六章 陸軍基地 03
すけべが本当はこの前に一話分あるんですが全カットしております。
「あー嫌だ……、行きたくない……」
翌朝、朝食を終えるとディートハルトは憂鬱そうに出かけて行った。
今日は士官学校やら病院やら、軍関係の施設を色々回る事になっているそうだ。王子様の訪問は士気高揚に繋がるとかで、ヴェルマー中将から依頼され、断りきれなかったようである。
部屋には入れ替わりでドレッセル少尉がやって来て、有紗は昨日に引き続き刺繍の手解きを受ける事になった。
黙々と針と糸に向き合っていると、ディートハルトと過ごした夜の事を思い出してしまう。
彼の体力はどうなっているのだろう。
寝不足の状態で夜まで仕事をしていたというのに、まだこちらに触れる元気があるのだから、有紗とは基礎体力が違う。
この街についてから二日間何もなかったからか、昨夜の彼は激しかった。
「集中できていないようですね」
憂鬱になってため息をついたら、ドレッセル少尉に見咎められた。
「寝不足で疲れているのは確かです。こんなんじゃ駄目ですね。また怪我しちゃうかも」
有紗は力なく微笑んだ。
「……殿下とは上手くいってらっしゃいますか? もしお悩みでしたら力になりますよ」
「何もないですよ。良くしてもらっています」
どうして突然こんなことを聞いてくるのだろう。
もしかして、有紗が本心からディートハルトに従っているのかを確認するため、彼が仕掛けた罠かもしれない。
そう思ったので、有紗は当たり障りのない回答をした。
すると、ドレッセル少尉は小声で囁いた。
「……この部屋は魔術で監視されています。なので、できれば表情を動かさないように注意して聞いていただきたいのですが」
彼女の発言に、有紗は目を見開きかけ――。
「表情を動かしてはいけません。殿下に気付かれます」
注意され、慌てて刺繍を再開した。
「こんな話をして大丈夫なんですか? 盗聴とか……」
「昨日一日かけて探りましたが、音声探知魔術は使われていないようです。私は、魔力はさほど多くないのですが、魔術の解析には自信があります」
そう言って、ドレッセル少尉は微かに口元に笑みを浮かべた。
「仮定の話として聞いてください。もし、殿下の元から逃げたいなら逃がしてあげられると申し上げたら、アリサ様はどうなさいますか?」
「逃げるって……無理ですよ。首輪があるもの」
「そうですね。隷属に加えて、危機を感知して自動的に発動する絶対防御結界、探知、そこに加えて、ディートハルト殿下以外には外せないようにするための呪術も組み込まれています。よくもまあこんな複雑な術式をこんな小さなチョーカーに組み込みましたね……」
ドレッセル少尉の発言には、感嘆と呆れが混ざっていた。
「じゃあ、逃げるのなんて無理じゃないですか。逃亡が殿下にバレたら、首が締まりますよね?」
「確かにおっしゃる通りです。チョーカーを外す事は誰にもできません。ですが、別の魔道具を重ね付けして一部の魔術を無効化する事はできると思います。具体的に申し上げれば、汎用魔術の隷属と探知の二種類は」
「そんなものがあるんですか?」
「ええ」
「…………」
有紗は手元の刺繍を縫い進めながら考えた。
逃げたいか逃げたくないかの二択なら、逃げたいに決まっている。
こんな不安定な愛人の立場は嫌だ。
ディートハルトは妃を迎えるつもりはないと言っていたけれど、それを周りがいつまでも許すとは思えない。心変わりする可能性もある。
必死に媚びても、ある日突然何もかもがひっくり返るかもしれないと思うと恐ろしい。
それだけではない。機嫌を取るための言葉を告げる度に、罪悪感に襲われる。
照れたり、微笑んだり、機嫌よく有紗に接する彼を見ると、胸がドキドキする事だってある。
彼に対する感情は、嫌いが百パーセントではない。
――だから苦しい。
いっそのこと、有紗を思い通りにするために暴力を振るうとか、ずっと暴言を吐き続けるとか、もっとわかりやすく酷い人だったらよかったのに。
(逃げれば解放される……?)
でも、安易に頷くのは危険だ。罠かもしれないし、この世界のインフラは、魔術が使えるのを前提に整備されている。魔力のない有紗は一人では生きていけない。
「逃げたとして、それからの私の生活はどうなるんですか? 私は魔術が使えません。ただ逃げても奴隷に逆戻りか野垂れ死にです」
「そうでしょうね」
ドレッセル少尉は同意すると、小さく息をついた。
「ご安心下さい。ちゃんと考えて下さっています。この計画の立案者は国王陛下ですから」
「えっ……?」
有紗は大きく目を見開きかけ――監視されているのを思い出して、慌てて表情を取り繕った。
「殿下はあなたを得た事を理由に、妃をお迎えになるのを拒否されました。国王陛下はそれに酷く立腹され、あなたを殿下と引き離そうとお考えになっています」
「それは……。そうなっても仕方ないでしょうね……」
ソレルに対するディートハルトの行動はとても酷かった。
「本来ならば、あなたを消すか無理矢理連行したい所なんでしょうけど、難しいので……。まずはあなたの意思を確認するようにと命じられました」
『消す』と言う物騒な単語に有紗は震え上がった。
「不可能というのは……?」
「その首のチョーカーですよ。そこに組み込まれている防御魔術はディートハルト殿下のオリジナルですね……。一般的に普及している魔術ならともかく、殿下がお作りになった魔術を解こうと思ったら、おそらく年単位の時間がかかります。外すのも同じ理由で厳しいです」
「そんなに凄いものなんですか?」
「はい。皮肉ですよね。あなたの自由を縛る鎖が、あなたの命を守っているのですから……」
ドレッセル少尉の言う通りだ。有紗はチョーカーに触れた。
「陛下は、あなたをとある貴族の令嬢に仕立て上げ、王家と密接な関係のある女子修道院であなたを保護するおつもりです。偽装は軍と修道院内の協力者が全面的に協力します。その修道院の院長はクラウディア殿下――。ディートハルト殿下の同母の姉君です」
「もしかして、お姉さんの王女様が協力者……?」
「ええ。軍側は私が。ここを脱出した後は、そのままあなたの侍女として修道院に同行します。魔力面でのサポートはお任せください」
「……目の色はどうするんですか? 修道院には他の人もいますよね?」
「確かに目の色は特別です。魔力量という神の祝福が影響するため、魔術を受け付けません。ですが、王族の方々は別です。理に干渉する術を心得ていらっしゃいます」
「……王様か王女様がなんとかしてくれるという事ですか?」
ドレッセル少尉は頷いた。
彼女だけでなく、二人の王族が助けてくれるのなら、貴族の令嬢に化ける事も不可能ではなさそうだ。
(そもそも、王様が背後にいるのがダメだわ……)
ディートハルトの父親に歓迎されていない時点で、自分が彼の隣にいるのは間違っている。
(でも、罠だったらどうしよう)
ディートハルトが仕掛けた罠なら、彼の信頼を失う。
それ以外の人間の場合は、ドレッセル少尉がさっき言っていた通り、首輪が守ってくれる。
(……あの人の傍は苦しい)
一夜過ごすごとに、心が磨り減っていく。
この苦しみから逃れるために、賭けてみてもいいかもしれない。
「……わかりました。私を逃がして下さい」
有紗は深呼吸をしてから、意を決して答えた。
◆ ◆ ◆
その夜、有紗は戻ってきたディートハルトを、いつも通りを心がけて出迎えた。
「お帰りなさい、ディート様」
「うん。今日も刺繍を?」
「お裁縫ばかりでは肩が凝るので、文字の授業もしてもらいました。後はボードゲームをしたり……」
「そう。ドレッセル少尉とは上手くやれているみたいだね。ありがとう。アリサの相手をしてくれて」
ディートハルトは、有紗の隣にいるドレッセル少尉に向かって礼を言った。
「アリサ様に受け入れて頂けて良かったです」
ドレッセル少尉はどこか硬い表情で返す。
午前中に逃亡の話を持ち掛けてきたから気まずいのかもしれない。
「下がっていい。早くアリサと二人きりになりたい」
「かしこまりました」
ドレッセル少尉は一礼し、前日のように部屋を去って行った。
「やっと二人きりになれた。おいで、アリサ」
「はい。ディート様。お疲れさまでした」
有紗は微笑みながら彼に近付き、求められるがままに膝の上に乗った。