第十九話 元没落令嬢は同棲をはじめる
夕食を終えて、薄暗い廊下を一人で歩く。
ふと、エントランスに人影が見えた気がして、慌てて曲がり角の陰に隠れた。
訪問者などいないはずの時間帯だし、玄関には鍵もかけていたはず。なのにどうして……。
ストーカーが入ってきたの?
小刻みに身体が震え、さぁっと血の気が引いた。
「おや。もしかして、エステルですか? お邪魔しています」
低く柔らかな声に、ほっと胸を撫で下ろす。
ストーカーじゃない。これは、オーウェン様の声だ。
曲がり角から顔を出すと、金色の瞳と視線が重なる。
どうやらオーウェン様はちょうど館にやってきたところのようで、大きな荷物を床に置いてにこにこ微笑んでいた。
「司祭様から鍵をお借りしていたんです。すみません、驚かせてしまいましたね……。今日から一週間、お世話になります」
「あっ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
騎士様相手に失礼があってはならないと慌てて飛び出し、姿勢を整えて頭を下げる。
顔を上げると、オーウェン様はなぜか嬉しそうに目を細めていた。
「いいですね、こういうの。なんだか新婚さんみたいで」
「ふぇっ⁉」
何気なく発せられた爆弾発言に、奇妙な声が口から漏れ出る。
カーテンを敷いて分けるとはいえ、これから同じ部屋にずっとオーウェン様がいることになるのだ。しかも、一週間も。
昨日の夜は不安から『今夜さえしのげれば』なんて思っていたけれど、実際にこうなってしまうと心臓がうるさいほどに暴れて、落ち着かない。
「こっ、こちらへどうぞ」
平静を装おうとすればするほど、動きはぎこちなくなり、普段の自分でいられなくなった。
◇
「部屋のこちら側をお使いください」
部屋は真ん中のカーテンで仕切っており、ドア側半分の空間を手で示す。
すでにオーウェン様用の棚や机、ベッドは運びこんでいて、棚と机は壁際に、ベッドは近所の大工さんがカーテンにぴったりと横づけする形で置いてくれていた。
「ありがとうございます」
「もし、夜に書類整理や読書などすることがあれば、こちらのテーブルとランプを使ってください。お荷物はこの棚に入れて大丈夫です」
最低限の家具しかないけれど大丈夫だろうか、なんて思いながらオーウェン様を見る。
心配はどうやら杞憂だったようで「ここまで準備をしていただけるなんて、ありがたいです」と、喜んでくれた。
「では、私は奥側で聖書の勉強をしていますので」
「僕も片付けなければならない書類があるので、机とランプをお借りしますね」
和やかにオーウェン様との同棲が始まったことに拍子抜けして、私はイスに腰掛けた。
聖書と解説の本とを見比べる作業を続けていると、カーテンの向こうから物音が聞こえてくる。
サインを終えて紙をよけたのかしら、とか、本をめくって調べ物をしてらっしゃるのかもとか、物音でなんとなく行動が予想できてしまうのが楽しくて、少しドキドキする。
子どもの頃は、いまと同じようにルームメイトと住んでいたけれど、こんな感覚にはならなかった、なんて、初めての感覚を不思議に思う。
いまは数えるほどの人しか住んでいない聖職者の館も、あの頃は、隣国と戦争をしていたこともあり、老若男女、大勢の人が住んでいた。
例えば、戦いが激化する前は、行儀見習い先の見つからない騎士様やご令嬢。
激化してからは戦争のせいで、育てられなくなってしまった子どもや、夫を亡くした未亡人。
修道院も飽和状態だったから、私はここに来たんだっけ……。
終戦後のいまは修道女を目指す者も激減し、院も空きが出て受け入れが可能になっているらしい。
それなのに、私は未だここにいる。
未練がましくて嫌になる。
修道女になることを望んでいるはずなのに、考えと行動がまるで違うなんて。
トラウマ発作を治せるわけなんて、ないのに。
ナナリス教の修道女として生きるほか、ないのに。
修道院に入ると、他の道が閉ざされる気がして、それを怖いと思うなんて……。
カタリとペンを置いて、机に突っ伏す。
どうして私はこんなにも、意思が弱くて浅ましいのだろう。
「なんで、こんなにダメなの……」
しっかりしないと、ちゃんとしないといけないのに。
こんな私では、お母様からだけではなく、皆からも嫌われてしまう。
思わず独り言をこぼすと、隣から声が聞こえてきた。
「エステル?」
「っ、申し訳ありません! 疲れてしまって、つい弱音を……」
うっかりしていた。カーテンの向こうにオーウェン様がいたことを失念していたのだ。
「いえ、構いません。たとえ、思うようにうまく行かなくても、自分を責めたり、追い込んだりしないほうがいいですよ。苦しいだけで、いいことは何もありません」
「お勉強もほどほどに」と、オーウェン様は付け足す。
そうか、勉強のこと。
心の中を読まれたのかと焦ってしまった。
「そうかもしれませんね。ありがとうございます、今日はもうおしまいにします」
温かな言葉に救われて、心が軽くなる。
本と聖書、紙とペン、そして自分の至らなさを責める声を、まとめて引き出しの中にしまった。
「そうだ、エステル。ちょうど僕も書類整理が終わったところなので、よければ少し遊びませんか?」
「え?」
遊ぶ……遊ぶって、どういう意味で……?
固まったまま、ぐるぐると思考がめぐる。
オーウェン様の声質が穏やかでどこかしっとりとしているせいもあり、なぜか妖しい意味や危険な誘いに聞こえてしまう。
どう返答したら、なんて考えていると、オーウェン様は楽しげに笑った。
「僕ね、トランプを持ってきたんですよ。一緒にやろうと思って」
トランプ……って?
まさかあの、カードゲームのトランプ⁉
まさかすぎる誘いに、耳を疑った。
この間は惜しげもなく色気を振りまいていたから、またあんなふうに迫られてしまうのではないか、キスをされるのではないか、と心のどこかで緊張していたのに……。
「トランプをするのは、子どもの頃以来で懐かしいです。ぜひ、ご一緒させてください」
案外子どもらしかったオーウェン様に、思わずくすりと笑ってしまったのだった。