空へ
「酷い喧嘩だ」
そう溢してしまうのも頷ける。これほど面白味の欠片もない不毛な戦争が長引けば、この国の資金や人材はどうなるだろう。
私にとってこの戦争は無縁ではない、何せ私の旦那の元に一通の手紙が届いたのだ。それも只の手紙ではない。その身を呈して征くべきだと云う、血の様な色をした所謂「赤紙」である。もう年寄りと呼ばれる程の私たちの元に、こんな卦体な物が届くのかと最初は仰天したが、その次には呆れが襲って来た。
「仕方ないさ」
と放つ旦那の目元には光がなかった。本当は関わりたくないと云った気持ちが見て取れる。だが周りとしての、国の役に立って欲しい、早く終わって欲しいという想いから理不尽にも「行ってらっしゃい」と声を掛けられる。それを汲み取った上での
「仕方ないさ」
なのだった。内心嫌がっているのを隠そうと、いつもより強張った笑みを浮かべる旦那が居た堪れないまま、私は何も言うことが出来ずに玄関の外まで送ろうと靴を履いた。
「葉巻きは程々にな」
一人残されることになる私への、最小限の気遣いだった。
「じゃあ、行ってくるよ」
一度振り返り、そう云って旦那はまた正面を向いた。
家の外は他にも国民兵として徴兵された男性たちが自分の妻や子どもに見送られながら行進しようとしている。中には眼に涙を浮かべる者、自身の母親と抱き合う者、勇ましい顔で家を発とうとする者と三者三様であった。しかし漏れなく彼らは国の為に死にに征くのであり、帰って来ないという決意を持ち、通りの中央へと脚を運ぶのであった。
数日が過ぎた。最初はこんなに広かったかと錯覚していた家も、今となっては何も感じなくなっていた。
しかし矢張り会話がない分淋しさは残っていた。一日の始まりを告げる挨拶も、誰かに届くことなく室内をただ彷徨うのだった。それとは反対に、戦場では常に銃声や怒号が響き渡っていることだろう。無線放送を聞く限りでは、両者は一進一退といったところらしかった。
連れて行かれた先は、飛行機の整備室だった。上の者の言うことには、
「こいつらを万全な状態に頼む」
とだけだった。どうやらこの言葉には真意らしきものも裏らしきものもなく、そのままの意味らしい。
働き盛りの頃は確かに機械に触れ放しだったが、流石にもう手付きは衰えてしまっているだろう、と思ったが、この歳になっても案外身についているもので、零戦は本当にこれから壊される為に作られたのかと思う程しっかりとした作動をするようになった。これなら私が召集されたことにも少しばかり意味があったように思える。
流石は零戦、徹底された軽量化により、私一人ほどの力と少しの機械で以って運べる程度で、特別そこまで苦労はしなかった。だがそれ故に脆弱な私と似通うところが見受けられた。そんなことを感じては、次第に何とも言えない愛着のような感情を抱くようになってしまった。
さて、私の最大の仕事はこんなことではなかった。
「鳩山君(私と、妻の和子の名字だ)、どうしても人員が欲しいんだ。こいつに乗ってくれるな」
沈黙が空間一杯に広がる。私は刹那、その言葉が暗に示す意味を察した。
「……はい」
正直に言って、自分が身を滅ぼしたとて悲しむ人は精々和子ぐらいだろう。だからこそ、虚しさが一層くっきりと浮かび上がるのだった。それからの私は、年老いてしまった謂わば「犠牲にならない犠牲」として、若しくは「知られざる英雄の一人」として散り際こそ美しく、勇ましくあろうと思うようになった。
そして特別に用意された寂れた部屋の隅に置かれた、凸凹で錆びれかけている木製の机に就き、鉛筆を手に取り静かに私の本音を有り有りと紙に綴った。そしてそれを最も信頼できると考えた人間に手渡し、行方を託した。
翌日、私は羽撃いていった。
何とか争いは終焉を迎えることとなった。結果、旦那は帰って来なかった。私の家や周囲の街には然程大きな倒壊などは見受けられなかった。だからと言って安堵などは一切なく、廃れた街並みの復興に向けて様々な手が打たれた。将来を担う子どもたちの顔には煤が付き、行き交う大人たちは隈を作っていた。
月日を数える暇もなかったが、かなり長い期間に渡る復興は終わりに近づき、完璧とは言えないが所々元の姿を見せつつあった。
一番打撃が激しかったのは経済面であろう。そちらが元の体勢になるには後四ヶ月程は掛かるように見えた。私も一人取り残された身として、生きていくには銭がなくてはならない。果たしてどうしたものだろうか。
ばたばたっ
何か、鳥の羽音がする。そしてそれは私の家の近くまでやって来た。
ばたばたっ、ばたっ、くぅくぅ
鳴き声から察するに、その鳥は、鳩だ。脚に何かの封筒を括り付けながら遠くから遥々やって来たのだ。
急いで封筒を取る、はじめは中身を確認する気にはならなかったが、この際見る他ないと思い、恐る恐る封を切った。
中には一枚の紙が入っていた。ご丁寧にこれだけの為によくも封筒なんて大層なものを使ってくれたものだ。私は手紙をするりと広げた。そこに書いてあったのは、紛れもなく旦那のものだった。昔から手紙を書くことが大好きだった、私のよく知っている旦那の筆跡だった。
『織部和子
私は空へゆくよ。此方に連れられてからは毎日のように昔、君と過ごした時間を思い出していたんだ。だけど、もうそんな生活が叶わないという現実に直面してしまったからには、きちんと受け止めてなきゃあならない。本当は少しでも君の側で、君の笑った顔を見ていたかったよ。また会えるといいなと、心の底から願っている。大丈夫、私は待てる男さ、ゆっくり人生を味わってくれ。あんまり早く私の元に来られても困るから。
鳩山良平』
手紙を見て、私はひどく泣いてしまった。何故あの人は、私の旧姓を書いてしまっているのだろう。そのせいか、私も余計に出会った時のこと、籍を入れた時のことなどが次々と思い出されて仕舞う。それでもっと涙が零れる。
結局どれぐらい泣いていたか分からない。ただ、永遠とそうしていたとしても不思議ではない。この気持ちをどう発散するか、長いこと迷っていた。しかし旦那が手紙を書くのが好きだったように、私も何かこの言葉にならないような感情を何とか言葉にして文字に遺してみたい、そう思ったのだった。書き終えた後のことは全く考えず、鉛筆を持ち紙と向き合った。
『虚しさか
葉巻き燻らす
高年や
あの日へ耽けて
見つめる便り
環を添え千歳も
頬濡れ色に
鳩山和子』
これだけ書いてから布団に潜った、午後八時十分。左の薬指に残る貴方と共に。
遠くまで 想いを乗せる 伝書鳩