13:『忘れた頃に、オカエリナサイ』
私には貴方との日々が苦痛でしかなかった。
あの頃は連日連夜、嫌でも貴方と向かい合わねばならなくて、解決策を見出だせないまま、それでも根気強く貴方との対話を試みた。
けれども貴方は頑なで、私もとうにくたくたで、貴方を知る知人に間に入ってもらい、どうにか必要な手続きと話し合いを終えた。
9月の終わりのこと。
関係の解消、縁切り、記憶の消去、存在の抹消。
「さようなら」
もう会うこともないでしょう。
貴方のことは記憶の彼方へ。
片隅からも消していた。
貴方がいない24時間をジェンガのように積む生活。
月日は経ち、年を越し、豆を撒き、気付けば桜咲く季節、年度末、3月。
「ただいま」
夕方、ぞっとする声を聞いた。
懐かしい声。
聞き慣れた、うんざりするほどいつも聞いていた声。
鼓膜を震わす貴方の声が私を揺さぶる。
ガラガラガラと音を立て、心に冷や汗が伝う。
「オカエリナサイ」
ただいまに対してのお決まりの挨拶はそれでも乱れることなく、一定の音の高さとテンポを保ち、まるで機械音のように口から発せられた。
知っていた。
貴方が帰ってくるのだと、つい一時間ほど前に知らせてくれた人がいたから。
長い指が私の痩せた首にかかる幻覚、締め付けられるような錯覚。
「うん、ただいま」
貴方を直視できなくて、笑い皺で優しく見えるだろう目元を想像する。
もう一緒には住めない、そう思うのに、嬉しそうに笑う貴方が見える気がして、拒絶の言葉が出て来ない。
私はまた、同じ過ちを繰り返す。
貴方は私を置いていなくなる、そうと知りながら。
貴方の羽に包まれて眠る。
数カ月後に訪れる、お別れの日まで。
「貴方」は燕のイメージ。




