六章 陸軍基地 02
朝食を終えると、ホテルをチェックアウトし、基地に戻る事になった。
正門に車で乗り付けると、世話係に任じられたという女性軍人が現れ、有紗とディートハルトを高級将校用の宿舎に連れて行ってくれた。
ビアンカ・ディア・ドレッセルと名乗ったその女性の階級は陸軍少尉で、ブロンズ色というのだろうか、ピカピカの十円玉のような色の髪を隙なくまとめあげた、銀行員のような印象の女性だった。
瞳の色は紫なので、おそらく中位か下位の貴族である。
この基地の司令官を務めるヴェルマー中将の秘書官で、口の堅さを買われて抜擢されたらしい。
「滞在中はこのお部屋をお使い下さい」
ドレッセル少尉に案内された部屋は、ホテルにはやや劣るが広々としていた。
いや、正確にはホテルと遜色ない家具が一つだけあった。寝室のベッドである。やけに豪華なそれを目にして、有紗は顔を引き攣らせた。
「家具はご要望どおりに搬入したつもりですが、こちらでよろしいでしょうか?」
ドレッセル少尉が尋ねた。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
ディートハルトはしれっと答える。ベッドは彼の趣味に違いない。
「こちらはこの基地に滞在される十日間の予定表でございます。ご確認下さい」
ドレッセル少尉は、居間っぽい部屋の机に置いてあった書類の束をディートハルトに渡した。
彼は書類をぱらぱらとめくると、露骨に嫌そうな顔をした。
「……ちょっと詰め込みすぎじゃないかな? 間に一日しか休みがない」
「苦情はどうぞヴェルマー中将に」
「あのクソじじい……」
ディートハルトは舌打ちした。
「二十分後にお迎えに参ります」
事務的に告げると、ドレッセル少尉は綺麗に一礼して部屋を退出した。
「初日はじじい連中との会合か……」
ディートハルトはソファに腰掛けると、行儀悪く肩肘を付いて足を組んだ。スタイルがいいのでそんな姿も様になる。
「十日もここに滞在するんですか?」
「ここは陸軍航空隊の基地なんだ。だから、ついでにヴァルトルーデの点検と補修をしっかり目にする事になった。それが全部終わるまでは出立できない」
「空軍じゃなくて陸軍……?」
「うん。我が国は空軍を作っていないんだ。航空隊を独立させようって声は一応あるにはあるんだけど。陸の空の上を管轄するのは陸軍航空隊で、海上は海軍航空隊の担当なんだよ。ヴァルトルーデは主に陸上を巡回する浮遊戦艦だから陸軍の所属になるんだ」
「へえ……」
「このスケジュールだと、滞在中はほとんどここで留守番してもらう事になるな……。アリサ、何かあったとしてもチョーカーが守ってくれるはずだけど、部屋からは出ないようにね」
「はい」
有紗は頷くと、首のチョーカーに触れて目を伏せた。
きっかり二十分後、予告通り迎えに来たドレッセル少尉に追い立てられ、ディートハルトは渋々と出て行った。
この十日間は、一日だけ休暇があるのを除けば、びっちりと予定が組み込まれ、夜寝る時くらいしか部屋には戻れないようである。
有紗はそれを聞いて少しだけほっとした。ついでに手を出す気になれないくらい疲れてくれるよう祈っておく。
ディートハルトの背中を見送ると、ドレッセル少尉はこちらに向き直った。
「あらかじめ聞いてはいたんですが、本当に目が真っ黒なんですね。とても綺麗で神秘的です」
ドレッセル少尉は、黒い瞳がよほど珍しいのか、真顔でまじまじと見つめてくる。
「あの、ありがとうございます。そんな風に言っていただいて嬉しいです」
声を掛けると、ドレッセル少尉はハッとした表情をして身を引いた。
「申し訳ありません、不躾でしたよね……」
「いえ、そんなことは……」
気まずそうに言われ、有紗は慌てて首を横に振った。
「殿下がアリサ様に惹き付けられるのもわかる気がします。この部屋、限られた者しか入れないような結界が張られていますね」
「……そうみたいですね」
ドレッセル少尉がやってくるまでの間に、ディートハルトは部屋全体に有紗を守るための魔術を施していた。
だが、彼が有紗に対して抱いているのは、艶っぽいものではなく、お気に入りの玩具を手放したくないという類の、子供っぽい独占欲だと思う。
「とても美しい魔術式です」
ドレッセル少尉は、室内をまじまじと見回してから、有紗に向き直った。
「殿下を待つ間の退屈しのぎにどうかと思って、裁縫道具をお持ちしました」
彼女は手に持っていた木箱を居間のテーブルの上に置いた。
「えっと、お裁縫はボタン付けくらいしか……」
有紗は顔をしかめた。
手芸には興味がなかったので、家庭科の授業で最低限の事をやっただけだ。
「気が進みませんか……? 刺繍は上流階級の嗜みですし、この国では、伝統的に任務に就く前の兵士に、名前の頭文字を入れたハンカチを渡す風習があります。プレゼントして差し上げたらお喜びになると思うんですが……」
「……じゃあ、やってみます」
ご機嫌取りに使えるのであれば覚えて損はないだろう。
有紗は裁縫箱に手を伸ばした。
ディートハルトに渡すハンカチを目標に練習したいと伝えると、ドレッセル少尉は自分のものを見せてくれた。
「字だけじゃないんですね」
見せてもらったハンカチには、名前の頭文字だけでなく、鷹と植物を組み合わせて紋章のようにした図案が刺繍されていた。
「花言葉が勝利の植物とか、戦神マルダーの象徴とか、縁起のいいものを一緒に刺すのが一般的ですね。私のものは母が作ってくれました」
「……動物は難易度が高くないですか?」
「そうですね。刺繍をなさるのが初めてなら、植物の方がいいと思います。簡単で見栄えのする図案を考えてみますから、アリサ様はステッチの練習をなさって下さい」
そう提案すると、ドレッセル少尉は、裁縫箱の中に入っていた布に、直線、波線、円など、色々な線を書いた。
「まずは線と面を埋めるステッチをマスターしましょう! それさえ出来ればどうにかなります」
(本当かな……)
家庭科の授業で作った、縫い目がガタガタの巾着袋の記憶が脳裏をよぎった。
◆ ◆ ◆
ディートハルトが戻ってきた時には、午後の九時を過ぎていた。
彼は、戻ってくるなり有紗の手首をがしっと掴む。
「怪我したの……?」
低い声と手首を掴む力の強さに、有紗は目を見開いた。
彼は、有紗の指先に巻かれた包帯を凝視している。
「刺繍に挑戦したら深く針を刺してしまって……」
「私が提案しました。退屈しのぎになるのではと……。アリサ様が怪我をしたのは私の責任です。申し訳ありません」
説明を引き継いだのは、まだ室内に残っていたドレッセル少尉だ。
(私の不注意で怪我したのに……。この人の責任になっちゃうの?)
有紗は青褪める。
「ドレッセル少尉は悪くないんです! 私の不注意で。もう血は止まってると思います。布に血を付けないためにしっかり手当てしてもらっただけで……」
ドレッセル少尉は、一見すると表情が乏しくてとっつきにくそうに見えるが、真面目で優しい女性だった。
不器用な有紗を笑わず、根気よく教えてくれたし、指を怪我した時も、治癒魔術が効かない事に慌てながらも丁寧に手当てしてくれた。
そんな彼女が有紗のせいで叱責されると思うと、我慢できなかった。
「なるほどね」
ディートハルトは、有紗の説明を聞いて小さく息をついた。
「新しい首輪の防御魔術が発動しなかったのは、無意識化の行動だったからか。改良したいけど、そこまで制限すると日常生活に支障が出るかもしれないな」
そうつぶやくと、彼は有紗のチョーカーに触れた。
「どういう事ですか? 『助けて』って言わないと首輪の魔術は発動しないんじゃ……」
「あれは能動的に発動させる時のキーワード。アリサに対する敵意にも自動的に反応するようにしてある」
「つまり、別に言う必要はなかったって事……?」
呆然とつぶやくと、ディートハルトは楽しげに頷いた。悪戯に成功した子供のような顔をしている。
「事情はわかった。ドレッセルはもう下がっていい」
「かしこまりました。殿下の寛大なお心に感謝いたします」
ドレッセル少尉は敬礼すると、部屋を退出した。
彼女の足音が遠ざかると、ディートハルトは、有紗の包帯に覆われた指先に改めて触れてきた。
「アリサ、できるだけ怪我をしないように気を付けて。何かあったら、俺はドレッセルを追求しないといけない」
「……わかりました」
過保護にもほどがある。有紗は不服だったが頷いた。
「アリサの怪我は魔術では治せない。だから人一倍気を付けないと」
(ああ、だから……)
有紗は包帯に覆われた指先に視線を落とした。
「……そうだ。名誉の負傷をしながら作った作品はどこ? 見せてよ」
「嫌です。すごく汚いので」
断ると、ディートハルトはムッとした表情で裁縫箱を置いてある机の方へと移動した。
「ダメ!」
止めた時には遅かった。裁縫箱の一番下の段には、端切れを収納できるスペースがある。
そこに片付けておいた今日の奮闘の結果が見られてしまった。
「これは……」
ディートハルトは複雑そうな顔をしている。
「仕方ないじゃないですか! 刺繍をするのは初めてだったんですから!」
有紗は彼の手から、血の染みが付いた習作をひったくった。
(サテンステッチがうまくいかないのよね……)
同じ方向に針を入れて面を埋めていくだけ……のはずが、有紗がやると何故か汚らしくなる。ドレッセル少尉からは、慣れと糸を引きすぎないのがコツだとアドバイスを受けたが、ひたすら練習すればうまくできるようになるのだろうか。
「えっと……テラの女の子は裁縫はしないの?」
「する人はしますけど、あまり興味がなかったので……」
有紗にできるのは、外れたボタンを付け直したり、ほつれた裾を補修するくらいだ。手に負えないものはクリーニング屋に相談していた。
「こっちでは嗜みなんだけどな」
「そうみたいですね。だから教えて貰おうと思ったんです」
「なるほど」
「……あの、この国では、女の人からハンカチを渡す風習があると聞きました。もし上手くできたら、贈ってもいいですか……?」
点数を稼ぐなら今だ。
有紗は上目遣いを意識してディートハルトに尋ねた。彼は、意表をつかれたような表情をしてから、口元を手で押さえる。
「ディート様?」
「ごめん、そう言ってくれるとは思わなくて、ちょっと動揺した」
顔がほのかに赤くなっているところを見ると、照れているのだろうか。
「もちろん喜んで受け取るよ。楽しみだな」
蕩けるような笑みを浮かべると、ディートハルトは有紗の頬に手を伸ばし、口付けてきた。
「アリサ、ベッドに行こう。俺を癒して」
今のところ、彼は有紗の『良い寵姫の演技』を疑っていないようだ。
熱を帯びた目を向けられ、有紗は頷きながら微笑んだ。