第一話 元没落令嬢は、トラウマに振り回される
「エステル、愛しています」
甘やかな低音が耳元で響き、ぴくりと身体が震えた。
頭には手が添えられ、唇には柔らかなものが触れていて、離れる気配がない。
突然告白をされて、返事もしていないのに始まった長いキスに、私の混乱は増していくばかり。
「余計なことは考えないで、僕を見て。僕の声だけ聞いてください」
かすれた声に強く目をつぶると、すぐにまた唇を重ねられた。
本当に、いったい何が起きているの――!?
◇
真っ暗な闇の中、どこからか鋭くて冷たい声がする。
――エステル。大勢から愛される女になりなさい。
味方を増やして、アイツらを見返すの。
家を奪われて、コケにされて、こんなの許せるはずがないでしょう。ねぇ?
そうそう。恋をしていいのはわたくしが許した相手とだけよ。
見た目も器量もいいあなたは、わたくしの言うとおりに動きさえすれば、絶対に上級貴族の嫁になれるんだから。
惨めで可哀想だったわたくしを安心させてちょうだい。
嫌だなんて許さない。だってあなたは……
男に生まれることができなかったのだから――
「ごめんなさい、ごめんなさい! お母様っ、許して……!! はぁっ、はぁっ……」
叫びながら飛び起きて、掻きむしるように頭を抱える。
また、あの夢……。
おそるおそるあたりを見回し、ここが聖職者の館だと確認できたところで、ようやく心が落ち着いた。
いま夢で見たものは幻想ではなく、過去に実際にあったこと。
……私がまだ幼かった頃、子爵の位にあったお父様を亡くして、お母様はおかしくなってしまった。
当主なきブラン家を守ろうと戻ってきてくれた叔父夫婦をお母様は悪く言い、家を奪おうとしているという妄想にとらわれるようになったのだ。
初めは叔父様たちは私たちに良くしてくれていたのに、あまりにお母様が被害妄想的なものだから辟易してしまったようで……。
叔父様たちはだんだんと私たちに冷たく当たるようになって、私たちは屋敷の外の別館へと追いやられるようになった。
だけど、当然のことだと思う。
それほどにお母様の妄想は激しくて、攻撃的だったから。
次第にお母様は、叔父様たちへの憎しみを募らせるようになり……ついには私にまでひどくあたるようになったのだ。
深いため息をこぼしながら起き上がり、修道女見習いの服に着替えて鏡台の前に腰掛ける。
鏡に映るのは、淡いクリーム色の髪に緑の瞳の、お母様によく似た女。
いつからか剥がれなくなった嘘くさい微笑みが気持ち悪くて、逃げるように部屋を出た。
廊下を少し歩くと、老齢の司祭であるヘンリー様の姿が見えた。
「おはようございます、司祭様」
「エステル、大丈夫ですか……?」
ヘンリー司祭は私を見て、心配そうに眉尻を下げた。
きっと、私の叫び声が聞こえていたのだ。
「ご心配をおかけしました。少し変な夢を見ただけですので」
笑顔を見せると、司祭様は「そうでしたか」と、どこか寂しげに微笑んだ。
私が城の礼拝堂に来たのは十年前、十歳を過ぎた頃のこと。
あの頃、叔父夫婦からの冷遇により、お母様はますますおかしくなっていた。
『エステルが男なら家を継げたのに』と幼かった私を罵り、子爵の娘なのに『上級貴族の嫁になれ』なんて、無茶苦茶なことを言い出して、私に過剰なほどの教育を施すようになったのだ。
のちに、お父様と縁があった伯爵家の方が私を保護してくださり、聖職者という道を示してくださったおかげで、私はいまこうやって生きている。
けれど……一人になったお母様は病院に入れられて、狂ったまま亡くなってしまったらしい。
そんな嵐のような展開のせいで、未だにお母様が亡くなったことも、愛されなかったこともなにもかも、受け入れられないまま。
幼い日のトラウマだけが、いつまでも私の中に残っていた。
それでも、ここに来てから悪夢は落ち着いていたはずだったのに。
最近、警告のように何度もお母様の夢を見る。
理由の見当はついている。
きっと、あの方。
窓辺に寄り、食堂に向かう近衛騎士に視線を送る。
青い髪に切れ長の金の瞳をした人。
国王陛下の護衛を任されているオーウェン様。
隣には相棒の近衛騎士であり、私を妹のように扱ってくれる赤髪のハロルド様がいて、楽しげに会話をしながら歩いている。
ふと、オーウェン様の金色の瞳と視線が重なった気がして、慌てて窓から離れた。
オーウェン様は、かつて行儀見習いとしてこの礼拝堂に配置されていて、涼やかな外見と礼儀正しい振る舞いに、若くして多くの女性を虜にしてきた方だ。
けれど、あの方は見た目とは裏腹に、居眠りをしていた司祭様の顔に落書きをしたり、館の中を無許可で探検して回ったりするという、なかなかな問題児だった。
それでもオーウェン様は誰かを傷つけたり貶めたりするようなことは絶対にしなかったし、礼拝堂に来たばかりで不安だった頃、オーウェン様の自由すぎる振る舞いと楽しげな笑顔に何度救われたかわからない。
行儀見習いということで、ともにいたのはたったの数ヶ月だけだったし『国境を守る騎士を目指している』と聞いていたから、もう二度と会うことはないと思っていた。
それなのに、一年前突然この城にあの方は現れたのだ。
今度は、国王陛下の護衛を任された近衛騎士として。
近衛騎士という誉れ高き地位にありながら、中身はいまも変わっていないらしく、噂では、告白をした女性に「僕も好きかもしれません」なんて返すわりに、次に会ったときは「なんのことでしたっけ」なんて言ってのけるらしい。
関わらないのが得策だと思い、それとなく避けているのに、なぜかあの方は私を見つけては話しかけてくる。
どうしてそんなことをしてくるのだろう。
大人になったあの方の考えが全くわからなくて、不安で心がざわついた。
◇
聖職者の館の掃除をしたり、礼拝堂で祈りを捧げたり、子どもたちの面倒をみたりしているうちに、もう夕方だ。
夕のお祈りに行かなければと、礼拝堂の扉を開ける。
中は一面柔らかな夕日のオレンジ色に包まれて、しんと静まり返っていた。
コツコツと靴の音だけが響き、祭壇の前で両膝をついて、太陽と月が組み合わさったナナリス教のシンボルに向かい、祈りを捧げる。
あと一年で私は見習い修道女を卒業し、新たな名をもらい修道女となる。
ナナリス教では、修道女になると恋愛も結婚もタブーとなってしまうため、修道女は未亡人や老齢の方がなることが多い職で、若者が目指すことはほとんどないと聞いた。
けれど、私は早く修道女になりたくて仕方がなかった。
だって、男や女といった煩わしいものから解放されるし、八方美人という身体に染みついてしまった悪癖だって、修道女という職にはプラスになるかもしれないから。
きっともう、誰からも傷つけられずに生きていける。
愚かなエステル・ブランという女はもう消えて、新しく修道女として生きていくの。
そう思っていたのに……
祈りを終えて顔を上げると、隣にはいま一番会いたくない人が片膝をついて、静かに祈りを捧げていて。
ひゅっと小さく喉の奥が鳴った。