掛けると気持ちがほんの少し楽になり、手の震えが治まったように感じた。
時折、ゆっくりとした川の流れに船が僅軋み音を立てる以外には、少年の息遣いとゆっくりとした足音以外、物音はしない。
そして船首までたどり着いたジェフは音のした箇所を見回す。
「……なんも無い、よな」
恐怖を押し退けて覗き込んだ彼の目に入ったのは、先ほどと変わらぬ黒々とした川面だけ。ジェフは大きくため息をつくと、安堵の表情で振り返る。
「えっ?」
すると、そこには自分しか居ない甲板に立つ何者か。仲間が仮に船室から出て来たというのならば、声の一つでも掛けてくれても良いはず。
だが少年の目に入ったのは黒衣をまとった、見るからに不審な侵入者と言えるそれであった。そして、その者は何を言うわけでもなく、突然に手にした短剣を少年へと斬り下ろした。
ジェフはとっさに抜いた剣で、間一髪その凶刃から身を守る。体勢を崩し倒れた少年は、転がりながら間合いを取った。
「運の良い奴だ」
黒衣と覆面で身を覆った侵入者――声から察するに男――は、忌々しそうにそう言い放った。
「じょ、冗談だろ……本当に賊が襲ってくるなんてよ」
震える切っ先を男の方に向けたままゆっくりと立ち上がると、ジェフは自分の不運を呪うかのように呟いた。
「賊ではない、私はあるお方の命を受けてお前たちが持つある物を頂戴しに参じたのだ」
「ある物……?」
緊張と恐怖で手汗が止まらなかった。汗で滑る柄を何度も握り直しながら構えを維持する。
「そうだ、お前たちのような下々の者には無用の長物。我が主にこそ必要なのだ」
この侵入者が何を奪いに来たかを、ジェフは何となくだが察したが、だからと言って、むざむざとそれを渡す気も起きなかった。
もっとも素直に渡したところで自分たちの命が助かるとは到底思えない。間違いなく口封じに殺されるであろう。
退くにしても進むにしても、無傷ではいられない――。少年は覚悟を決めた。
「おーい‼ 誰か起きてくれー!」
唐突に大声を上げるジェフ。
こんな事をすれば男は逆上するかもしれない。だが、未熟な彼が一人で戦って勝てる相手とは到底思えず、残された方法はこれしかなかった。
前方から注意を逸らすことなく、手にした長剣の刃先を襲撃者に向けたままで少年は声を張り上げ叫び続けた。
「ふん……、そんな事で誰が目覚めるわけもなかろうに。あらかじめ、この船のぶどう酒に眠り薬を混ぜておいた。夕食時には皆、口にしているだろう。もっともお前のような小僧は別だがな」
覆面の上からでも男の冷笑がとって見えた。そして、その冷たい笑みが消えると同時に男の目が殺意に満ちた。
「貴様のその行動、素直に渡す気は無いということ。ならば殺してから奪うのみ!」
男は構えを取り直すやいなや、ジェフの眼前に飛び込むと目にも留まらぬ速さで斬撃を繰り出した。
「うわっ!」
稽古では味わう事の出来ない本物の死への恐怖。そして、真の殺意を持った刃の鋭さに少年はおののいた。
もはや男を倒すことは出来ないと悟ったジェフは、防御の構えで敵を迎え撃った。
「そらそらっ! どうした! 守り一辺倒ならば私の攻撃を防ぎきれるとでも思ったか!」
斬撃の嵐にジェフは致命の一撃をもらわない事だけを考え続けた。それでも腕や足には何か所も傷を受け、滲んだ血が切り裂かれた衣服を紅く染めていく。
「おーーい‼」
それでも声を張り上げ続けた。誰か起きてくれ――、そんな思いを一心に叫び続ける。
だが徐々に後退する少年は、非情にも壁の感触を背に受けた。
「マジかよ……」
中段に構えた剣の向こう、男から目だけは離さず少年は呟く。
命乞いをするか、それとも自分だけでも逃げ出すか――。
様々な考えが脳裏に浮かんだが、想い人や幼馴染を捨ててそんな事は出来ない。ジェフは再び覚悟を決めた。
「うおおおおっ‼」
破れかぶれの一撃だった。上体を低くしたままに素早く相手の懐に飛び込み、そのまま致命の一撃を敵の喉元に突き立てる――はずだった。
「苦し紛れに捨て身の一撃とは……見苦しい」
襲撃者はジェフの渾身の一撃をいとも簡単にかわしつつ、すれ違い様に手にした短剣を斬り上げた。刃は少年のわき腹から肩を切り裂き、噴き出した鮮血が甲板を濡らす。
「くはっ……」
声にならない呻きをあげると、ジェフはその場に倒れこんだ。
「窮鼠猫を噛む、とはならなかったな。まだ息があるだろうが時間の問題よ。そこで己の愚かさを悔やみなが息絶えるがいい」
甲板に沈んだ少年へと視線を落としていた男は、冷徹な台詞を吐き捨てると顔を上げた。
「ジェ……フ……?」
そこで侵入者の目に入ったのは、目を見開き恐れおののく年端もいかぬ少女の姿だった。
幼馴染の必死の叫びで目が覚めたミーナは、寝間着姿のままで甲板に駆け付けていた。
「いったいなにが……?」
「お前があれを見つけた小娘か、これで探す手間が省けた。渡してもらうぞ、お前が持つあの本を!」
襲撃者の目的はミーナの見つけた、あの古びた本だった。少女は男の言葉を聞き、先日のエリーとの会話を思い出した。
「まさか本当に……」
魂そのものを操る術、在るかどうかさえ不確かなそれを求める、これまた同様に存在すら不確かな組織。
だが目の前の男は確かに存在していて、自分の持つ本を奪わんとしている。
「あなた達みたいな悪人に、渡すわけ、ないでしょ!」
ミーナは勇気を振り絞り、男を威嚇するように怒鳴りつけた。恐怖が全身を支配し、手は震え、額からは脂汗が噴き出した。
「悪人とは心外だな。我々、そして我らが主の求めるものは貴様らになど到底理解出来ぬ崇高な意志なのだ。そしてそれを邪魔するのであれば女子供であろうとも排除するのみ」
刃の切っ先を少女に向け、黒衣の男は言葉を返した。そして言葉通りに彼女を手に掛けようと、ゆっくりと間合いを詰め始めた。
「安心しろ、苦しませずにすぐ小僧の所に連れて行ってやる」
小柄で丸腰の少女相手に油断したのか、先ほどとは違い、男は不用心な動きをとる。
自らに向けられた刃、床に倒れこみ動かない幼馴染、助けが現れる気配は無い。ミーナは後ずさりしながら拳を握りしめる。絶体絶命、奇跡が起きない限りこの男を倒す事は出来ない。――そう、奇跡が起きなければ。
不意に少女は日中の特訓の事を思い出した。望む事象を強く願う事、これこそが術を成功させる秘訣だと。
――望む事、それは仲間を、皆を、ジェフを守る事。自分の目の前に立つ、この冷酷な悪党を懲らしめたい。
「やられてたまるかああああ!」
殆ど破れかぶれになったミーナは瞼を固く閉じ、両手の平を男に向けて雄叫びを上げた。その脳裏には、かつてエリーがごろつきを追い払った時の様子が鮮明に思い浮かび、彼女の姿を今の自分と重ねる。
「くらえええ‼」
爆炎を思い浮かべ、自身の怒りが手の平から発散されるイメージを現実と重ね合わせる。
その瞬間、目を大きく見開き、体内に宿る力を手の平から発散させる。
「なにっ⁉」
男を包み込む炎と、静寂を切り裂く爆裂音。
虚を突かれた男は避けることも出来ずに、少女の作り出した爆発に吹き飛ばされ、そのまま後頭部を甲板へと打ち付けた。
しばし、何かが燃えたような臭いと白い煙が漂っていたが、それも直ぐに夜風にかき消された。
「で、出来た……」
視界が晴れると、そこには気を失った敵が倒れている。少女は力が全身から抜けてゆくのを感じ、そのまま床へと座り込んだ。
そして再び、静けさが辺りを包み込んだ。