第八話 元没落令嬢は、近衛騎士の独擅場に圧倒される
一瞬の出来事に何が起きたのかわからず、放心状態のまま立ち尽くす。
ジェフリー様と観衆もどうやら同じ状態のようで、びしょ濡れになったオーウェン様を無言のまま見つめていた。
ぽたぽたと水が滴っている後ろ姿を見つめているうちにふと我に返り、急いで駆け寄る。
「オーウェン様! お怪我はありませんか!?」
「ないです。貴女が無事でよかった」
振り返ったオーウェン様は穏やかな笑顔を浮かべていて、胸がきゅっと締めつけられて苦しくなる。
いけない、このままではお風邪を召されてしまう。
バスケットの中からハンカチーフを取り出し、ぐっしょり濡れたオーウェン様の髪と顔とを拭いた。
「私などのために、このようなことに……なんとお詫びしたらいいのか……」
あまりの申し訳なさに、声がどんどん小さくなってしまう。
きっと、こんなときでも私の顔は笑っているのだろうと思うと、情けなくて悲しい。
ハンカチーフが水を吸って役に立たなくなったため、急ぎ修道女のヴェールを脱いでタオル代わりにした。
「こっ、こここ近衛騎士様、違うんです! 全部この女が悪くて! 私たちは悪女を懲らしめようとしただけで」
水をかけた男性が青い顔をして、必死の形相で弁明する。
周りの皆も「そうだ、この女が悪い」と口々に加勢した。
「騎士様も早くその女から距離をお取りになったほうがよろしいかと存じますわ! よからぬ噂がたって、貴方様の名声に傷がつきます!」
オーウェン様の名に傷がつくと聞いて身体が震える。
水を拭う手を止めて、うつむいたまま一歩後ろに下がった。
「エステル。大丈夫ですから、どうか逃げないで」
オーウェン様は私の手首をつかんで、距離をとろうとした私を止めた。
「ですが……」
顔を上げると、金色の瞳がにこりと柔らかく細められていて、とてつもない安心感を覚える。
「心配は無用です。僕の名は、そんな噂で傷つくような粗末なものじゃありませんから」
オーウェン様は、私が逃げようとするのをやめたとたん、手を離して観衆のほうへと向き直り、くすくす笑った。
「ところで皆様。ずいぶんと楽しそうでしたね。僕も演劇を見ているようで、すごく面白かったですし興味深かったですよ」
オーウェン様の言葉にずきりと胸が痛む。
罵られている姿を見られていたと知り、恥ずかしくて不安な気持ちでいっぱいになってしまう。
私と同じようにオーウェン様も、私を悪の令嬢のように思い、先ほどの場面を断罪シーンのように感じたのだろうか。
羞恥と悲しみの感情とで消えてしまいたくなっていると、オーウェン様はジェフリー様のほうに身体を向けて微笑んだ。
「贈り物を押しつけて心を手に入れようとした令息は『こんなに貢いでやったのに』と、まるで駄々っ子のようで。本当に滑稽でした」
「――っ!」
ジェフリー様は目を白黒とさせて、何も反論できないまま立ちつくす。
次にオーウェン様は、背の高い眼鏡の男性フレディ様のほうを向いて、顔を見上げた。
「両思いではないとわかるやいなや口撃を始めた男性も、恋に恋して幻想を追い求めた乙女のようで。大変可愛らしかったですね」
フレディ様は言葉を失い、まるでいきなり火が着いたように顔を真っ赤に染めた。
「あとは、そうそう。確たる証拠もないのに、婚約者の不貞を疑うご令嬢。そんな否定的な女性のそばにいたいと、誰が思うんでしょう? 貴女は彼を愛し、支える努力はいたしましたか?」
「なっ……!」
令嬢は愕然として立ちつくしていたけれど、やがて観衆からの視線に耐えられなくなったのか、慌てて扇子で顔を隠し、そそくさと撤退した。
正義感から私を罵っていた人々が、どんどん勢いと迫力をなくし、背を丸めて小さくなっていく。
いまのいままで私が断罪されていたはずなのに、いつの間にやらオーウェン様の独擅場と化し、誰もが圧倒されていた。
「ハロルドが言うには、僕は変人奇人の部類に入るらしいので、ぜひ教えていただきたいのですが、彼女の何が悪かったんでしょう。誰にでも優しく丁寧に接したことですか。それとも、恋人に向けるような笑顔を振りまいていること? 職務を全うして、細やかに相談にのってやっていることです? そもそも、問題の根幹はどこの誰にあったのでしょうね」
オーウェン様の言葉に、私の感情が追いつかない。
ずっと、私だけが悪いのだと思っていた。
八方美人な態度なんかとるから。
好かれたいと願ってしまうから。
でも、もしかして、全部が全部私のせいだったわけではないの……?
オーウェン様の問いかけに、あたりはしんと静まりかえる。
さっきまでずっと「思わせぶりな態度をとるのが悪い」「男に媚びている」と、次から次へと私を罵る声が飛び交っていたのに、誰も何も言わないままだった。
オーウェン様は、あたりを広く見回して、目つきだけは鋭いまま、にぃと口角を上げた。
「そして、水をかけた貴方と、彼女に罵声を飛ばしていた観衆の皆様。見たところ、なんの関係もない部外者ですよね? 一緒になって人をいじめるのは楽しかったですか」
皆、視線をそらしてうつむき、苦々しい顔をしている。
いたずらをして叱られる子どものようで、先ほどまでとは別人のように見えた。
「未だ誰一人として彼女にも僕にも謝りもせず、保身と逃げに走っているなんて、小物臭がすごすぎて、笑いが止まらないですよ。貴方は、モリンズ男爵の三男さん、こちらはアボット子爵の次女さんでしたっけ?」
オーウェン様の問いかけに、観衆の最前列にいた二人がびくりと身体を震わせた。
「なぜ私の家名を……!」
「も、申し訳ございません……!」
「結局、僕の心配をしてくれたのは“悪女”エステルだけでしたね。いえ、いいんです。誰だって、嫌われたくなんかないでしょうし、愛されたいと願う気持ちは同じ。他人のことなどどうでもよく、自分の身が一番可愛いでしょうから、ねぇ?」
次に名を挙げられるのを恐れているのか、私を取り囲んでいた観衆はじりじりと後退を始めた。
そのさまを見て、オーウェン様はくすっと笑い声をこぼし、最後に冷たくて威圧的な薄ら笑いを見せた。
「ご覧になっていた方々のお顔も覚えましたし、これでもうお開きです。退屈なのは結構ですけど、今後エステルを傷つけることも、このような私刑も、僕は絶対に許しませんから」