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『サーカス団』  作者: レア
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全編

面倒ごとに巻き込まれる「アドバイザー」探偵事務所一行。そこには血みどろのいや~な展開の殺人事件が巻き起こっていて……? スチャラカ・アドバイザー一行はどうする?

 第一章 社員旅行

 高知にも、冬が来た。

 本日は十二月も中盤。たとえ常夏の高知と言われようと、寒い時季は、寒いのだ。

 ちなみに高知市の近くには〈南国〉という地名まである。そこまで夏に気合いを入れている高知なのだが、寄る寒波には勝てない。

「寒いデス……」「まあまあ」

「さぶい……」「まあまあ」

「死にそうじゃ……」「まあまあ」

 最初に話したのは、レイ・ブラッドベリ。この寒いのにゴスロリを着ている。英語訛りが抜けない、絶世の〝男の娘〟。

 二人目に話したのは、高野光子。万年ジャージ娘だ。ガクガク、歯の根が合っていないようだ。猫の〈太郎丸〉を抱いて、暖をとっている。

 三人目に話したのは、ミツエ婆さん。底知れぬ情報網を持っている。台詞の通り、一番天国に近い。

 その全部に「まあまあ」と〝なあなあ〟で済ませているのは、物語の主人公、潮風順一であった。

 四人と一匹は、高知市から離れること八○キロ、室戸市の港に車でやってきていた。

「社員旅行」と銘打って、順一のふるさと参りをしている真っ最中である。

 今年の高知の冷え込みぶりたるや、ひと味もふた味も違う。例年よりかなり低く、ここ室戸でも、薄氷が張り付きそうだった。

 ひょっとしたら、雪まで降るかも知れない。室戸では、昔から「六年に一度しか雪が降らない」と言われていた。その約束も、地球温暖化のせいか反故になり、今では「十年に一度」に変わっていた。

 それにしても、海風が凍り付きそうだ。

 室津港は、だいたい百メートル×五十メートルほどの、小さい港だ。見晴らしだけは、いい。三十トンほどの船が、何艘か舫われている。

 こう寒いと、釣り客もいない。向こう側に白灯台が見える。高さは二十メートルぐらいだ。さらに向こうには、赤灯台があった。乾燥した空気が、太陽の光を素通ししている。

 なんの食べ物屋も、此処にはない。少し行けば、遍路用の飯屋がある。今日は、釣りをするには、いいぐらいかも知れない。もちろん、充分に防寒をしての話だが。現に、釣り客は誰もいない。寒すぎるのだろう。

 順一は一人で、港の海の近くまで近寄った。他の三人は、近くまで来ているが、順一に近寄ろうとはしない。寒い風が余計に強まるような気がしてのことだろう。

 順一は海のすぐ近くの、船を舫う金具に足を掛けながら、「ふっ、懐かしいぜ、この海……。此処で俺は、育っ――」

 順一の全身を衝撃が襲う。柔らかいが、がっしりとした衝撃だった。

「はうっ」

 突如、どんでん返しのように、視界がぐらっと反転する。なんだぁ? 日に照らされて緑色になった海面が、どんどん迫ってくる。

 なんで、こんなことに? なんで落とされるの? 事実、落ちているわけだ。

 落ちたらどうなる? そりゃあ、水の中だろう。ああ、海面が近いぜ。それにしても、なんで「はうっ」なんて声、上げたのだろうか。

 いやあ、こういうところが、性格が出るねぇ。だが、実際は、俺は今、「突き飛ばされて」落ちている。なんでや、なんでやねん。寒そうだなあ。冷やそうだなあ。

 どぷぅん。順一は海に転落していた。最初は衝撃で、わけがわからなかった。しかし、見る間に順一の全身を、鈍痛のような寒さが包み込む。

 落ちちゃった。激サブの水の中に。足がつかない。そりゃあ、海だもの、港だもの、人間だもの。

 ――いやいや、そんなことはないだろう。それより俺は、浮かぶのか? 助けは来るのか? ケイタイで応援要請しなくっちゃ。

 いやいや、そういや、ケイタイは車の中に置いてきたか。俺は――これから先、どうなるって、そりゃあ、舫い綱もない、カンダタより絶望的だ。

 頭は、髪以外に覆うものがなく、一番最初に海水による寒さプラス三メートルぐらい落ちて全身にダメージを受けたので、意識だけは明瞭だ。明る過ぎて、頭が痛い。ハリセンボンが頭に張り付いているようだ。

 目眩の感覚は、何とか取れた。二メートルは沈んだだろうか。衝撃がえらいこっちゃだったからなあ。体が、なんとか海面に行くように頑張る。

「誰か――。助け――」

 順一は必死に藻掻いていた。冬の海は冷たい。スーツが水を吸う。水の冷たさが痛い。ああ、俺は何故、落ちたんだ。寒い、苦しい、助けて――。

 必死に声を出そうとしている間に、塩辛い水が、海水が口に入る。あっという間に口中に塩辛いのが、塩辛のような味じゃなくて、溺れたのが分かるような味が、どんどん広がっていく。

 目が、海水に洗われて痛い。光と仄暗い海と、上下する。何とか海面だけに出るように藻掻いたら、真っ先に、港の縁が見えた。

 今は干潮だから、水面から岸辺まで三メートルといったところか。

「お前がっ、お前が、こんなクソ寂れた田舎の港に連れて来んかったら、お前もこんな目に遭わんで済んだんじゃあ!」

 声の主は――光子だった。どうやら、港の縁にいるらしい。他のメンバーは見えない。

「あなたが犯人だったんデスね」小波が打ち付ける中、レイが光子に、金田一耕助ふうに犯行を指摘する声が聞こえた。金田一耕助は言うまでもなく、犯人の犯行を絶対に食い止められない(食い止める気がない)名探偵である。

「アイツが……。アイツがこんなこと、しなかったら!」

 光子の震えた声が聞こえる。金田一耕助の犯人独白ふうに、どこか芝居がかっているのは、気のせいか。

 いや、気のせいじゃないだろう。順一は、なんとか階段になっているところを探し、寒々泳いでいく。

 ああ、もう、そろそろ登り口だ。この辺りには船は舫われていないようだ。いやいや、分かってるよな、落ちたときに。

 泳法は、クロールではなく平泳ぎだ。恐る恐る、寒い手を出していく。クロールで音を立てると、多分、登るのを邪魔されるだろう。そこらの枝で、突かれるかも知れない。枝ならまだしも、銛なんかだと超やばい。

「さ、署に参りまショウカ」淡々とレイが自首を促す声が聞こえる。

「はい……」

 演じている。光子の声だが、明らかに演じている。犯人の反省した声だ。いや、実際、犯人なのだが。

「こうして〝室津港殺人事件〟は、終演を――」ミツエ婆さんが、これまたテレビの二時間ミステリーふうのナレーター役で参加する。

「生き、てる、助け――」

 声が小さくなっていく。寒い。頭が海面に出ている分、寒さで気が遠くなる――。

「なあ、もう、助けても、えいがやないか?」

 ミツエ婆さんが、ぼちぼちといった感じで話しかけた。

 順一の耳には、バンの扉が閉まる音が聞こえた。

 自分の名字「潮風」に、まさに吹かれながら、順一は荒い息をついている。此処は海面の上だった。

 港の手前部分には、船員が使うのか、満潮時には、下の段が海に浸るまでの、階段状の部分があった。比較的、新しい部分だ。ちゃんとした白塗りのコンクリートで固められている。

 長さは横幅三メートル×縦幅七十センチぐらいが一段の階段が、数個ある。段差は三十センチぐらいだ。そこを、気合いを入れて登っていく。

「はあ、はあ、助かった……」

 順一は、どうにか、上がり着いた。

 さっきまでいた空間が見えてきた。水面が、太陽でキラキラ光っている。全く、よく助かったものだ。勿論、車も見えている。光子とレイが車に入るところだった。

 よかった、白灯台のところまで行ってなくって。

 百メートルほど行って、五十メートルほど左に曲がる、つまりは港の端なのだが、あそこだと登り口が、なかなかないからなあ。しかも、海面まで、七メートルはあるし。

 登れるところに辿り着くには、最低でも、五十メートルは泳がなければ。

 寒風が身を切る。冷えたパッドを幾重にも貼り付けられて、その上から竹箒で、火付盗賊改の拷問ふうに、バシバシ思いっきり叩かれているようだ。

 うう、寒い……。早く、一刻も早く、暖房のついたところに行かなければ。

 なんとか、階段状になった登り口を這い上がる。目の前には、閑散とした風景が広がっている。

 ああ、俺は地上に戻ってきた。ぺんぺん草が、こんなに力強く思えるとは思っても見なかった。打ちっ放しのコンクリートの先に、元気の源がある。

 やった、生還だ!

 十メートルほど離れたところに、乗ってきたバンがある。

「作戦第二」「ラジャー」

 そんな声が聞こえて、光子は、ミツエ婆さんをさっと車に入れると、鍵を掛けた。

 順一は、ただでさえ凍える体で、ずんっと重い絶望に追いやられた。

 順一は十メートルをダッシュで詰めると、

「さぶい! 寒いんだ、光子! ドアを開けろ! いや、開けて! いやいや、開けて下さい、光子様!」

 光子は暖房に顔をひっつけたままで、順一を見ない。

「お願い! おお、そこにおわすはレイ様! 開けて! お願い! 死んじゃう! このままじゃ、死んじゃうからあ!」

 窓際でぷるぷる震える順一に、流石に可哀想になったか、窓を五センチほど開けると、レイが話しかけてきた。

「アナタは本当に順一さんデスか?」

 疑問を、フツーの調子で訊いてくる。何故きょとんとしている? わかるだろう、俺の顔ぐらい!

「そうに決まっちゅうろう! 寒いんじゃあ……」

 語尾が細まる。弱っている証拠だ。お願い、光子、レイ、ミツエ婆さん、何とか開けてくれんか……。

 車の中では、暖房に手を翳す光子と、窓をちょっと開けている、難しい顔をしたレイと、暖房で天国に向かっているミツエ婆さんの姿が見えた。

 にこやかな顔で、厚着を――ああっ、俺のジャンパー着てるやないの!

「じゃあ、どうしてソンナに濡れているんデスか?」レイが無邪気に訊ねる。

 しかし、よーく見ろ。口の端が、微妙に上がっている。笑いを必死に我慢しているようだ。此奴……!

「そこに居る、おかっぱのせいじゃあ! あの、おかっぱが、僕を、突き、突き飛ばして――」

 身を細めて身を捩って、寒さを現わしている。我ながら、前衛演劇のようだ。

 風がびゅうと勢いを強めた。千のカッターに身を切られているようだった。

「ほほう、順一よ。おかっぱとは、よう言うたものよのう」

 エンジンを掛けつつ、暖房に手を翳しながら、光子はぼそぼそと呟いた。

 きらんと光子の目が閃る。

「太郎丸、ドアを開けて、アイツを入れるか?」光子が助手席に鎮座する、ぶっとい三毛猫に訊いた。

 太郎丸を持ち上げて、順一の顔を見せると、「ブシャー!」と太郎丸は威嚇した。

「済みません、光子様! つい、つい、口が滑って、本当のことを……」

 光子がアルカイック・スマイルを浮かべている。あれは、人を平気で殺せる笑いだ。

「いやっ! 何でもありません、お忘れ下さい! 寒いんです。ほほほ、本当です。さささ、さぶくて、ぐぢが、ばわりまぜん。だだ、だずけでぐだざいっ!」

 洟を垂らしながら、涙ながらに部下に頼み事をしている。確かに、体感温度は軽く氷点下を行っているだろう。

 順一は、寒い中、このまま死んでしまうのかと考えた。

 その場合、本当に殺人事件になる。いや、保護責任者遺棄致死か。そんなことは、この際どうでもいい、この一つ扉を開けてさえくれれば、助かるんだ、俺は。

 ああ、それにしても、晴れてるぜ、室津港。こんなに寒いのは、小学校六年生以来だ。周りには、防寒となるものは何一つない。人も通っていない。頼りになるのは、車の中にいるメンバーだけだ。

「身を切る寒さ」とは、よく言うなあ。

 こんなに寒いのに、何故、放っておけるんだ。鬼か、悪魔か、こいつらは。轢かれでもせんと、死なんぞ、俺は。

 後で、お仕置きだ、おしりぺんぺんだ。

 ――ああ、幼稚なお仕置きしか浮かばない。ひょっとして、子供に戻っているのは、俺のほうなのだろうか。昔のことを思い出すなんて、俺はひょっとして、ひょっとしてなのか。

「ざぶいんでず……光子様、レイ様、ミツエ様……。何方か、そっちの暖かい空間に、私を……」

 すると、車が動き出した。順一は、さっと離れた。

「ああ、光子様っ。何処へっ?」

 五メートルほど進むと、くるっとターンして、順一を撥ねた。

「――はうっ」

 順一は、再び海水中へと、華麗な放物線を描いて放り出された。

「全く……。死ぬところやなかったやないかい!」

 順一は、鈍い痛みが今なお疼く体を自分の手で擦りながら、車から出てきた光子たちを睨む。

 順一は海に撥ね飛ばされた後も、再びターミネーターのように、しつこく登ってきたのであった。

 そこに、流石に心配した一同が、千差万別の表情で車を出てやって来た。光子は軽く睨んでいて、レイは不審気な顔で、ミツエ婆さんはちょっと心配そうな顔をしている。

「チッ、生きてたか。轢きが甘かったか」

 何気ない調子で、光子が感想を述べ、抱いている太郎丸に突っ伏す。

 あのなあ、もう少しで殺人やったがやで?

 でも、殴りかかれない。また轢かれるのは、イヤだ。それに、殴り合いだと負けるし。光子の力は、本当に強い。

「本当に順一さんですか?」

 レイがいまだに疑って懸かる。どうしたもんじゃ、この疑いようは。濡れただけで普通の人間の表情は変わらない――。

 いや、禿げてたら変わるだろう。……禿げてなんかないんだからね!

「全く、若い子は無茶をするもんじゃ。あては反対したがやで」

 ミツエ婆さんが、そっとジャンパーを順一に掛ける。罪滅ぼしだろうか。

 ああ、やっぱり、亀の甲より年の功。ミツエ婆さんが一番、わかっていたか。しかし、「反対した」? 寝ていただけのように思えるのだが……。

「さっさと、車に入って暖を――」

 順一が暖をとろうとしたとき、一艘の船が岸壁に横付けされた。

 何だ――? まあ、港だから船が来てもおかしくはない。

 だが、それは内港の話。順一たちのいるところは、魚を上げたり、一時的に停泊させておく大型船の着く外港。主に個人所有の船などの小さい船は、もう少し内側の、より陸と海面が近い内港に置いておく。さらに大きい船は、もっと遠くの「新港」に留められる。

 漁船というより、十トンほどの釣り船が外港に横付けされるなどとは、聞いた覚えもない。

 ちなみに、室津港の内港は、もうちょっと奥に行ったところにある。

 内港クラスの船が、なぜ表の、しかも大型船ぐらいしか横付けしない外港の岸壁に、何の用だ?

 第一、接岸していいのか、これぐらいの船が? 船の細かい決まりは知らないが。

 順一を初め、一同がぽかんとした中、小舟からは、想像もつかない人物が陸に上がろうとしていた。

 順一が登った階段に足を掛け、登ってくるのは――小柄な老紳士であった。

 老紳士は、蝶ネクタイにタキシード。眼鏡は掛けて居らず、目は健在なのか、それともコンタクト・レンズなのか。

 銀髪になった髪の毛は整えられ、顔には月日を深く刻み込んだ皺が目立つ。

 身長は、一五○センチほどである。しかし、異様な雰囲気を放っている。

 出てきた場所からの問題なのかも知れない。釣り船にタキシード。ちょんまげに洋服ぐらい似合わない

 異様な雰囲気に、黙っていられない順一は、「……どうしたんですか? ここは外港ですけど……」と、思わず小声で呟いた。

 他の三人は、黙りこくったままだ。様子見か、気圧されているのか。

「近々、高知県で麻薬の密輸がある……」

 独り言を呟いて、老紳士は順一たちのメンバーを見回した。

 確かに、海から麻薬を運び込む事件は、あるっちゃあ、ある。主に高知県沖で捕まるのだが。だが、このタイミングで、どうしてそんな内容を語っているんだ、この老紳士は?

「あなたは?」順一は寒さも忘れて訊いた。

「まあ、ただの執事だよ」と、小さな紳士は歳を考えさせない声で答えた。ただの散歩に来た程度の調子だ。

 執事? あの、お金持ちの屋敷にいる、お金持ち版『何でも屋』か?

「執事がどうして、こんなところに?」

 順一だけが質問する。他の三人は――。

 どすっ。「おうっ」順一は横に弾き飛ばされた。今度は、何とか海に落ちないように、辛うじて踏み止まりながらも、残り一センチの際どい極限で蹈鞴を踏む。

 光子が、バーゲン・セールに殺到する大阪のオバちゃんの勢いで駆け寄っていた。なんだなんだ、いったい……。

「執事って、アレですよね、料理の支度したり、ドレスを着せたり!」

 光子が打って変わって、興奮したように訊く。珍しく羨望の眼差しになっている。

「テレビや小説で見ました! いやー、あんな生活が夢なんです! 今は、クソ寂れたアドバイス屋なんか、遊び半分で手伝ってやってますがねぇ。――ええ、さっき、車で轢き跳ばされて、海に『はうっ』なんて声上げて飛んでいった馬鹿が、うちのボスです。誰がやったって? さあ、それは守秘義務がありますんで。」

 光子が適当なことを言っている。――このおかっぱ怪力、殺人未遂女め。

 ふと、太郎丸と目が合う。馬鹿猫め。光子なんかに懐きやがって。

 順一が睨むと、睨み返してくる。まるで田舎のヤンキーだ。これ以上は恐いから、目を逸らそう。猫との礼儀も心得ている。目を逸らせば、敵意のない証拠だ。

 ――俺は、なぜブタ猫の機嫌までとらなくちゃならんがや? くそ、寝てる間に猫の毛もおかっぱに剃ってやろうか。おかっぱ女に、おかっぱ猫。Wおかっぱで、『屁のかっぱ興信所』でも作ればいい。

 そうして、おかっぱ客のおかっぱ事件を解きましたとさ。――なぜ俺が、マザーグースのような与太ギャグを言わなければならないんだ。

「そうですね。我々にも、守秘義務がありまして」

「――そーでしょー、そーでしょー、誰が轢き跳ばしたかなんて、問題にも全然なりませんよねぇ。港なんだから、烏賊や章魚の類を轢いたようなもんです。まあ、ウチの馬鹿ボスは、札付きのタコですし」

「おれは一杯三百円か!」何とか戻ってきた順一が呟くと、

「太郎丸、やってやりなさい」と、いつの間にか隣にいた光子の猫に、左腕を思いっきり噛まれた。

「オウッ!」順一は悲鳴を上げて、左腕を引っ張った。でも、太郎丸は暫く食い付いて離さなかった。

 噛めば噛むほど味が出る、スルメイカ・タイプなのだろうか。

「私にだって、祖国に帰れば執事の一人や二人、イます。確かに、今は、飢えた野良犬も寄りつかないアドバイス・ストアを手伝ってマスが」レイが、訳の分からない対抗心を燃やす。

 そういや、レイの母国すら知らんなあ。

「執事か……。華族のもんが使うちょるもんやのう。なんまんだぶ、なんまんだぶ」ミツエ婆さんも、なにか不思議な歴史観を披露する。

『執事』は、ただ笑って受け流した。

「でも……そんな執事様が、どういったご用件で?」

 順一は、最初に聞いた台詞は間違っていたんじゃないかという勢いで、バーゲン・セール状態の中に割り込んで訊いた。

「私は、そんなに大した者ではありません。ただ、知って置いて欲しいんです」

 執事が話している途中で、またしても光子が順一をタックルで弾き飛ばす。

「いやいや、大した人ですよ! この馬鹿脆弱ボスなんて、そこらの野良猫以下ですよ、うちのボスは! 保健所が来たら、一発コロリですよ! いや、キンチョールのほうが早いか」

 ちょっと言い過ぎでないの、光子? 俺が同じ台詞を言うと、また轢くんでしょ?

 それでまた、「はうっ」なんて叫んで、今度は浮かんでこれるかどうか分からない大海原に身を投じるんでしょ?

 ――この、猫馬鹿おかっぱめ。キンチョールで苦しむのは、お前のほうだ。事務所に帰ったら、おかっぱの好物の塩けんぴに、キンチョールを塗して喰わせてやる。

 って、それじゃ、捕まるじゃないの、俺ってば。

 とゆーか、その前に臭いでバレて、ぼこぼこにされて、三階の事務所の窓から吊されるのがオチだ。パソコンの一発変換で、「光子」と入れると、「おかっぱ」と出るようにして置いてやる。

 ――自己満足やないの、それって。くそ、こうなったら、事務所のビルの壁に「おかっぱ」と落書きしてやる。――いかん、やっぱりボコられる。

 せめて、心の中では、こう呼んでやる。「座敷童」と。――順一にしたら、勇気のある決断だった。

 順一は、がくっと肩を落とした。未来に敷かれたレールの先が、ぼんやりとした不安に包まれて、見通せない。って、そりゃ、芥川龍之介の『トロッコ』か。

 執事は名乗ろうともせず、深々と礼をすると、

「もうすぐ、麻薬のやりとりがあります。それを、広めて欲しいんです」と、呟いた。

「はあ……」

 順一と三人は、分かったような分からないような感じで聞いていた。確かに、広めたら、いつか誰かが警察に通報して、お縄になることもあるだろうけど……。

「あの、警察に行けば済むことでは……」

 順一はそろそろと、ゆっくり口にした。

「高知県沖でも、麻薬の取引は、よくあることです。遙か昔――四、五十年前までは船員も海外から買ってきていたという、歴史付きの一品です。それは、もちろん、今では想像もつきませんが――。とにかく、麻薬の取引があるという情報は、警察に話したほうがいいのではありませんか?」順一は、丁寧に答えた。

「でも、言いたくても、言えない場合もあるよね」

 光子がじっと執事を眺めている。

 座敷童め、何を言い腐って居る。犯罪者の執事なんぞ、聞いたことがないぞ。第一そうなら、刺激をするな、刺激を。――恐いじゃないか。

「たとえば?」執事が、どこか面白そうに訊いてくる。

「たとえば、自分がその組織に属している、そんな場合では?」

 光子は、執事から目を逸らさず、そっと太郎丸を地面に下ろすと、ハーネスの先の紐を持って、話を続けた。

「そうですねぇ。でも、その場合は減刑されるのではないのでしょうか?」執事も、光子をじっと見ながら話す。

「それじゃない場合もある。チクれば、報復の可能性も充分にあるわ」

「マア……。執事さんは、その筋のヒトなのデスか?」

 執事はにっこりと笑うと、「ご想像にお任せします」と、いとも愉しそうに答えた。

 執事は、ちらっと自分の腕に填めている時計を見ると、「もう、そろそろ時間です。釣りの時間でね」と、船に戻ろうとした。

「もう行くんですか? まだ、この馬鹿ボスについての面白い漫談があるんですが!」

 ――光子よ。お前は、もう、座敷童ではない。妖怪「油坊主」に変更だ! 呪われるがいい! ふははははは! 蝋人形にしてやろうか!

 もう順一は、一人上手になるしか、仕返しの方法がなかった。

 執事が船に跳び乗る。入口は、こちら側からは見えない。見えるのは、光で反射して内側が見えない、船の先頭のガラス部分だけだ。

「おっと……手を切ってしまいました」

 執事の声がする。

「大丈夫デスか?」レイが声を掛ける。

 おいおい、俺の心配は、どーした、俺の心配は。手を切るより、海まで轢き飛ばされるほうが、キツイだろうが。

 順一の文句の念は届かない。

「大丈夫です。では!」という声と共に、扉が開く音がして、執事は消えていった。

「行っちゃった……。あーあ、まだ四方山話があったのになあ」

 そっちか。聞きたいんじゃなくて、喋り足りなかったのか。

 四方山話……。まさか、執事を紹介してくれとか言うんじゃないだろうなあ? うちには、執事を雇う余裕なんぞ、ないぞ?

 というか、高知県にもあるのかなあ、いや、〈全国執事派遣協会〉なんてあったりして。

 そこから、身長、体重、顔なんて選んで、執事が来たり……。それは「乙女ゲーム」のジャンルやないかあっ!

 しかし、四方山話がそれで収まるとは思えんなあ……。どんな話があったんだろうか……。

 すると、「ぎゃああああああああ!」という執事の絶叫と共に、ガラス窓から見える船の中が、炎に包まれた。

 ガラスが、一気に炎の色に染まる。熱が伝わってくるようだ。船自体は、揺れることもなく、ただ、浮かんでいる。それとは裏腹に、炎は船の中を暴れ狂うように焼いている。

 中が一切、見えない。ただただ炎のみだ。

 えっ? どしたん?

「執事さーん!」「ドウしまシタ!」「なんまんだぶ、なんまんだぶ」

 三者三様の台詞と共に、皆が、かなり慌てた。

 そのうち、ジャンボ・ジェットの離陸のときのような轟音と共にガラスが破裂し、炎が船から立ち上る。炎の舌がちろちろと伸びる――そんな程度ではない。怒り拳を振り上げたかのように、天に向かって付き上がる。

 ガラスは運の良いことに、飛び散っては来なかった。しかし、炎は天を衝き、船も大幅に揺れる。

 執事が生き残っている可能性は、皆無と思われた。

 灯油でも持ち込んでいたのだろうか? いや、灯油の爆発か、これは? ガソリンか?

 いや、もっと強力な「何か」か? そもそも何で、そんな物を積んでいたんだ? ガラスのあった場所から、恐ろしい炎と爆煙が吹き上がり続けている。

 炎の熱気と同時に、煙が順一たちのところに吹き付けてくる。運の良いことに、上昇する強さが強く、巻き込まれることはなかった。

「どうして……」

 千の疑問に包まれつつも、炎の勢いに圧倒された順一は、ぽそりと呟いた。

 炎は、どす黒い煙を吐き、五メートルほど立ち上った。

 順一たちは、どうしていいか分からず――。

「アホか! さっさと消防車を呼ばんかい! それぐらい、分からんかあっ!」

 ……油坊主の台詞に叩き出されるように、順一は、ケイタイを取りに、バンに走っていった。

 通報すると、警察は十分ほどしてから来た。船の爆発音が凄い音だったから、付近の住民――といっても、三百メートルは離れているが――通報したんだろう。

 偶然、外に出ていれば、噴き上がる炎も見えたはず。

 あまりの惨状に、最初に訪れた警官が大急ぎで応援を呼び、今や港は警察車両でごった返している。

 順一たちは、「第一発見者」と「関係者」という理由で、刑事たちに事情を訊かれていた。

 順一は、目の前に突き付けられた警察手帳の認識票を見せられた。警部補という文字が飛び込んできた。名前は高岡亮一。もう一人いて、そっちは巡査長だった。名前は河野上浩三と書いてあった。

「で、突然、爆発したって……言うのかね?」

 最初のパトカーで制服組に訊かれたことを、もう一度しつこく訊かれた。

 警部補が訊ねてくる。高岡亮一とかいう名前のほうだ。挨拶の際に、「刑事課捜査一係だ」と聞いた。多分、殺人と事故の双方で調べているんだろう。こりゃあ、高知から捜査第一課が来そうだなあ。

 順一より二十歳は上だろう。白髪は染めているのか一本も見えず、ただ、皺と雰囲気から年齢を推し量ることができる。

 高岡の手からも熟年の相が見え、こんな手で殴られたら、さぞかし痛いだろうなあと順一は密かに思っていた。

「出会って、ちょっと話を聞いたら、爆発したんれふよ……」

 順一は、ガクガク震えていた。呂律が回っていない。あまりの緊急事態を目の当たりにしたため、寒さを忘れて警察を待っていたものの、警察が来て少し気が抜けると、恐ろしい寒さが襲いかかってきた。

 今まで忘れていたぶん、それは猛烈に襲いかかってきた。

 今は、風のなるべく来ない、警察車両の中で話していた。僅かなぬくもりが、順一の命の灯火を守っていた。

「ところで――」高岡警部補が、じっと順一を見つめていた。

「はひ?」順一は回らない口で答えた。

「君はどうして、そんなに濡れているんだい? 取り敢えず署に行って話を聞こうか? 署なら暖房も効いているし、暖かい珈琲ぐらいは出せるだろう」

 順一は、神様仏様高岡様といったふうに、「はひ、是非!」と、高岡警部補の手を握って、答えた。暖かみが伝わってくる。人間の温かさだ。

「ところで、一つだけ訊いて良いかな」

 高岡警部補はじっと順一を見つめながら、「どうして濡れたんだい? えらく、磯臭いが」と、訊ねた。

「そ、それは……」まさか、部下に轢かれたとも言いたくても言えない。余計に面倒な事態になるし、あの油坊主は、反省しただけで済まされるだろう。

 その後――警察が去った後、今度は白灯台に吊されるかも知れない。やりかねん。二十四時間の警護を要請しなければならない。

「どうしたんだね?」

 優しい低い声に、ありありと疑問が含まれている。まずい。疑われるかも知れん。

「いやあ、端を歩いていたら、船を舫うヤツに、躓いちゃって……。それで、この結果です」順一は、今後のことを考え、泣く泣く嘘をついた。

「そうですか……。てっきり、突き落とされたり、轢き飛ばされたりしたのかと思ってしまいました。杞憂のようですな」

 それ! ビンゴ! そうなの! あの妖怪、油坊主の仕業なんです!

「それじゃ、警察に向かいましょうか。あの車は、お宅ので?」

「はひ」ああっ、そうなんですけど、あの油坊主が――。

「それじゃ、運転はできますね? 警察車両で案内しますから、警察署に向かいましょう」

 高岡警部補の慧眼にも、本当のことを話すと復讐の連鎖が続くと思って真実を隠した順一は、力なくバンに戻った。

 運転中は、警察車両に前後を囲まれていた。もう戻れない。順一は、名古屋の結婚式を思わせる待遇に、そんなに違和感は感じていなかった。

 順一の脳に浮かぶのは、「熱い珈琲」――それだけだった。

 いいなあ、いいなあ、ミルクはつくのかな、砂糖までついちゃったりして。ぐふふふふふふふふ。

 考えていたら、涎が止まらなくなった。いかんいかん、涎に気を取られて警察車両に追突なんて、冗談にもならない。

「それにしても、高知出身の俺が指摘するのもなんだけど、室戸って、超ド田舎やなあ……」

 窓を見ながら、順一が呟いた。室津港から警察署までの間なんて、自然が豊富すぎて目も当てられない。空は透き通っていて、山は優しい緑に包まれているが、それだけでは腹はくちない。ド田舎だ。

 確かに、それはいえるだろう。山、海、家――それしかない。

 だが、山は海に直滑降するように流れており、それだけでも他の県にはない魅力が……お遍路さんも通るし……。

 うーん、無理はよそう。はっきり言う。超クソ田舎だ。

 そんな超クソ田舎な室戸であるのだが、世界ジオパーク認定の岬の岩石群が有名になっている。

 世界ジオパークが何かって? そんなこと、詳しく分かっていたら、超クソ田舎なんて言葉は使わない。地元の人間の大半にとっては、ただの奇岩だ。

 しかし、認定には「周知徹底」という条件もあるらしく、市の飲食店、並び諸々の場所に「室戸を世界ジオパークに!」という幟を、意味も分からず立てていた。

 そんなエセ宣伝が功を奏したか、四度目という回数を経て、なんとか、認定されたのであった。とゆーか、三回目までは聞いた覚えがなかったのだが。

 そういえば、〈恋人岬〉とかいうのにも、認定されているんだよなあ。

 何処にあるのかは全然わからんが、室戸岬を一望できる場所にあるらしい。

 いつか行きたいな――別のメンバーで。

 光子改め妖怪油坊主は、俺より実力が……いやっ、俺は負けては居らんぞ、負けては。それでも、なかなかの洞察力と怪力を持ち合わせている。しかし、恋人岬は、リングでも格闘場でもないのだ。だから、パス一つ目!

 ちなみに、パスは三回まで認められております。

 次にレイは……。顔、スタイル申し分なし。一緒に恋人岬へ行きたいところだが、ちょっと待て、「ナニ」がある。ナニがなんなのかまでは書かないが、簡単に言えば「工事前」なのである。ちょっと、抵抗がある。工事前なので、パス二!

 次にミツエ婆さんだが……。論外だろ、普通。岬より棺桶が似合うお年頃である。まあ、至極まともなことを言えば、岬はキツイだろう、歩くのに。パス三!

 太郎丸にいたっては、猫やないの。論外ですっ! パスとか何とかいう場合ではありません!

 そんなアホな雑念ばかりを考えていたら、室戸署に着いた。

 さあ、ちょっくら、ひと暴れしてきますか!

 事情聴取に、ひと暴れは必要なかろう、順一よ。

 そんな独り突っ込みは無視して、順一は意気揚々と入口に向かった。

 室戸署に入ると、順一は二階の刑事課室に通された。入った直後、業務用の、馬鹿デカい、背丈の1メートル以上あるコーヒー・メーカーが、どーんとドア脇に設置されているのを発見。紙コップも、そこにある。

 コーヒー・メーカーだ! いやっほぅぅい! これで生き残ることができる! ミルクと砂糖もついちゅう!――ポーション型のミルクと、長細い髪に入った砂糖だけど……。

 いや、しかし、いきなり自分で隣にある紙コップに淹れて飲むのは、いささか常識に欠けるというものだろう。刑事側が勧めるのを待つことにしよーか。

「いやー、狭いところで済みません。それじゃ、話を――」

 高岡警部補が笑顔で現れた。

 資料が山のように積まれた机と、雑然とした椅子。壁に日程表。誰が当直とか、一目瞭然で分かる。広さは順一の事務所の二、三倍はある。

 全部のデスクに、デスクトップ・パソコンがある。ほとんど、点けっぱなし。スクリーン・セーバーが、たいていのパソコンで稼働していた。

 そういや、高知の家賃は意外と高い。高知市でさえ、東京から言えば「超ウルトラC級クソ――いやいやフン害の原因である鳩のビチグソを思わせるようなクソ田舎」なわけである。だから、家賃なんて凄まじく安くていい。ところが、それでも、大阪並みの値段がするという。

 まあ、順一は不動産屋巡りをしていないから、そこまで相場は知らないものの、高知の状況と家賃を天秤に掛けると、明らかに家賃のほうが重い。

「どうしたんですか? ま、軽い事情聴取なので、二時間ぐらいで済みますよ」高岡警部補が笑顔でくると、順一は、もう待てんと勢い込んで訊いた。

「珈琲は?」「え?」

 高岡警部補は戸惑っている。順一はもっと戸惑って、「ほら、港で約束したじゃないですか、温かい珈琲をミルクと砂糖付きで出してくれるって。僕はそれだけが希望で、警察に出頭したんですよ?」

 出頭とは意味合いが違うであろう、順一よ。

「ほら、あれ!」

 入ってきたところにあったコーヒー・メーカーを素早く指さした。

10

「あ、そう、そうですね。ちなみに、珈琲は誰でも勝手に飲むことができるんですよ。まあ、今回は私が持ってきましょう。ついでにタオルなんかも持ってきましょうか? 完全に乾いてらっしゃらないようですし」高岡が焦ったように答えた。順一の必死さが伝わったのだろう。

「ありがとうございます!」順一は、次第に震え始めている自分に気がついた。

 昨今の不況事情で、暖房費もカットされているのだろう。外と違うのは、風がないぐらいのものだ。

 次第に寒さが襲ってくる。底冷えはしないが、自動車のヒーター程度では暖まらなかった寒さが、甦ってくる。

 寒い。寒い。寒い!

 人差し指をテーブルに打ちつける。

 トン、トン、トントン、トントントントントントントントン!

 苛々は募るばかり。あの油坊主にレイとミツエ婆さんはどこにいるのだろうか?

 それにしても、ああ、なんで、あんな性悪な妖怪を、故郷に連れてきたんだろうか!

 あいつさえいなければ、こんな厄介ごとにならずに済んだのに。というか、海に二度も突き落とされることはなかっただろうに。

 行きたくはないが、実家に行けば、昇天するのではないだろうか? まあ、俺も昇天しかかったしな。

 ちなみに、順一の実家は神社だ。長男で、実家を継ぐのがイヤで、他の職業に就いた。今の職業は――。

「あ、どうも、珈琲とミルクと砂糖、それとタオルもお持ちしましたよ!」

 高岡警部補が婦警を連れてやってくる。

「それと、一瞬で暖まる、秘密兵器です。一般市民には秘密ですよぉ?」

 高岡警部補は、ドライヤーを持ってきていた。ぶっとい業務用のようなヤツだった。

 扇風機を強にしたような強さで、熱風が吹いてくる。

 順一は、立ち上がってスキーの滑降の選手のように体を斜めにした。、暖風が順一の体を包み込む。

 ああっ、天国!

「まあ、しばらく当たっててください」

 高岡警部補は、業務用ドライヤーを順一に渡すと、横の机に座った。

『室戸にいたセイント』――これで、高知新聞に投稿しても良いな。順一は考えていた。

 なんだよ、セイントって。マンガか。

第二章 招待状

「と、ゆーわけで、執事と出会ったんですよ」「ふんふん」

 順一と高岡警部補は、話していた。

 高岡警部補は、ブラインドタッチで、机の上のデスクトップ・パソコンに順一の証言を打ち込んでいる。

「あ、そうそう、『麻薬の取り引きがある』って情報を、えらく強調してましてねぇ」

 高岡警部補は素直に打ち込んでいる。室戸には勿体ないほどの仕事ぶりだった。

 室戸は今では「ど腐れビチグソ田舎」というレッテルを貼られているが、昔はそうではなかった。ヤクザの闊歩する場所であり、「喧嘩が辻」と呼ばれるスナック通りもあった。今では、猫すら姿を見せないのであるが。

「そこで、天を衝くような地響きが伝わってきたんですよ」順一が説明すると、

「海でしょ? 〝地響き〟って」と、高岡警部補の素早い突っ込みが入った。

「いやー、なんというか、空気の振動が凄くて……」「ふんふん」

 何事もなかったかのように続く。ほっ、として、順一が珈琲を啜る。

 もう五杯目だ。目がギンギンになっている。イケナイ薬でもやっているかのように、カフェインが効いている。

「で、以上です」「ふんふん」

 パソコンを打ち終わると、頭がハイになっている順一を見て、「暖まりましたか?」と、声を掛けてくる。いや、順一に言わせれば、掛けてくださった、とでもいうべきか。

「じゃ、これで終わりですか?」順一は良い待遇に、恵まれ、良かったと思った。。

 高岡警部補は、にこっと笑うと、「もう一回、最初から」と優しい笑顔でハードな要求をしてきた。

 パソコンに打ち込んでただろう? それを読めよ、それを。二回も訊かれると、跳ねられた場面を思い出してしまう。轢かれた事実を打ち明けると、今度は縛り首になる恐れがあるんだ。そうしたら、どんな捜査本部ができあがるだろうか。

「油坊主殺人事件」にして欲しい。最期のお願いだ。――いや、そんな捜査本部は、できないだろう。油坊主が捕まる展開はない。――俺が、死にたくないから言わないだけだ!

「珈琲は幾ら飲んでいただいても結構です。だから、もう一回」

「はあ……」

 珈琲を啜りながら、業務用ドライヤーで乾いた服をぱんぱんと叩くと、磯の香りがする。後で、消臭スプレーを借りて、振り掛けておこう。

「さ、もう一ラウンド、頑張りましょうか」と、自信満々に告げた。

「ところで、訊きたいのですが……」高岡警部補が、じっと真剣な表情で順一を見た。

 もう充分に訊きゆーやないの。

「『執事』と仰いましたね? 何処の執事ですか? せめて、何か手がかりがあれば良いのですが……」

「〝手を切った〟と言ってたので、血がついてるんじゃないんですか? DNAでわかるんじゃないんですか? 他にも、指紋もあるし」

 高岡警部補は、うーんと唸り、「どちらも登録されていなければ、意味はありません。一般市民だと、辿れないんですよねぇ」

 執事が「一般市民」に当たるかはどうかとして、

「そうです……ねぇ」順一は再び珈琲を啜った。ああ、極楽。

「でもまあ、麻薬の取引の情報を漏らすような人間は、登録されていてもおかしくはありませんしねぇ」

ズビズビズビ。

 珈琲を啜る音で答えるでない、順一よ。

「それじゃ、珈琲をもう一杯、貰ってきます。いやー、クソ不味い珈琲でも、元気は出るもんですなあ!」順一は率直な感想を述べた。

「……まあ、あなたの証言は信じられますけど、ね」

 嘘をつかないのは良いのだが、不味いなら、そんなに飲むなよ――そういった言葉が伝わってきそうな表情だった。

 証言を聞かれ、証言をプリントアウトし、下読みをして、これでいいならと、捺印をさせられて、終わった。

「それじゃあ、これぐらいで」

 ようやく終わったようだ。時間は……きっかり二時間が経っている。生真面目なのか、それとも順一の話が偶然ぴったり終わったのか、その辺りは不明であった。

「じゃあ、皆さんと帰って下さい。今日は、どうもありがとうございました」

 いえいえ、と手を振りながらも、順一は自分のお手柄のように思っていた。

 これから何かあったら、話を訊くかも知れませんと、名刺を交換すると、「さー、高知市にまで帰るかあっ!」と、警察署を出て一息ついた。

 その、今しがた出て来たばかりの警察署の入口の後ろから、妖気が――。

 順一は後ろも見ずに、横にすかさず跳んだ。順一がいた場所に破魔矢が突き刺さった。コンクリートの地面を貫いている。恐ろしい威力だ。

 警察署の前の車駐めのところに着地する。

「其処にいるのは――」

「〝破魔矢の光子〟よ」

 光子は、何処から盗ってきたのか、破魔矢が握られていた。お前が持っても大丈夫ということは、厄払いの力は全然なさそうだな。

 しかし、光子もそんなに忿怒の表情を浮かべなくても。

「ナニナニ?」

「なんじゃのうし」

 レイとミツエ婆さんが出てきた。二人とも、草臥れきった顔をしている。まあ、事情聴取とはいえ、警察と二時間も喋ると、疲れる。

 二人とも、警察署の反対側の山並みを見つめて、ぼーっとしている。緑は目に良い。

 山並みが風に吹かれて、ざざっと葉っぱを揺らす。その度に、冷気が吹き付ける。考えてみれば、もう夕方。息が白くなっている。

「今回の元凶の妖怪を退治しようと思ってたんだけど」

 妖怪はお前じゃっ! 順一が指摘しようとしたとたん、

「喰らえ!」

 ドスの効いた掛け声と共に、破魔矢が雨霰のように、順一を狙う。順一は、警察署の前で逃げ回っていた。

 警察署の前には、車を余裕で駐められるほどの広いスペースがあった。だいたい、縦五メートル、横十五メートルぐらいだ。道を挟んで、よく分からない小さな建物らがある。

 山の風景と警察署が、回転する。まあ、順一が走って転んで逃げ回っているせいだが。

 山までは、百メートルぐらいだろう。しかし、走って逃げる先もないし。なにせ、坂になっている、山への路は。しかも、手前に他の建物があって、直進できなくなっている。

 ちなみに、警察署の近くには、旧道が存在する。室戸の市内側から行くと、別れ道があって、旧道と警察署へ向かう路へと分かれる。その分かれ目のすぐ近くに、室戸署は存在するのだ。

 旧道へと向かうと、其処には小さな家々と、もうちょっと行くと、かなり小さな港が存在する。バス会社も存在する。店は……チェーン店は存在しないと言っておこう。

 ちなみに、破魔矢は光子が素手で投げている。怪力とスピードと命中力は、目を見張るものがあった。走って逃げていたら、矢をもろに背中から打ち抜かれる。

「待たんか、妖怪ズラ男!」

「え、ズラなんデスか?」レイが吃驚したように呟く。

「ほほう……。分からんもんやのうし。最近の毛髪ての技術革新は恐ろしいこっちゃ」

 感心するのは其処か、ミツエ婆さん?

 油坊主めっ……! 傷害既遂に殺人未遂に名誉毀損だ!

 それにしても――なぜ警察内部から止めに来ないんだ? すぐ側だろう? なんで見えないんだ。

 ふと見ると、入口はレイとミツエ婆さんで、死角になっていた。

「何処でそんな破魔矢を――というか、俺はハゲでもズラでもない! 自毛だ!」

 順一は仕方なく、土下座をした。

 光子が、うん? といった表情をしている。

「私が悪うございました、光子様! そんな矢は仕舞って、一緒に帰りましょう!」

 光子が近寄って来ると、「面を上げなさい、順一よ。一緒に帰りましょう」と、優しい言葉を掛けてきた。

「は、はい!」と、順一はいつしか滂沱の涙を流していた。

「DVの典型的パターンデス」

「まあ、共依存にはなりそうにはないがやけんど、な」

 光子は天使の笑みで順一の頭を撫でながら、「まあ、妖怪扱いした件は――」

 光子は再び、何処から用意したか分からない、水がなみなみと注がれているバケツを持つと、一気に頭からぶちまけた。突き刺すような冷たさが全身を包む。

「これで水に流そう」光子は、納得したように語った。

「な、なぜこんな仕打ちを、光子様?」

「そのままじゃ、磯臭くて堪らん。さ、後は車のヒーターで乾くだろうし、帰りましょ!」

「はーい!」

「ほいほい」

 みんなは、車の元に集まっていった。

「うう……寒い」

 順一が暖房を強にすると、光子が、「私らは、そんなに寒くないけどね、何処かの誰かさんみたいに、水、被ってないから」

 お前だ! お前が俺に被せたんじゃないか!

「う……。ちょっと、酔ってキタようデス」レイが口元を抑える。

「それじゃあ、風に当たると良いわ」光子がコントのように、窓を開ける。

 びゅうと吹き込む冷気が、一気に車中に充満する。

 寒い。心の底から寒い! まだ乾ききってない体に、鋭い冷風は既に痛みに変わっていた。

「ちょっとはマシになった、レイちゃん?」

「はい、冷たい風に当たると、楽になりました」

「そう、それは良かったわ」

 ……絶対に次もやるだろう。バックミラー越しにレイを見遣る。どうやら、本気で気持ち悪がっているらしい――とも見える。

 しかし、演技だとも言える。俺を殺すに刃物は要らぬ。冷たい風を当てるだけ。

 順一が訳の分からないキャッチコピーを考えている間も、車は進んでいく。

 周りに店が増えてきた。人も歩いている。普通の学生なんかも、帰り道を通っているようだ。山が見えないぐらいに、遠ざかった。

「お、安芸市に入ったぞ。もうすぐ、半分だ」

 安芸とは、高知市と室戸市の中間にあり、室戸に比べれば、活気づいた市だ。

「う……お……お……」

 レイが声を上げる。どうしたんだ?

「お腹が……減りまシタ」

 光子も、同意見らしい。とにかく何か、腹に入れたいと見える。

「じゃあ、コンビニにでも寄って、なんか飲み物でも買っていくか。晩ご飯は、高知市のほうが充実しちゅうやう?」

 レイが頷いている。光子も頷いている。ミツエ婆さんは、うんうんと頷いている。

 コンビニに駐まると、「私、ホットの珈琲」「ワタシは、冷たいソーダ」「あては、温い焙じ茶がええ」と、口々に注文を付ける。

 さては……俺に買ってこいというパターンか?

「この辺で、ボスの良いところ、見てみたいなあ」光子がにこにこしている。

 いかん。ここでジュースでも買いに行かせて、そのジュースを掛けられたら――。

「はい、私めが買いに行かせて頂きとう存じます!」

「うん、良い返事」

 うちにも一人、欲しいな、執事。

 ぽそっと呟くと、「お前がなれ、お前が」と、光子に車の中から蹴り出された。

 順一は、買ってきた珈琲、サイダー、お茶を持って、すぐさま車に飛び込んだ。

 皆は納得して、「まあ、気が利くじゃないのぉ」と光子は平然と言い放った。

 ――あのなあ、お前が命令してだなあ――。

 文句を訴えたい順一に、「順一サンは、飲まないのデスか?」と、レイがペットボトルに入ったソーダを飲みながら、訊ねてくる。

 いかん、うっかり自分の分を忘れていた。

 かといって、もう一回あそこまで買いに行くのはなあ……。

「ほれ、車を出さんかい、執事ボス」珈琲を飲みながら急かす。

 まるで、「ボス」部分を「ロボ」にしても、通りそうな言い方だ。

「あのなあ、執事って、お前――」「ボスだけじゃ、飽きるでしょ?」

 そりゃまあ、そうなるわな。――ん? そうか?

「じゃ、高知に帰ろうか」

 もうコンビニになんて、寄りたくない。早く、着替えたかった。

 後ろから、ひそひそ声が聞こえてくる。レイと光子だ。

 助手席には、ミツエ婆さんと太郎丸がいた。ミツエ婆さんは茶を啜っているが、太郎丸だけは、文句を言わず、ミツエ婆さんの膝で、箱座りをしていた。

「執事ロボというのは、どうでショウか?」

「それは私も考えていたわ。でも、ロボが水浸しっていうのは、頂けないじゃない? それに、美味しい晩ご飯を奢ってくれるんだから、かろうじてボスと呼ぶのは、良いと思うわよ」

 ――そうか、ボスの体裁を繕うために、敢えて俺をボスと……。

 油坊主よ、レベルアップだ。次の称号は「妖怪〝油すまし〟」だ!

 しかし、「晩ご飯を奢る」に、しかも「美味しい」とついたもんだ。

 いつ、奢るって約束した?

「さあ、いざ行かん、美味しい食事を奢って貰うためにっ」

 だからっ! 何故、奢らなくては――。

「奢ってくれないと、明日の朝刊トップに出るような仕打ちに遭わせるわよ」

 微笑んだ顔から、冷たいものを奥に宿した瞳で、殺気を発していた。

 警察は、なぜ、此奴の目を見て逮捕しなかったのか? 目が殺人者ではないか。しかも犠牲者は、一人や二人でない。シリアル・キラーだ。そんな目をしちゅうのに……。

 ああ、そうか、俺が黙っていたからか、轢き跳ばされた件は。

 しかし、警察は気付いているはず。ブラック・リスト入りしているな、多分。

「何をブツブツ、鍋が熱くなって噴くような音を立てている! 帰るがや!」

「そーです、腹が朽ちたら、もう寝ます!」レイが訳の分からない台詞を喋っている。

「順一さん、もう帰らんと、腹が減って、ぺこぺこじゃ」ミツエ婆さんまで、文句を垂れ始めた。

 はいはい、帰ればえいんやろ!

「さー、早く帰って、何か食べよう。一人、千円以内な」順一は念を押した。

「もー、何でもえい! はよ帰って食べるんじゃあっ!」

 光子がキレた。

「豚太郎でも、なんでもいい。はよ喰わせ! それか、もう一回、コンビニまでの極寒行軍をさせるぞ!」

 なんで、こんな部下を雇っているのだろう……。まあ、正確には、雇っていないのだが……。自然に集まってくるようになっちゃたんだよなあ……。

 まあ、部下っちゃあ、部下だ。

 順一の腹も減っていた。あ、そういや、昼から何も喰っていない。

 さっさと帰ろう。――結局、この結論に落ち着くと、順一の車はコンビニを出た。

 ふううぅ……。

 漸く辿り着いた、高知市に。

 それにしても、「一人千円」としておいてよかった。

 一人五百円では、また轢かれていただろう。ラーメンでも、ちょっと頼んでいくと、すぐ五百円は越える。

 結局、豚太郎だった。豚太郎といえば、高知県で有名なラーメン屋だ。他の県にも出店しているらしいが、順一はそんなに知らない。

「これ、ボスとみんなの食べるはずだったお金で買うわ!」順一は味噌カツラーメンを食べていた。油すましは、どうしてこんなに計算が働くのか。

「店主! 餃子二人前と、ビールジョッキ大、一人前ね!」

 おい、油すまし。お前は確か十九歳だったのではないか?

 持ってきた、俺のカネで買った餃子と、俺のカネで買ったビールジョッキ大が、俺を殺そうとした光子が喰っている。

「理不尽」――ベルリンの壁を壊したドイツ民の気持ちが痛いほど分かる。

 太郎丸は、というと、チャーシュー麺のチャーシューを、店の外に繋いでいるところに持っていって、レイが食べさせている。

「これ、食べ終わったら、解散な」

「ええー! じゃあ、焼き餃子もう一人前、追加ねぇ? ヘイ、店主!」

 優しそうな店主さんの目は、俺を憐憫の目で見ている。

 ああ、あのおやっさんと、朝まで語り合う自信はあるぞ、俺は。

 ちなみに、車は事務所の駐車場に置いてある。歩いて来られる距離に豚太郎があるわけだ。

 またまた、ちなみに、服も着替えてある。髪がちょっと濡れているだけだ。

 それにしても、ビールが飲みたい、ビールが飲みたい、ビールが――。

「光子、一口――ああっ」

 光子は飲み干したところだった。

「仕方ないわねぇ、店主、ボスにビールの大ジョッキ、プリーズ!」

 光子は、こそっと、「サービスよ」と呟いた。

 順一は、天にも舞い上がらんばかりに喜んだ。

 震えんばかりに喜んでいた中で、「あの料金、誰が払うんデスかね?」

「もちろん、順一くんがや。当人のカネで別人がサービス……。まあ、えいんじゃがなあ」

 塩ラーメンを啜りつつ、焼き餃子に手を伸ばしているミツエ婆さんの横で、順一は盛大に盛り上がっていた。

「……やっぱ、共依存かも」ミツエ婆さんが、ぼそりと呟く。

「私のダーリンにも、困ったものデスね……」酒が入っていないメンバーは、餃子を食べて、ラーメンを食べて、もう、お腹いっぱい。

「うーん、ラーメンとビールと餃子は効くねぇ!」順一が感嘆の声を上げる。

「まあ、服も着替えてマスし、風邪はひかないデショウ」

 旨そうにビールを飲み干した順一は、瞳に熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。

「旨いよ、おやっさん! チャーハンもお願い! 取り皿付きで!」順一は気分が一気に解放された。

「幾ら掛かるんじゃろ……」「そうデスねぇ……」

 ミツエ婆さんとレイは、ぼそぼそ呟いていた。

「よっしゃ、光子、大ジョッキは三杯までな!」

「よっ、大統領!」

 光子よ、お前はもう、油すましではない。

 立派な、小豆洗いだ!

 二人は、杯を重ねていった。

 順一は、頭痛と共に目を覚ました。

 うーん、何があったがやったっけ?

 確か、光子と肩を組んで、『同期の桜』を熱唱しながら帰ったのは、覚えちゅうんやけど……。

 順一は自分の服装を見た。ちゃんとパジャマを着ている。

 何時や、今? ――朝の八時か。

 順一はパジャマを着替えて、まず、財布を確かめる。

 げっ、一万円なくなっちゅう! そんなに飲み食いしたんか? 豚太郎で?

 まあ、過ぎたことは、仕方あるまい。

 んなことより、今日の仕事の下準備や。さっさと暖房つけよう。寒うて堪らん。

 純一の仕事は「アドバイザー」だ。他人の愚痴や相談事を、机上で解決する。まあ、解決しない場合が、多々あるのだが。

 ちなみに、名前は「Eーアドバイス」だ。なんでもアドバイスを受けるということで「エヴリシングーアドバイス」と名づけたのだが、勘違いして入ってくる人の多いこと。「エスパー」だの「イングリッシュ」だの……。

 そのため、三人が居着いて仕舞う事態になった。高野光子と、レイ・ブラッドベリと、ミツエ婆さんだ。

 ああ、太郎丸もいたな。この三人と一匹がいると、アドバイスも的確に行ってくれる場合が多い。給料は払ってないも同然だが、まあ、そこは「憩いの場」ということで。

 順一のフロアは、三階にある。路面電車通り沿いの三階建てのビルの三階なので、つまりは一番上だ。そこそこの広さもある。ちょうど、中学校のひと教室に毛が生えたぐらいか。

 ちなみに二階は、夫婦でやってる本場のカレー屋さん。一階は年寄りのお爺さんが切り盛りする古美術商さんだ。

 三階には、窓と、アドバイス時のソファーが向かい合ってある。お茶、珈琲完備。ちなみに料金は、一時間二千円。――これぐらいで、えいでしょ?

 あと、塩けんぴ――芋けんぴに塩を絶妙な加減で混ぜた、美味しいお菓子――もあるのだが、これは、ゆくゆく分かることとなる。ほとんどが客用でない事実が。

 それはともかく、新聞を取ってこよう。郵便受けは、扉についている。普通のアパートなどの型と、大して変わりはない。

 新聞を抜き出すと、同時に、白い封筒が挟まっていた。なんだ?

 封筒は、横二○センチ×縦一○センチぐらいの、結構な物だ。『潮風順一さまへ』とあるが、郵便局の判子がない。直接ここに投函したのだろうか。

 まあ、新聞から読もう。白い封筒は、みんな揃ってから開ければいい。

 順一は、さっさとコーヒー・メーカーで豆を粉にひき、珈琲を淹れる。少々時間は掛かるが、これが一番美味しい。

 うーん、目新しい情報も、そんなにないにゃあ。また政治家が捕まっちゅう。もう飽きたっちゅうがや。、

 ブツブツ文句を言いながらも、順一は、情報を蓄えていった。

 ちなみに、開けるのは十時。十時から午後の七時ぐらいまでが、普通の業務をこなす時間だ。

 扉のカウベルが、盛大な音を立てた。

「邪魔するでー」「お早う御座いマス」「お早うさん」「ぶにぃ」

 三人と一匹が揃って、ノックもなしに入ってきた。

 新聞を読んで、そんなに時間が経っていたのか。

 光子はピッとテレビの電源を入れる。

「あ、これ、行ってみたいなあ」

 光子とレイが呟く。テレビには、高知美術館での《世界の秘宝展》のCMが流れていた。

「そんな古いもん、見んでえい。ミツエ婆さん見よったら、えいやないか」

「ほほう、覚えちょこう」ミツエ婆さんは、顔色一つ変えずに言った。

「そんな――冗談じゃないですかあ」順一が宥めるも、ミツエ婆さんは、瞬きもせずに、順一を眺めている。

「ねぇ、ボス、『あれ』を出したら、えいがやないが?」

 順一も、「そうだな……でも、あんまり喰うがやないで、お客用なんやきに」とぼやきつつ、常備してあるお菓子類を。奥に取り出しに行った。

「ほれ」放ると、太郎丸が「ぶにゃっ」と取っていく。

 絶妙なローテーションで、見る間にお菓子が増えていく。

「『塩けんぴ』、とーっぴ」「あては『都まんじゅう』」

 順一は『鰹の涙』と表に書かれた、ペット用の高級食を取り出す。

「ぶにぶにっっ!」

 太郎丸が飛び上がって、ぶん取る。

「あ、ペット用のご飯容器、あるれしょ? それ持ってひへ」

 塩ケンピをばりぼり、むっしゃむっしゃと食べつつ、光子が催促する。

 はいはい、持っていきますから、お嬢さ――いかん、このままでは、執事だ。

 そういや、あの事件、どうなったがやろか? なんの返事もないなあ。

 珈琲を三人分、淹れて、それぞれの前に置く。動作が板についているのが、哀しい。

 太郎丸は、自分のご飯を食べている。そこに、水入れにちょっと温めの水を入れて渡してやる。

 お客用のお菓子は、すべて光子とミツエ婆さんが消費している。

 喰うなよ――そう注意できない、ふがいなさ。

「美味しいわぁ。やっぱ、塩ケンピに限るわぁ」

「そうデスか……」

 レイは、自分で淹れた珈琲を啜っている。本物のお姫様みたいだ。

 いや、前提条件が違う。レイは男だ! 男の娘だ! 騙されるな、俺!

 自分も朝ご飯を食べてなかったなあと思い出し、塩ケンピに手を伸ばすと、ピシィッと光子に、はたかれた。

「出す側が食べて、どうするの! 本末転倒じゃないの」

 お前に言われたくない。

 仕方なく、都まんじゅうを食べる。

「今度は、『大丸焼き』を食べたいぞね」ミツエ婆さんが呟いた。

 まったく、年寄りなのに、歯は丈夫なんだから。

「なに、この白い封筒」

 光子が不思議に思ったのか、手に取ると、カウベルが再び鳴った。

「らっしゃーい!」

 皆が一斉に掛け声を上げる。

 そこには、アーミー・ルックの男性が立っていた。

 歳の頃は、二十代の半ばだろうか。顔は、一言で言うと「強そう」だった。

 一筆書きのような眉も、勇猛とした目も、短髪の髪も、強そうな雰囲気をぷんぷん出していた。

 体と言えば、まさに格闘家然としていた。身長は、軽く百八十センチを越えているだろう。

 盛り上がる筋肉が、外から分かるようだ。アーミー・ルックに加えて、この筋肉では、喧嘩を売ろうとする馬鹿はいないだろう。

 光子たちは、固まってみている。

 一言目には、何が――? 緊張感が凄まじい。

「あの……」

 アーミー・ルックは、呟くように声を出した。

「いやー、お客様、まっことお強そうで。ま、立ち話も何ですから、座りませんか? というか、扉が開けっ放しだから、閉めて頂けませんか?」

 順一は、内心、入って来ずに冷気を運んでばかりの男に、ちょっとイラッとしていた。

 第一、このアーミー・ルックは、何の用なんだ。暴力沙汰はイヤだぞ、俺は。ただでさえ、光子という物の怪がいるのに。

「何か言ったか?」光子が再び塩ケンピを食べながら、順一にドスの効いた声を掛けた。

 それは無視して、「どうぞ、こちらへ」と、ソファーを勧める。しかし、人が多い。

「暴力沙汰云々なら私に」光子が塩ケンピを袋ごと持って横に退く。

「外国関係なら、わたくしが」レイが飲んでいるコーヒーを持って、立ち上がる。

「警察関係なら、あてが」ミツエ婆さんがよっこらしょと、新聞と白い封筒を持って立ち上がる。

 おお、みんな、やったら、できるじゃないか。お客が来たら、自分から退くだなんて――。

 順一は、目に熱いものが込み上げて来るのを、必死に抑えながら、堂々と勧めた。

「さあ、お客さん、空いたソファーに、お座り下さい!」

 アーミー・ルックは、ぎこちない動作でソファーに座る。恐る恐るといった感じだ。

 あれ? 何か違うなあ、と思いつつ、正面側に順一が座る。

「あの……御用は? 相談事は?」セールス・トークを始める。

「私は……誰だ?」ごつく低い声で、よく分からないことを、真剣な顔で仰る。

「はあ……」

 記憶喪失か。話を聞いて、さりげなくIDを見つけ、一件落着――だといいなあ。

 でも、その場合――

「あの、料金のほうは、持っていますか?」

 なかったら、光子の出番か、警察でも呼んで、すぐに済ませる。

 アーミー・ルックは、自分の体中をまさぐった。すると、蛇皮で設えた札入れが、腰の横のポケットから出てきた。何となく、指が、もどかしく見える。

「これか?」と見せる。結構ありそうだ。

「ちょっと失礼――」

 順一は、中を覗いて数えた。ひい、ふう……二十万円も入っていた。脈アリ!

「是非、あなたの記憶を探し当てましょう!」

 順一は、これは今年最後のネギ鴨だ、と思った。

「さて、それでは、まず、お客さんに珈琲とお菓子をお出しして!」

 レイが、飲み終わった食器を洗いに置いて、お客さん用の〝素敵な珈琲セット〟を取り出すと、コップに珈琲を淹れる。

 珈琲用のミルクと角砂糖を用意すると、素敵セットに載せ、塩ケンピ、都まんじゅう、手結山の餅なども載せて、珈琲の横に置く。

 素敵セットとは、珈琲、ミルク・砂糖、お菓子置きの三種のセットを差して言う。選ばれたお客にしか出さない。

「ハイ、どうぞ、デス」レイが、メイド喫茶のように、お客様にお出しする。

 アーミーは、珈琲を啜ると、「美味しい……」と呟いた。

 それにしても、どうしてこんな目立つ格好の男が記憶喪失になったとして、気付かれんがや?

 家族が捜索願を出したら、一発で分かるはず。しかも、二十万ほどの大金を持って……。

「名前、決めんとねぇ」「そーそー、なんて言うたらいいか、分からんわ」

 ミツエ婆さんと光子が珈琲を啜りながら主張する。

「なんか……こんな格好しても、目立たないことってあるか?」

 順一は、疑問を持った。高卒でも、頭の回転は速いほうだ。

 そんなときに、後ろから「あっ!」と声を上げる。ミツエ婆さんと光子だ。

 なにに気付いたがや?

 順一は、ちょっと立ち上がると、白い封筒を受け取った。

「これ……なんやろか?」白い封筒をちょっと開けると、白い紙に「傀儡」と書かれた紙が入っていた。

「なんて読むがあや?」順一は、画数の多い漢字に、戸惑っていた。

「〈くぐつ〉〈かいらい〉どちらとも読めるよね。くぐつは古い読み方だけど」光子が軽蔑の目つきで順一を見ている。

「ま、まあ、意味は分かるぞ。どちらも、操り人形みたいなもんで、後ろに操るものがあるがぁやな」

「よろしい」光子が呟く。

 くっ……同じ高卒の身分で……。軽く睨むと、恐ろしく睨み返してきた。いかん、殺られる。早く、話題を変えなければ。

「他に入っている物は?」と、順一は話を続けるために訊いた。

「えっと、ああ、大きい紙が入っちゅうわ。何々……『サーカスにようこそ! 場所 中央公園 特別バック・ステージ・パス』だって」

 そうか、そんな紙が入っていたか。――うん? 覚えが、全くもってないぞ?

「サーカス、ですか……」

「あ、アミルくんが反応した!」

 ……アミルはないだろう、アミルは。いくらアーミー・ルックとはいえ。

 でも、採用する。なぜか? 代替案がなくて口を挟んだら、その日一日はいびられる。

 それにしても、サーカスが来てたのか……。ふんふん、十二月二十三日に、中央公園でやるのか。小・中規模だなあ。

 大型規模だと、イオンの会場を使う。

「傀儡」に、「サーカス」に、「バック・ステージ・パス」に、「アミルくん」……何か繋がっている。いや、繋がっていないと困る。

 まあ、「アミルくん」は一時待機ということで。

「光子、何か、時間つぶしするもん、買ってこい」

 パシッ。順一は床に倒れ伏していた。

 やだ……私、叩かれたの? 何で? どーして?

「男の時間つぶしするもんは、男のお前が行かんと、わからんろう! コンビニで四コママンガでも買うてこい!」

「は、はい……」

「あ、大丸焼きも忘れずに」

〈忘れずに〉って、聞いてないんですが。

「早う行け!」

 順一は、文字通り、叩き出された。

10

 順一は、中央公園へと回るコースを選び、アーケードのある帯屋町を歩いていた。

 相変わらず、ひとけの少ないところだと思っていたら、中央公園のあるほうから、ピエロらしき男が、バク宙を繰り返しながら、帯屋町を渡ってきた。こんなピエロがいるなんて――アミルくんも「ごく普通」と見られるだろう。

 人がいるところに来ると、バク宙を止め、サーカスのチラシを配っている。

 そんな面倒な配り方せんでも――とは思いつつ、順一の前に止まった。

 身長は順一ぐらい、一七三センチぐらいだ。紅白の緩い服と、同じく紅白の帽子を被っている。顔はまさにピエロ。白黒赤緑、色々な色で入り交じっている、サイケなピエロだ。

「ハーイ! そこの使いパシリをさせられてるような男性! 此処のサーカスに来て、鬱憤を晴らさないかい?」

 どうしてパシらされてるとわかるんだ。そんなオーラを発しているのか、俺は。

「友達も連れて、観に来てねー!」

 チラシを渡されると、そのままピエロはバク宙して消えていった。

 それにしても、帯屋町は七百メートルあるがやで? ちなみに幅は七メートルぐらいだ。幅はともかく、七百メートル近くバク転してきたがぁか? 中央公園前でバク転してたら、それだけで良いだろうに。それとも、よっぽど暇を持ち合わせたか?

 よっぽど奇芸に長けているものか、よっぽどのアホか。

 俺は後者に五千点。――って、昔のクイズ番組でもあるまいし。でか、答が「奇術に長けたアホ」だったら、俺は暴れるぞ。

「えっと……。『来る十二月二十三日! 我々の曲芸をお楽しみに!』か……」と、文面は書かれていた。そこには、「サーカス団」とだけ書かれ。名前はついていないのか? まあ、そんなに目立つ名前を付けても、知られていなければ、ないのと同じだ。

 シャッター通りが過ぎる中、暫く歩くと、中央公園に出た。

 中央公園の路面電車側では、トンテンカンテンと、舞台を急ピッチで作っていた。

 中央公園は、直径六十メートルほどの、円形公演だ。帯屋町だが、アーケードの切れ目にある。何か催し物があれば、ステージを作って、会場とする場合もある。

 何もないときは、ベンチや、屋根のついた座る場所などもあって、老人の憩いの場となっている。

 大丸は、中央公園から一分に足らずに近く歩いたところにあった。

 かの有名な大丸焼きは、結局は太鼓饅で、中にあんこが詰まっている、非常に美味しい食べ物だ。順一は、白あんが好きだった。

 熱々を食べても美味しいが、トースターで、軽く炙ったり、冷えたところを暖めるためにトースターを使うと、皮がぱりっとなって、さらに美味しい。

 すぐ近くに、都まんを売っているところもある。

 大丸焼きと都まんを買うと、片手が塞がった。

 さて、四コママンガでも買って帰るか。それとも、小説のほうが良いかな? それならうちにあるし……。でも、アミルくんがなにを好きだかわからないので、適当に買っていく。Hな本は……。買って帰ると、光子に千切り、レイに八つ裂きにされる。もちろん、俺がだ。アミルくんがなにを好きだかわからないけど、Hな本は我慢して貰おう。

 第一、昼間から読む本でもないし。

 早く帰ろう。そういや、十二月二十三日って……明日か。執事の事件の間の水垢離のおかげで、日数の感覚が消え失せていた。

 まあ、上客やし、頑張って引き留めよう。連れて行ってもえいかな?


 

第3章 いざゆかん、サーカスへ!

「はいはい、帰ってきましたよう」

 順一は、持ち帰ったものを、テーブルの上に置いた。

 光子が飛び突いて、じっくりと品定めをする。

 大丸焼きを見つけると、すぐさま取って、オーブン・トースターに入れる。

 ほどよい焼き具合を確かめるため、また、暖をとるため、光子がトースターの前から離れない。

 妖怪「小豆洗い」だったな――順一は思い出した。今の称号は。次の呼び名は「妖怪、子泣き爺、いや、子泣き婆」だ! どうだ、メジャーどころだぞ!

 勿論、トースターの前から岩石のように、どっしりと離れないことから来ている。

 少々安直ではないか、順一よ。

「俺も、妖怪については、そんなに詳しくないっ! だけど、あれは妖怪の仕業ではないか!」

 順一は、立ち上がって叫んだ。指は光子を差している。

 し――ん……。動いているのは、順一と子泣き婆の二人だった。

 息もつかせぬ緊張が張り詰める。

 均衡を破ったものは、トースターが、ちーんと鳴る音だった。

 いったい、何分が経ったのだろうか、俺が口を滑らした頃から。

 五秒前にも、季節が過ぎて、春になっているんじゃないか、いやいや、問題は、そこではなかった。

「ほほう、今度は子泣き婆と宣うのか」

 光子は、近くにあった褞袍を被ると、背を屈めて、小さな茶色のバスケットに山となった大丸焼きを取り出す。

 背を屈めたまま、しっとり、しっとり歩いてくる。

「ど、どうしたんだ、光子? 笑顔に殺気が含まれているよ?」

 及び腰の順一に、顔を上げずに、光子が「熱々とほかほか、どっちが良い?」

 逃げれる選択肢、ないですやん、光子様。

「じゃあ、ほかほかで」「さよか」

 ほかほかの小豆の大丸焼きを半分に折って、ゆらりと近づいてきた。

「歯ぁ食い縛れ」「はい?」

 まだ湯気の残っている大丸焼きの内部を、一気に顔の両面に押しつけた。

「あちゃちゃちゃちゃちゃ!」アイロンか、スチームを一気に当てられたかのように熱が痛む。

 光子が、半分に割った熱々の大丸焼きを、遠慮なく順一の口に突っ込んでくる。

「あふひ、あふひ」そのまま何とか噛み砕いて、事なきを得た。

「ようし、喰ったようだな。これでクレームは来ないはず」

 どこからのクレームなんだ。第一、お前に来るのではないか、クレームとやらは。

「最近は、食べ物関係が五月蠅い。皆、お菓子は零さずに食うのであるぞ」と、バスケットの中の大丸焼きを配っていく。

「あ、アミルさんは、気をつけて下さい。熱いから。ボスみたいになりますよ。

 アミルくんは、はふはふ言いながら、大丸焼きを食べている。他のメンバーは、それぞれ色々(順一が)買ってきたお菓子を、好きに食っている。

 でも、まあ、これも二十万円のためだ! 我慢しよう。

 苦しかったってー♪ 哀しくったってー♪ 順一は、ほんの少しトリップして、バレーボールをしていた。

「どうしたんデスか。順一さん?」

「ボスは一人芝居が上手なの」

 ひとーりじょぉーずと呼ばないで♪

 順一は、さらにトリップすると、中島みゆきの歌の世界に飛び込んでいった。

 アミルくんは、色々と考え事をするように、窓の外を眺めた。

 高知の街並みしか見えない。つまらん。

 よく通る路面電車も、最初こそ感動したものの、今ではバスと変わりがない風景に見える。

 そういえば、高知に走っているバスは、ほぼ全て、他の県で使えなくなったポンコツを安く譲って貰っているそうだ。とくに山間を通る車は、派手に音を立てる。

 自然は良いんだが……、上手く消化仕切れていないのか、ほぼ、何の活気も燃え立てることもなく、たまに「高知の森林を知ろう!」なんていう企画を役所が立てて、小学生と一緒に伐採体験を行っている役場のおっさんをテレビで映すだけだ。

 まったく……。森林面積は、日本一番の割合であるというのに……。

 俺が憂いても、どうにもならがない。「国民休暇県」というキャッチ・コピーも、昔は使われていた。

 その影で、ドンパチは絶えていない。

 室戸方面は、さっぱり商売が成り行かなくなって、今は須崎など、県の西部で頑張っているらしい。まあ、関係ないことは良いことだ。

 しかし、順一には関係ないわけはない。

 まず、中央公園だが、昭和にはなかった交番が新設された。人間で言うと、ツッパリのヤンキーの兄ちゃんのように、髪部分が前に突き出している。いわゆるリーゼント・スタイルだ。

 もし、不良に対抗してそんな形にしたんなら、逆効果とも取れるわな。

 順一は、珈琲を飲みながら、難しい表情で四コママンガを読んでいるアミルくんを見遣った。

 お金は光子が早速「預かっておきますねぇ~」と手を出し、部屋の何処かに隠しているという。

 金の亡者め。俺がどれだけ金に困っているか、貧窮しているのか分からんのか?

 ミツエ婆さんが、光子と俺を交互に見て、「どっちもどっちじゃの」と呟いて、都まんを食べている。大丸焼きは、もう跡形もない。

 それにしても、だ。「どっちもどっち」とは、どういう意味だ?

 そこの、恩知らずの妖怪と一緒にして欲しゅうはないにゃあ。

「んっ?」光子が塩ケンピを食べる手を止めた。

「どうしたんデス?」

 光子は辺りを見渡すと、「なにか、殺気を感じた」とレイの疑問に答えた。

「ま、気のせいか。まさか、私たちがボスを使いっパシりにしたことを怒って、それが殺気になったのかも知れないけど……。そんなことないわよね、ボ・ス?」

 耳聡い上に、人を食ったような口利き。――ひょっとして、本当に食べたのか?

「あーあ、お菓子も飽きちゃった。肉が食べたいなー!」光子がお茶を飲みながら、無茶なことをほざいている。矛盾を感じろよ、矛盾を。

 だいたい、TPOってもんが、なってないんだよなあ。

「あ、カレーの良い匂いがする! 今日もカレーにしぃよっと!」

 下の階のカレー屋が、ほぼ毎日、良い匂いをさせる。

「そうだな、カレーにするか」順一が折れた。

「ね? アミルさんも、行きましょうか!」

 妖怪人間が可愛く見えてくる。

「なんやて」

 光子が返事してくる。なんか、ゆーたっけ?

 一同は既に、部屋の外に出て行った。

「んで、アミルくんは何が好きなの? やっぱり、ミリタリー関係?」

 ……。タンドリー・チキンを貪る妖怪〝チキンババア〟は、単刀直入に訊ねた。が、返事がない。

 暫く置いて「そういうことになるかな……」と、ぼそりと呟く。

 このままじゃ、「不器用ですから」とも言いかねん。高倉某になる日も近い。

「アミルさんは、サーカス、観に行きマスか? なんか、思い出すカモ」

 サーカスの話をしたとたん、「サーカス、サーカス、サーカス……」と、唸り始めた。なにか、サーカスへの接点でもあるのか?

 こう考えてはどうだ? アミルくんは、サーカスから逃げ出してきた。

 まあ、どんなショーでミリタリーの格好が必要なのかは知らないが、とにかく、逃げ出してきた。勿論、当座のカネは必要になる。そこで、サーカスのカネを、ちょろまかしてきたとか?

 でも、こんなにデカかったら、何をしても見つかりそうなもんだが。

 ――いや待て。なにか「サーカスの用事」があって、こんな格好しているのか?

「うちの爺さんはねぇ、ルパング島まで行ったのよ」

 この場合、ミツエ婆さんはスルーさせて貰おう。

 アミルくんが来た理由は何だ? なぜ記憶を失っている? 時折ちらっと垣間見せる、真剣さと不器用さのギャップは、どういうことだ?

「おっと」と、アミルくんがカレー用のスプーンを取り落とす。手が震えているらしい。店主が慌てて新しいスプーンと渡す。

 病気で担ぎ出された? それなら、今は病院だろう。

 それと、すっかり忘れていたが、「執事」の件には、なにか、進んだことがあるのか? 捜査が進展したら、目撃者の自分たちの出番も来る。

 まあ、昨日の今日の話だ。なかなか分からん。

 順一たちは、食い終わると、さっさと上の部屋に戻っていった。

「なんなんだろう、なあ」順一は、ぽそりと疑問を口にした。

「どうして、こんなことになっちゃったんだろう」返事がないので、順一は独り言を呟いている。

「サーカス、パックステージ・パス、執事――」「え!」

 突然、アミルくんが反応する。何かと見れば、光子と談笑しているではないか。

「そーなのー、やっぱり、ライフルよね。でも、拳銃でも良いから、撃ってみたいなあ……」

 実弾を撃ちたいなら、ハワイまで泳いでいけ! そのほうが安上がりだ。鮫を喰いながら、妖怪パワーで乗り切れ! 全く、ようやく当たりがつきかけたというのに……。

 ああっ、苛つくっ!

「撃ちたい人がいるの」

 銃弾属性の〝ミリタリー・ババア〟――これは絶対、口外してはいけない。

 このヤクザとの繋がりが近い高知県。どこで拳銃を手に入れるか分からない。

 俺がこの部屋で密室になって殺される日も、近いかも知れん。

 ――密室? そうだ。執事のときも、密室だった。あの謎も、どうなっているのだろうか……。

 まあ、考え続けても、わからんもんはわからん。順一はストレートに訊ねた。

「アミルくんよ、寝るところは、あるのかね?」

 寝場所があれば、すぐに足がつく可能性がある。

「それが……気がついたら、ここにいたんですよねぇ……」

『いたんですよね』って。彼氏の家の前で「来ちゃった」という女の子じゃあるまいし。

「古ーい」「デモ、積極的でいいデス」「そこで爺さんは、賭に出たんじゃあ……」

 ミツエ婆さんの話を繋いでいくと面白い話になりそうだが、ここでは放置しておこう。

「うーん、寝る場所がわかったら、早いんだけど、なあ……」

 アミルくんも、なんとか思い出そうとしている。

 光子は四コマ漫画を読み、レイは洗い物をしていて、ミツエ婆さんはまだ昔語りをしている。

 なんだ、このバラバラな感じは!

「光子、レイ、ミツエ婆さん! なんとか、一致団結を――」

「おおた綾乃は、なかなか面白いわね。要チェックよ」

「洗い物、しなくていいんデスか?」

「そこで、塹壕を掘ってな……」

 うーん。まいっちんぐ。

 って、そんなことは、どうでもいい! アミルくんからお金を受け取ってるんだ! 何か、アドバイスをしなければっ!

「アミルくん、さっぱり思い出せないと言ったね?」

「はあ……」

「じゃあ、ピエロなんて、どうかなあ?」

「うーん……」

「『ピエロ』って知ってるかい?」

 アミルくんは、頭を抱えて、「あのときは、あいつらが客を……」と、独り言を始めた。

 いかん。これは『ミツエ婆シンドローム」だ! このままでは、訳が分からなくなってしまう!

「光子! 音声を録音できるものはないか!」

「はいはい、レコーダーね。あるわよ」

「レイ! 洗い物が終わったら、そこら辺のノートに、サーカスについて、思いつくだけのことを書き出せ!」

「ハーイ」

「ミツエ婆さんは……室戸署に何か情報はないか、確認を取ってくれ!」

「はっ、あては何を……。はいはい、分かりましたよ」

 警察に一番精通しているのは、ミツエ婆さんだ。何しろ、息子も、その嫁も、警察関係者だからだ。警察の「感覚」を分かっている。

 それでは、いざ、解決へ!

 光子が、何処からかICレコーダーを取り出してきた。

 レイが必死な表情を浮かべて、ノートに向かっている。

 ミツエ婆さんは、高岡警部補の名刺を使って、ケイタイで訊ねていた。

 順一は、手持ちぶさたに四コマのマンガを手に取った。

 そこで、ポンと閃いた。

「レイ、終わったか?」

「マア……コレぐらいデショウ」

「ついでに、それらの絵を描いてくれ!」

 レイが「ハイ!」と、大きな声で応えた。絵に自信があるがやろうか?

 光子に、「濃いめの珈琲を淹れてくれ! 人数分な! それと、隠してある二十万円の束、指紋がつかないように、ビニールの手袋でもして、財布ごと持ってきてくれ!」

 光子は、「どーするんです、ボス?」と呟く。

「まあ、いざというときのためだ」とだけ答え、光子を急かした。

 ICレコーダーを置いて、スイッチを入れる。

「はい、これから、あなたへの質問を始めます。私は潮風順一。アドバイザーです。あなたは、名乗れますか?」

「……いえ、無理です」

 そりゃそうだよなあ、名乗れるぐらいだったら、記憶喪失で相談に来ないよなあ。

 ん、待てよ? 地元の人間なら分かる場所だが、まるで来たことのない場所で、いきなり「アドバイザー」なんて訪ねるか? それに、高知は初めてか?

「あなたがここに来るのは、初めてですか?」

「……いえ、分かりません」

「じゃあ、どうして、このアドバイザーの場所を訪ねられたのですか?」

「目を開けたら、此処だったんです」

 うーん……。やっぱ、催眠術師か警察でもないと、いかんかなあ?

 そんなとき、ミツエ婆さんが電話の喋り口を押さえて、「順一はん、来てちや。重大な話があると」

 なんなんだろう?

「順一さん、分かりましたよ!」高岡警部補が興奮している。

「骨でも繋ぎ合わされましたか」順一は冷静に語った。と、声のトーンが一気に下がる。拙いことを訊いたか?

「骨は……ほぼ、しっちゃかめっちゃかで、時間が掛かります。凄い爆破だったんですね。ただ、血で分かりました!」

 指紋かDNAでも登録されていたか?

「あの執事は……」

「どうしたんですか?」

「男です!」

 すぐに電話を切りたくなった。決して本人の前では言えないが、筋金入りのアホか、こやつは。

 こちらの返事がないと、「じょ、冗談ですよ、冗談!」と、必死に取り繕う。

「分かったことを教えて下さい」順一は普通の調子で語る。

「他にも分かりました!」

「何がです?」

「執事です!」

 分かっちゅう。――何の用で、俺に替わったがや?

 再び、焦りを隠し切れない調子で「違うんです。本当に『執事』なんです!」と、勝手に喋っていた。

「はあ……一体全体、どうしたんですか? 執事とは、伝えて置いたはずですが」

 順一は、問いかけていた途中に、発言の真意に気付いた。

「ひょっとして、『本当の』執事だったんですか?」

 順一は、心の何処かで、執事は適当な名称だったのかも知れないと、疑っていた。

「それが、指紋もDNAも、『全国執事協会』の特別顧問である、大田原幸治郎と一致したんです! 本当です!」

 順一は近くのメモ用紙に、情報を書き込むことにした、が、「ボス、今はIT化のご時世ですよ!」と、光子がノートパソコンを渡した。

 順一はアミルくんのいるテーブルに着いた。ノートパソコンを開いて、立ち上げる。一応、仕事柄、最新のパソコンを使っている。

「情報を、メールで送りましょうか?」

 それが早い。名刺には、メアドも載せて置いた。現代世界の常識だ。

「それじゃ、内容と、『全国執事協会』とやらのURLを載せて下さい」

 電話の向こう側で、がさがさと、なにかしている音がした。

「それじゃ、送ったものを見てください」

 高岡警部補の鼻息も荒い。

 ぴろん♪ と音がして、メールが届いた。

 メールには、なにやらコムツカシイ文章が載っている。

 こりゃあ、高岡警部補、頑張ったな、と、ほんのさっき馬鹿警官扱いしていたことを心で詫びた。

 添付ファイルに、指紋の文様と、執事の、いや、大田原の写真が付いていた。

「どこで大田原の顔を、こんなに大きく貼り付けているんです?」

「いえ、顔が分かったので、嬉しくて引き延ばして仕舞いました!」

 やっぱり、『雀百まで』か。まあいい。朗報には違いがない。

「ところで、この協会、現在も活動しているんですか?」

「どうやら、最終更新日が二年前なんですよね……」

 これは、埋葬サイトのようなもんか……。

「でも、本当の『執事』だったことは、お分かり頂けたでしょう」

 順一は、館をバックにして、色々と項目が書かれているところで、「役員紹介」の箇所をクリックしてみた。

 ぱっと、何人もの顔が出てくる。

 執事たるもの、お客様の信用を失うわけにはいけない。そこで、指紋やDNAが登録されているというわけだ。

 指紋は、勿論、犯罪者リストからではなく、此処の情報網から漏れたのか。

 ……なんか、腑に落ちんな。

 一応の礼を済ますと、電話を切った。

 さあ、ここからが本番。パソコンは、ネットに繋いだまま、置いておこう。

「アミルくん、今から、幾つかの絵を見せる。それに対して、何でもいいんで、感じたことを教えてくれ。――レイ」

「ハイ、言われた通り、書きマシタよ」

 レイから順一にノートが渡り、順一は目を通した。

「レイ」「ハイ?」

 レイが怪訝そうに訊ねて来ると、順一は言い放った。

「誰が前衛美術を描けと言った」

「エェー? 遊園地デショウ?」

 そこから間違っていたか。これは、指差し注意しなければならないだろう。

「いいか、レイ、サーカスだ。サ・ア・カ・ス。誰が、『観覧車を踏み潰す巨人』を掻けと言った」

 レイは、差された絵を見て「ソレは、玉乗りする道化師デスよ」と、何のことやらと、「珈琲、淹れてキマス」と、そのまま珈琲を淹れてきて、ちょこんと順一の横に座った。

 まったく、もう……。「絵心がない」と先に申告しろよ、先に。

「じゃあ、これは?」順一は風船の束、見ようによっちゃ人間の頭の集まりのような絵を見せた。

「それは……なんというか……」妙に、アミルくんが戸惑い出した。

「何でも良いんだ。思いついたことを素直に言ってくれれば、いいから」

 アミルくんは、もう一回じっくり絵を見ると、「あの……『ライフル』です」

「は?」順一は戸惑った。レイも、何を言っていいか戸惑っている。

 風船でライフル? それは……狙ったものを撃ち落とすということなのか?

「狙って撃つのですか?」順一は、もっと情報を引き出そうとした。

「……かも知れません……」アミルくんは頭を抱えた。

「ま、それじゃ、今晩サーカスがあるから、一緒に行こうか」

 誘った瞬間、アミルくんの目つきが変わった。

「だ、大丈夫?」

 順一は思わず声を掛ける。アミルくんの表情が、一瞬にして獰猛な目つきに変わっていた。

 アミルくんはすぐに顔を直し、「そうですね……。一度、観るのが良いかも知れません。料金は、大丈夫なのですか?」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ。バックステージ・パスまで来ているんだから。それじゃ、今夜、行こうか」

 あえて二十万円のことは伏せた。アミルくん、どうやらお金の観念がないらしい。財布の件を何も話さない。もう、過ぎた過去のような感じだ。

「はあ……」

 アミルくんは、イマイチ乗り気ではなかった。

「じゃ、アミルくんは、事務所で寛いでて」と、順一は鍵を預けた。

 いざ行かん、サーカスへ!


 

第4章 サーカス前半

 順一を始めとする、光子、太郎丸、レイ、ミツエ婆さんは、夕方四時に、中央公園へと向かった。開演の一時間前だ。

 全員、寒さに対する完全防備で、レイも、通販で買ったのか、「暖かいゴスロリ」を着ている。

 中央公園に近づくに従って、人が増えてきた。これは、ひょっとすると――。

「はい、皆さん、順番にお願いします!」

 何者かが拡声器で呼びかけていた。周囲には人だかりができており、もっこもこの色々な原色をしたファーで全身を包んだ呼び子が、人を動かそうと必死に叫んでいる。

 あちゃあ、混んじゅうかあ……。

 でもっ! 俺らには、此奴がついてる!

「はいはい、此方へ。あ、其処の人、順番にお願いします!」白いドーランで顔を塗っており、表情はわからないが、声から必死さは伝わる。

 順一は、「たらららったらー!」と小声で呟くと、「バックステージ・パスぅ!」と、堂々と取り出す。

「あ、招待客の方でしたか。それなら、従いてきてください!」

 全身に、原色、色取り取りのファーを纏い、いうなら、ピエロ入門のような格好をして拡声器を持った男は「済みません、退いてくださーい!」と、群がる観客を掻き分けて、サーカス小屋の入口へ入っていった。

 サーカス小屋は、中央公園を限界まで使っており、高さは三十メートルほどあった。頂点には、大型の星の飾りがついている。夕日に照らされて、星はもとより、テント全体が血に染まっているように見えた。

 テントにも星の文様がちりばめられ、まるで誕生日のお祝いのようだった。ちらと交番を見遣ると、お巡りさんも、交通整理をしている。

 サーカス小屋に入ると、まず最初に、思わず噎せ返りそうな匂いが充満していた。ストロベリー、パイン、マンゴー……あらゆる果物の匂いが熱風に乗って、これでもかと言わんばかりに鼻孔にぐいぐい迫ってくる。どんな香料を使っているのだろうか?

 太郎丸は、「ぶにゃにゃ~」と、気持ちよさそうな声で、光子の腕の仲でごろごろ喉を鳴らしている。ひょっとして、マタタビの成分も含まれているのだろうか?

 座席は、一番遠くのステージを扇子の付け根のようにして、放射状に広がっている。お客は、ぽつぽつ入っている。二階席まである。でも、あの会場前の人々が、雪崩れ込んでくるんだろうなあ……。

 会場の、一番前の席に通された。席自体は他の席とは変わっておらず、野球場のように椅子がついている。だが、前の席は、本当に砂かぶりの席であった。

「ちょっと、訊きたいんだけど」光子が順一に後ろから問いかけた。

「なんだ? 良い匂いやろ?」順一は軽い感じで答えた。

「違う違う。バックステージ・パスって、ここまで優遇されるっけ?」

 順一は、うーんと考えると、「ま、えいがやないろうか? 高知でいやあ、〝お客〟に呼ばれたようなもんやき。それに、この機を逃す手は、ないやろう?」

 順一は、「どうかなされましたか?」と、原色ファー、顔はドーランの呼び子に訊かれて、「いや、大丈夫です」と答えて、舞台の真ん前の右側に通された。

「ところで」順一は、南国の鳥のようなド派手な呼び子に訊ねた。

「なんでしょうか?」呼び子は、帰ろうとしていたところを止められた。

「実際の入場料は幾らだい? えらく賑わってるけど」

「千五百円です。あ、招待客さんは、もちろん無料ですよ」

 今度こそ、呼び子は元の場所に帰っていった。

「どんなサーカスになるんデショウね☆」

 レイが、みんなに話しかけている。相当ワクワクしているようだ。

 お客がどんどん入ってくる。もう、開演時間に近い。

 席がだいたい満席になると、目の前のステージに、ひょこひょこと一人のピエロが上手から現れた。

 さっきの原色、極楽鳥ピエロだ。客案内は終わったのだろうか?

 小さな三十センチぐらいの直径の球状のものを左手に、花束を右手に持っていた。

 ステージの中央に辿り着くと、花を置き、玉を置いて、玉に乗って、静止する。

 これだけでも、かなりな筋力とバランス感覚が要るだろうに、ピエロは下に置いてある花束を、玉に乗ったまま取ろうとした。

 お客が、固唾を呑んで見守っているのが、雰囲気で分かる。

 ピエロは片足を上げ、柔軟な体を強調するように、若しくはバランスを取るように、体を横にググッと曲げる。

 花にもう少しで手がかか掛かる、というときに、バランスを崩して転げ落ちそうになる。

 会場が一瞬、ざわざわとざわめく。ピエロを心配しているのだろう。

 ピエロは、次のチャレンジと、ググッと曲げると、花束にもうすぐ手が届くようになった。

 もう少し、もう少し――緊迫した空気の中、なんとか花束に手が届きそうになった。

 取れる、取れる! 会場が応援している中、下手から女王様の格好をした女が現れた。

 ピエロが無理して取ろうとしている花束を屈んで取ると、ピエロの頭をはたいた。

 すると、ピエロの頭から花束がにょきにょき生えてきて、ピエロは玉の上で急速に回転を始めた。

 花束の花部分は、すいすいと頭から伸びてきて、一気に噴水のように溢れ出した。

 二階席にまで届いているのだろうか。ピエロの花は、止め処もなく、溢れ出している。

 花で煙幕を張るようになって、このまま花に埋もれて死んでしまうのではないだろうかと思っていると、花は手に触れるなり、匂いを発して溶けていった。

 気がつくと、サーカスの会場には、何十人もの人間が溢れていた。

「サーカス団へようこそ! 今夜は楽しんでいって下さいねー!」

 サーカス団は、一瞬姿を見せると、再び、一瞬にして消えていった。

「サーカスって、良いデスね!」レイがみんなを見ると、「うっしゃっしゃっしゃ!」と、ミツエ婆さんが一人で笑っていた。

 それから先は、テレビでよく見る――とは言っても、テレビでサーカスの中継なんぞ、滅多にやらんが――バク宙に、チャイナリング、舞い散るトランプや、トランプから鳩が出るなんて演目をやっていた。

 司会進行役は、全てあのピエロがやるらしい。

「うっしゃっしゃっしゃ!」

 戦後で、笑う物もそんなになかったと見えるミツエ婆さんは、笑いが止まらないようだ。

 レイも「ファンタスティック!」と、はしゃいでいる。

 光子は、「あれぐらいだったら、私でもできるわ」と、ぼそっと呟いている。

 そんな感じだったか、三十分ぐらい続いた後、「さあ、皆さんのお財布を拝借したいと存じます! どなたか、千円札を頂けないでしょうか?」

 すると、真っ先に「はい」と手を上げたのは――光子だった。

 ステージ上のピエロは、「これはこれは」と揉み手をしながらやって来た。

「お客様の千円札を、使わせていただいても良いということですね?」

 ピエロは、光子の目をじっと見る。

「御託を並べるんやったら、やめるで」

 光子の声は、ピエロについている館内放送のマイクを通じて、会場中に響き渡る。

「さ、では、お気持ちが変わらないうちに――」

 光子は、千円札を取り出した。

「それでは、この千円札を、水に浸けて、焼いて、元の千円札に返してから、一万円にしてお返ししましょう」

 会場中がざわめいた。

 あのケチな光子が――というざわめきではない。

 本当にできるのか、無事に持ち主の手に帰るのか――そういうざわめきであった。

「それでは――はいっ!」

 舞台上の水槽に一旦、千円札を浸けると、今度はジッポーを取り出して、炎を点ける。さしもの濡れた千円札も、ジッポーの火力の前には敵わない。

 千円札は、端っこから燃えていった。

 灰も煤も何もなくなった状態で、ピエロは手を炎に翳した。

「それでは、お客様――約束の一万円札をお渡しします」と、炎の中から千円札を取り出した。

「おおおー!」どよめく観客。でも、千円じゃない?

 光子に渡す瞬間、千円札は一万円札へと早変わりしていた。

 うんうんと納得して財布に戻す。

「それでは、一万円札をお返しします、と、そこで――」

 光子は財布の中身を見た。一万円札が千円札に変わっていた。

「ちっ、やられたか」と、万引き犯をみすみす取り逃がした万引きGメンのような顔をしていた。

 一万円札は跡形もなく、千円札だけになっていた。

 ピエロは「千円札から一万円札に、それから千円札にー!」と、光子の方向を見ながら全館客の歓声を巻き上げさせた。

 それからちょっと、ピエロは驚いた表情をしたかのように見えたが、「さて、次のショーに移りましょう」と、おどけて見せた。

 ステージの上には、リラとサラという、男女二人組の可愛い小学生ぐらいの子供が、色々な体術をこなしている。リラが男。サラが女だ。

 二人はこのサーカスでは重要な人間なのか。それとも、それも設定か、ピエロに無理難題を言いつけて、火の輪潜りなどをやらしている。

 レイが、ふと光子に訊いていた。

「どうして、あのピエロは光子さんから離れた後、驚いた顔をしたんですか?」

 レイも気付いたようだ。確かに、光子にお金を渡してステージに戻った後、妙な顔をしていた。

「それはね」

 光子は、ポケットからグリップにぐいと挟まれた札束を、ちらりと見せた。

「……どうしたんだ、それ?」

 いまいち、光子の行為に得心がいかない順一は、さらに声を上げた。

 周りに気付かれていることはない。今、ピエロはリラとサラの、吉本新喜劇ばりの寸劇をしている。笑いで声がほとんど打ち消される。

 光子は、にまっといやらしい目を浮かべると、「ちょっとね、私流の秘技『マジック返し』かしら」

「どういう意味デスか?」

 レイの問いに、光子は札を隠しながら、種明かしをした。

「マジックの基本よ。あのピエロの姿をしたマジシャンはね、私にお札を持ち帰るときに緊張していたのよ」

 ん? なんか、嫌な結果に繋がりそうな……。

「そこで、どうせこんなドサ回りサーカス、テレビとやってるのと違って、タネも浅い。当然、千円札なんて変えたところで、製造番号を控えることもしてないから、変え放題なわけ。でも、一万円札を千円札に軽い技で変化させるとき、このときばかりは緊張する。そこで、お金をちょっとスってみたのよ。プロだったら、そこですぐ気がついて、すぐに取り返すだろうけど、あのピエロは違った。気付いた後には、もう、どうしようもなかった、ってわけ」

 ステージ上では、リラとサラが、ピエロに借金の取り立てをしていた。

 ピエロは、「お金がないんですー」と、ぴょんぴょん跳んで、小銭の音すらしないことを証明している。

 もしお金があってたら別パターンになっていたのなら、しかも、このお金のない演技がアドリブなら、マジックの腕はともかく、演技力だけはピカイチだなあと、順一は心の底から思った。

 続いては、空中ブランコだった。

 ステージ上の左右は離れていて、十五メートルだった。機材を入れると、それより五~六メートルほど縮まる。

 この距離で空中ブランコか……。ぎりぎりやなあ……。

 そんなこんなで始まった空中サーカスだったが、狭いなりに、なかなか見事にこなしていた。

 高さも十五メートル――下と上の客のどちらからも、見えやすい距離であった。だが、それだけだった。

 まあ、千五百円だからこんなもんか? と思っていると、度肝を抜かされることが起こった。

 なんと、或る一人の、中国風の衣装を着た女が跳んだとき、向こう側に着いて帰ってくると、体のパーツが、右手が、なくなっていた。

 次に跳ぶときは、左手がなくなっていた。

 流石に此処まで来ると、会場もざわざわしてくる。

 手がない! 次には両足がない! 頭と体だけになった中国女性は、弄ぶかのように、サーカス団員は放っていく。

 しかも――これは近づいてみないと分からないが、中国女性の顔は、笑っていた。

 その上、曲がった足を四本付けて、妖怪火車のように、足を自由自在に曲げていたときもあった。つまり、手のところに足がついているわけだ。

 その、奇妙たるか滑稽たるか、昔のサーカスの「見せ物小屋」というに足る迫力があった。

 もちろん、そこらの客はざわざわを通り越して、子供なんてポカーンと見ていた。

 何が行われているのか、自分が受け入れられないのである。

 分かった大人たちは、「止めろ!」とも言い出せないまま、まあ、幸せそうだからいいかと、適当な理由で自分自身を納得させたまま、空中サーカスを見ていた。

「いい加減、グロテスクにもほどがあるわぁ」光子が呟く。

「そうデスね……。うっぷ、気持ちが……」レイが目を逸らす。

「うっしゃっしゃっしゃ!」

 大笑いしているのは、会場中でも、ミツエ婆さんだけだった。

「いい加減にやめなさーい!」「そうよー! お客さんが引いてるわー!」

 下から拡声器で静止しているのは――リラとサラだった。

 まあ、的確な指摘ではあったのだが、お前らがやらしゆーんがやないのか?

 結局、足と手は正常な位置に戻り、中国女性は、全身のプロポーションを見せて、終わった。

「なんか、悪い夢を見ているようね……」

 カネがくちたら、今度は文句を言い出す。

 あのピエロが聞いたら、憤怒するのではないだろうか。

 結局、ブランコは終わった。

 次の演目は、ナイフ投げだった。

 舞台には、三畳分ぐらいの板に縛り付けられた、蝶ネクタイの男と、レオタードの女がいた。女は三十センチぐらいのナイフを数本、ジャグリングしながら持っている。男と女とは、五メートルは離れていた。

 男が大の字に縛られ、女が投げる役目だった。普通は、逆じゃないか?

 不可思議に思いながらも、観客はじっと見ていた。

「観客の皆さん! 投げてみたいと仰る方は、おられませんか?」

 冗談交じりに訊いているのだろうと、会場中は思っていたようだ。しかし――。

「ハイっ! 私がヤリます!」

 手の先を辿っていくと――レイだった。

「レイも、大丈夫なのか?」

「ハイ、国のほうではナカナカの腕前と言われマシた」

 何処だよ、〝国〟って。まだ訊いてないなあ。

「……とにかく、粗相のないようにな。それじゃあ」

「ナイフ~♪ ナイフ~♪」

 浮かれている。危険ではないか?

 レイは、受け取ったナイフを、同じようにジャグリングさせる。

 おお、様になってるじゃあないか!

 レイは、ナイフを投げる場所へと案内されていった。

 目隠しも何もナシ。それでも、ナイフを投げるのは、かなり恐い。

 レイは、ナイフを持ったまま、ウィンクを順一に放った。

「頑張れー!」光子が声を出す。

 頑張るのは、確かにレイだが、本当に『頑張る』のは、ナイフを受ける男側だ。

 さて、どうなるか――。

 順一は、ちょいちょいと手招きで、近くに控えていたピエロを呼ぶと、極彩色が寄ってきた。

「なんです?」ピエロは、なんとなしに警戒しているようだ。

「もし、当たっても、大丈夫なんですか?」順一は訊いた。

「ええ、なんとかなるでしょう」

〝なんとか〟って……本当にそうか?

「さあ、投げて貰いましょう!」

 レイは、神経を集中させて、投げ放った。

 ドン、ドン、ドン、ドン!

 ナイフは、的になった男の両脇と頭の両側に、それぞれ刺さっている。

「ヤッター!」

 レイが、喜びの声を上げた。

 会場も、やんややんやの喝采を上げる。

 しかし――。投げる役だった女が、男の側に駆け寄って、ナイフを一本さっと引き抜くと――的になっていた男の胸に、ぐっさりと突き刺した。

 そのまま、下がっていく。あの男は? 大丈夫なのか?

 疑問を持ちつつ、板は一旦、舞台を下がると、今度は男の裏に、先ほどの女が両手両足を縛られて、胸にナイフが深々と突き刺さった状態で、サラが板を押して、再び現れた。

 なんだ? という疑問はさておき、板は回転し、ナイフの柄の先の部分からは紅い液体が漏れ出した。

 顔に掛かる。順一は、嘗めてみた。

「これは……〝イチゴ・シロップ〟だ!」

 回る板は、あちこちにシロップを撒き掛けながら、サラの手を翳す通りに、一階席から二階席へ、その逆へと、会場中を飛び回った。

 座席から、きゃあきゃあと悲鳴が聞こえる。ケイタイに防水加工されていなかったら、メモリー消去の『命取り』となる場合がある。

 ――なんなんだ、いったい……。光子を見ると、イチゴ・シロップを嘗めながら、真剣な表情をしていた。

結構前に書いた作品です。若桜木先生には「『隠し玉』になる可能性がある」とは言われたものの、枚数足らずで仕方なかった作品です。感想頂けると幸いです。

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