医師と祈りの距離
おそらく、この幻想世界に生きる者たちにとって、医者ほどバカバカしい職業はないだろうと思われる。
切り傷ができれば丁寧に皮膚を縫い、腹がいたいと子供が泣きついてくれば、トントンと指を当てて打診してやる。
たまに大きな手術をすることもあったが、彼 ーー アシュレイ=コラールを頼ってくる者など、今はいないも同然だった。
「はあ・・・また今日も、神官たちのいる『神殿』の方に患者をとられてばっかりだったなあ・・・」
アシュレイはそう呟きながら、開けっぱなしにしていた路地に面する戸を閉める。
この目の前にある道を、医院という看板も気にすることなく通りすぎ、神殿目指してケガ人を運んでいく集団がいくつあったことやら・・・
近年とくに進歩が著しいが、何やら神官が呪文をつぶやいたり、祈ったりするだけで、傷が立ちどころにふさがってしまうという。
「奇跡」とか言うらしいが、そんな馬鹿な話があってたまるものか。
アシュレイは、「お前さんとこなら二週間もかかった切り傷が、ちょっと金はかさむが神殿なら二分で治っちまったよ!」と言ってきた中年女性を思い出していた。
(まったくもう・・・七針も縫うケガが、二分で治るなんておかしいと思わないのかな)
もうすぐ30を迎えようという歳の彼だが、幼いころからそんな思いばかりが胸にあったのだ。
よく遊びに通わせてくれた、小ぢんまりとした田舎医の庭で、彼は育った。
まだその頃は医者が重宝され、子供などがちょっとしたことで担ぎ込まれて微笑み合う、いい時代だったと思っている。
そして、その頃に彼は、慕っていた”先生”から教えられたのだ。
「いいかい? アシュレイ。このところ神官たちが、『奇跡』といって多くの病気や傷を、治したりしている。・・・でも、あれは時に恐ろしく、危険なものなんだ。呪文をとなえる本人たちにすら、その治癒のメカニズムを理解しているものはいない。よく分からないものを当たり前のように使い、その上に文化や生活を築き上げると、もしその『奇跡』が瓦解したとき、どれほどの足場の崩壊が皆に迫るか知れたものではない」
それを聞いたアシュレイは、うまく内容を理解することはできなかった。
しかし、いつも温かい笑みを浮かべている先生のまっすぐな目が、その瞬間は本当に恐ろしいものを見つめていることを悟ったのだった。
「先生・・・今のところは、『神殿』の方に問題は起きていないようだよ・・・。
いや、そうじゃないのかも・・・。”奇跡” に問題がないだけで、神殿のほうは徐々に権力がーー人の心に傲りが生まれつつあるのかもしれない」
すでに他界している師に、アシュレイはそんな気持ちを伝えていた。
世の人びとの心配をするのが、『仁術』といわれた、「医術」を扱う青年の役割ではある。
しかし、そのアシュレイには、そんなことと共に、もう一つ目をそらせない現実もつきつけられていたのだ。
「ああ・・・。今日も収入ゼロだったのか・・・。いくら貧乏人からは金を取らないといっても、これじゃあなあ・・・。また狩りにでも行って、動物の肉や魔物の角なんかを売らなくちゃ、ろくに食べられそうもないよ・・・」
彼は自宅のなか、医務室にあてた部屋から、窓の外をながめていた。
イスに腰かけ、気だるそうに窓枠にもたれていると、幾人かの知り合いが手をふって通りすぎていく。
「よっ、獄針 先生! こんど”狩り”に行くのはいつになるんだい? あんたのその腕は、医者なんかとしてより、よっぽど傭兵や冒険者にと、求められているんだぜ!?」
にこやかにそんなことを言われるが、アシュレイはやる気なさそうに首を動かすだけだった。
ただ、もしもの時に誰かを救うためにも、自分の体調管理はちゃんとしておかねばならない。
「今度は肉を売って、野菜の保存食もたっぷり作っておくかな・・・」
そんなことをボヤきながら、翌日の獲物について思案を巡らせるのだった・・・。
戦いで生計を立てる者にとって、一番怖いのは”未知”の敵である。
相手が人ならば、まだ最悪のケースをいくつか考えることもできるだろう。
・・・しかし、対峙する敵がこと魔物であった場合、『剣に付着する粘膜毒』『仕込み針』『長い時間使用していない、本人すら忘れていたのではないかと思われる尻尾攻撃』など、思いもよらぬ外見から、命に関わるダメージを受けるものが多い。
ゆえに、彼らーー主に冒険者は、情報の収集に余念がない。
どこから今日の話を聞いてきたのかも知らないが、アシュレイが町の人間から「狩り」にと求められた獲物との対峙を、少なくない人びとが見守っていた。
「・・・おい、あんたは素人の見物人だろ。もっと下がってないと危ないぞ。こんな所までついてきて、巻き添えで死んだら笑いもんだろう」
周りを固めていた中でも、厳しい相貌をした男が、近くの町人に注意していた。
彼らはただ、獄針と呼ばれる男ーーアシュレイが、一撃の下に強敵を倒すのを見に来ただけである。
「しかし・・・『カトブレパス』なんて、誰が見つけて来たんだ? そんな危険な魔物が町のそばにいたなんて、聞いたこともなかったぜ」
「当たり前だよ。ヤツのたれ下がった重そうな頭を見ろ。『うつむく者』と呼ばれた、あの牛みたいな獣に見つめられた奴は、即座に絶命するだけだからな。たった一人、仲間を捨てて生きて帰った奴が、”ギルド”にかけ込んだらしい」
怯えがちにやじ馬が話しているが、傭兵などの、戦いに覚えがある者は、じっと押し黙ったままアシュレイを見つめている。
それが例えどんなモンスターであれ、『彼』は一撃でその地獄の門を開けるーー
《ヘル=ニードル》と呼ばれたアシュレイは、敵から数十メートルの位置に棒立ちになっていた。
(やれやれ・・・。また厄介な魔物を見つけてきたもんだな・・・)
どうしてこう、医者としてよりも、知識を殺すほうに使うほど喜ばれるのか・・・。
こめかみを掻きながら、彼は苦い表情で『長錐』を握っている。
そこは開けた森の奥地だ。
《カトブレパス》は、動きは遅いが感覚は恐ろしいほど鋭いという情報がある。
20メートル先で、動物が草をゆらしただけでそちらを見つめるーー
危険な相手だった。
即死させられなければ、まずこちらの負けは決まったようなものだろう。
「!」
「・・・動くぞ」
それは誰が言ったのか。
アシュレイよりさらに魔物から離れた位置にいる見物人たちは、ヒソヒソ声で話すことも瞬時にやめた。
ポーン。
何気ない動作である。
アシュレイは、足下に落ちていた小石を拾い、まばらな樹木をぬって、カトブレパスの左斜め前方に放った。
「何だ?」
そう見物人の一人がつぶやいた瞬間、青年は石を投げた反対側、右斜め前方への疾走を始める。
おい、見ろ! あれ!!
ーーうおっ、速い!!
まるで水面を踏むたびに銀鈴が鳴るような、しなやかな加速だった。
一見優雅に見えるその走りが、魔物の首が投石に振られて左から右に戻るより先に、異様な速度で右方45度からの死角線に入っていく。
「そうかーーゆっくりと物を放り、さほどの距離を投げなかったのは、すでにギリギリまで接敵していて、素早い動きで音が発生してしまうのを抑えるためーー」
「えっ? それって誰かが代わりに投げてやれば良かったんじゃね?」
「バカ! もしそれで、お前がカトブレパスに見られたら、死ぬんだぞ!?」
間抜けなやり取りがなされている間に、青年は目標へと到達していた。
音もなく、こわばりもなく、ただ右手に持った長錐を、カトブレパスの左耳から刺し込むーー
ビクン!!
やわらかく脳にまで到達した”針”が、何が起こったか魔物にも悟らせぬまま、その命を寸断していた。
「うおお!」
「これが獄針《ヘル=ニードル》か!!」
やんやと遠くから喝采をあげ、町人たちは拍手していた。
傭兵らはしきりに難しい顔をし、ううむ、と唸るように仲間うちで目配せしている。
噂以上の手練れだと、認めないわけにはいかなかった。
「まったく・・・。こいつの肉、食べれるのかな? あっ、そういえば、目玉はかなり高額なアイテムになるんだっけ」
やじ馬たちの声など聞こえることもなく、アシュレイは一人で魔物の解体を思案していた。
とりあえずは、このモンスターの素材を売れば食うには困らないだろう・・・。
商売敵である神官たちの「奇跡」「祈り」よりは遅れているが、自分の本職の『学術書』も買わなくては。
彼は、そんな風に、ちゃんと日々の研鑽を欠かすことのない、実直な青年でもあったのだ・・・。
その、数日後。
アシュレイは、何度目かの客の訪問を、黙殺しつづけていた。
「ーー なあ、先生よう! 俺たちの旅に、付き合ってくれよお! 東の果ての『ミセスヴィア砂漠』に、すげえモンスターがいるんだって」
「そうだよ! アシュレイ先生なら、数え切れないほど重傷を負わされた冒険者や、魔物ハンターの仇が討てるじゃないか!!」
気持ちのいい朝の陽光が射しているというのに、彼の医務室はぎゃんぎゃんと騒がしい。
猫の額よりはもう少し大きい、自前の庭で採れたハーブティーを飲みながら、青年は首をふっていた。
「ああ・・・やはりレモングラスは良い。香りはもちろん、風邪など感染症の予防にも役立つし、これで抗うつ作用のある『レモンバーム』までブレンドすれば・・・」
先生!!
そこで旅装の男たちは、机を叩きにかかった。
・・・もしかして、あんたはビビってるんじゃないですか!? 獄針なんて呼ばれてるけど、本当は格好つけてるだけでーー!
「おい」
そこで、四人いるパーティーのうちの、一番うしろに立っていた大剣男が、口をはさんで来た。
「言い過ぎだぞ、ジョーイ。アシュレイ医師が強敵を倒したのは、今回だけじゃないだろ。以前にも、町を襲おうとした、ミノタウルスの数倍の膂力をほこると言われる、『ゴルミノフ』を返り討ちにしてるんだ」
落ち着いた声の仲間に言われ、先ほど机をたたいた男は悔しそうに体を起こした。
ああ、そうだったなーー
もはや言葉もないというように、拳を握りしめている。
アシュレイには、心苦しい思いもあった。
・・・けれど、ほうっておけば害のない魔物のテリトリーを犯すのは人間が悪いだけだし、自分は医師としての本分を全うするためにも、いつ患者が担ぎ込まれてもいいようにーー
「でも確か、『ゴルミノフ』にやられた町の自警団は、先生のところじゃなく『神殿』へ担ぎ込まれたよな? 真っ先に」
「痛いところを突かないで!!」
うなだれながら青年は、カルテにつっ伏していた。
・・・うう・・・。
その通りである。
結局、どんなに自分が頑張っても、神官のうさん臭い「奇跡」が使えなくなる、という心配など無意味かもしれないのだ。
かつて己の”師”が予見した、危うい未来ーーそんなものは来ないかもしれない。
「・・・」
それでも青年は、どうしても、胸に暗い影を感じてしまうのだった。
人に嗤われるだけが、人生さ。
亡くなった時、そんな処世訓が生まれてしまうほど、それは小馬鹿にされまくる道だった。
「先生~。今日もジョンの奴が、喧嘩に負けてケガしちゃったよ~」
・・・はいはい。
あれから、短くない年月が過ぎ去っていった。
アシュレイは今も、貧乏人だけを、いや、もはや人ではなく、犬の怪我を今日も治している。
以前のように身体は活発に動かなくなったが、動物などの狩りは弓で行うようになっていた。
「お前は、医者としてはどこまでも愚鈍だが、戦いには天性の素質がある。前世は剣闘士でもやっていたんじゃないか」
いつだったか、師にそう笑われたことがあったが、あながち軽口とも言えない。
こと武器を扱う分野において、アシュレイが苦労したことはほとんどなかったのだ。
(戦場に生きれば、富も名誉も手に入れられる男だが・・・さして意味もない医療活動をしてるなんて、ただの間抜けだな)
そんな嘲りのなかで、アシュレイはさらなる衰えを、死期を迎えようとしていた・・・。
(おお、今日もよく晴れてるな。さてーー)
その頃の彼の仕事は、膨大な量の医学書、そして自分が身につけた知恵を、編纂していくことである。
幸いというべきか、不幸というべきか、時間は唸るほどあったので、コツコツとそれらをまとめていたらしい。
「ねえ先生~」「遊んでよ~」という子供たちのじゃれつきには困ることもあったが、彼は孤独ではあっても、寂しくない死を迎えられたようだった。
ーーそうなのだ。
彼はそのまま、何事もなく死んでしまったのである。
そして、話は当然、そこで終わらない。
アシュレイの命が”激変”するのは、不本意ながらも、『神殿』によってその生涯が燃え上がってしまうのは、それからのことだったのである・・・!
ことの始まりは、当時もっとも権威をほこっていた、神殿主『法王』シャルル=アランが、国の政治中枢である ”元老院” のモードスタン卿に働きかけたことによる。
野党政権にすぎなかったモード卿だが、じわじわと歳月をかけて、神殿の力を浸透させていった。
政治が宗教におびやかされる事態に、当時の”元老院”与党、アテナイ一派は激しく抵抗したが、何しろ彼らも神官の『祈り』などでお世話になっている者たちだ。
昔から、「人を踏みつけて成り上がった者は、晩年病や事故に苦しむか、親族に不幸が出る」とこの地では言われるように、政治の中枢にいる者でも、神殿をはねつけられる人間はいなかった。
・・・「彼」は、世界が正しく運行されるための、大切な ”重し” だったんだ。
後にロマンある歴史家がそう語ったように、アシュレイが死んで、世界が何かしら軽くなったその日、まるで解き放たれたかのように、”法王派”モードスタン卿が、野党政権から与党へと登りつめたのだった。
ーー世界の『奇跡』は、そこで終わったと言われている。
「・・・あれっ? 一体、どうなってるんだ?」
それは、ささいな出来事がきっかけだった。
ある下級神官が、噂好きの主婦の、痰のからみを治す祈りに失敗したのだ。
「まったく・・・お主は何をやっておるんじゃ。そんなことだから、いつまでたっても安物の木杖しか与えられず・・・」
そう言って、指導者がきらびやかな杖を振るが、もちろん神様は高価な杖だから願いを叶えてくれるような、成金主義ではない。
ふおお・・・!これはどうしたことじゃ、と上級神官があわてふためく中、国を仰天させる事態が持ち上がったのだった。
「・・・俺は、すぐには死なないから、まだ順番待ちしてくれと言われたんだ! 責任もって治してくれよ!!」
「あと一日早ければ・・・。ワシの血液に、小便の毒素を戻そうとする腎臓を、どうにかしてくれい・・・!」
それはまさに竜巻だった。
権力者は隠れ、中はがらんどうに近かった神殿を中心に、人々は猛烈な渦を巻いていた。
アンセルム大陸の西に位置する、『サリ』という国だったが、他国は奇跡が弱まっただけなのに比べて、この地はほとんど、回復の力が無になったようだった。
「・・・ウチの一家は比較的、健康な者ばかりがそろっている。それに、こういう事態は予想されていなければならなかったんだ。それこそが、まさに為政者というものよ」
そんなきびしい状況の中、覇気のある言葉を発したのは、元老院ですらない、区画はずれに住む一貴族だった。
彼の一族は、昔からの土着の神を信じ、さらに現実的でもあったので、まるで亡くなったどこかの町医者のように、神官の『奇跡』など信じていなかったのである。
・・・その貴族は、財の蓄えを、そして万が一の事態に備えて私設していた、”虎の子” の医療団を解放した。
20人にも満たず、半数以上は看護師という医療従事者たちではあったが・・・
「おお! 神官の『祈り』以外にも、病気を治す方法があったのか」
「焼け石に水だろう。もうとっくに、死者が出始めてるぜ」
もともと体が健康な者たちは、ただ横暴な権力をふりかざしつつあった神殿を、嘲笑っていた。
このまま、国がどうにかなっちまうのも面白い。どうせ、死ぬのは弱い奴ばかりだから、生命の質が高まっていいじゃないか。
ーーそんな時、かつてアシュレイが生きた町に、看護師が派遣されて来たのは、偶然だったのだろうか。
その田舎町は、”神官の祖”と呼ばれるシャーマンが眠ったとされる場所でもあり、僻地にしては立派な祭祀場があって、町民の混乱も大きかったのだ。
「お姉さん、早く早く! みんな待ってたんだから!」
「あっ、ほら。このおばあさんは、腸が詰まりやすいんだって。お腹を押さないでって言ってるよ!」
町についてすぐ、なぜか子供たちに空き家に案内された看護師は、さしたる知恵も持っていなかった。
来る前から分かっていたことだが、自分一人でどうにかできるレベルなど、たかが知れている。
不思議と手際のいい子供たちのおかげで、患者たちは大人しいようだが、重篤な者ほど放っておかねばならず、彼女は悲しみに暮れることになった。
・・・都市もひどかったけど、人はここでもどんどん死んでいくのね・・・。
こんな無能な私が、「生かす者」と「見捨てる者」を選んでいいのだろうか・・・。
「・・・ねえ。アシュレイ先生のご本はいらない?」
「お姉さん、ここにはアシュレイ先生っていう人が・・・」
そんな絶望の中、いつも服を引っぱってくる子供がいたのは、看護師の救いになった。
その少女はいつもきょとんとした顔をして、自分が住まわせてもらうことになった屋敷の中を、うろうろしている。
「アシュレイ先生? 前からあなたは言っているけど、こんな地方にお医者さんがいたの? 今では、街でもまず見かけることなんてないのにーー」
忙しい最中、やっと話を聞いてくれたと思ったのか、その子供はぱあっと顔を輝かせた。
そして、ふいに裏の倉庫に行くと、分厚い本を何冊か、よろめきながら持って来たのである。
「おっ、レーナ。先生の本を持ってきたのか・・・。でも、この看護師さんに解るかなあ。『素人でも、ある程度の対処はできるようにまとめておくよ』って言ってたけど、まだアシュレイ先生が元気な頃に読ませてもらった時は、俺でもちんぷんかんぷんだったよ」
横で患者の包帯を巻いていた少年が、そんな風に口をはさんでくる。
どうやら、この町に医師がいたのは本当らしい。
自分たちのような『医療団』ですらパトロンを必要としたのに、こんな場所で一人で”先生”をやっていたなんて・・・。
彼女はアシュレイを尊敬するとともに、どこか滑稽に思えた。
もう亡くなってしまったらしいが、とても必要とされる人生を過ごしたとは思えない。
「私の知る先生でも、国の中央で神官たちの治療に後れを取って、ふて腐れがちだった。そんな悔しさも知らないで、こんなのんびりした土地で、何が・・・」
緊急の患者に一段落ついた際、彼女はその書物を手に取った。
くたびれていたせいもあるのだろう。ふと、頭のどこかから冷やかしてやろうという思いが湧き上がったのだ。
ーー こんな物が、田舎町にありましたよ。今の時代、医者は変わり者って言われるけど、この人は最高に変わってたんでしょうねえーー
そんな感じで、この国の混乱がいくらか落ち着いたら、”先生”たちと笑い合えるかもしれない。
そんな日を、自分は望みたい。
久しぶりに静かだったその夜、彼女は微笑みながらベッドで本を開くことができたのだった。
まさか、それが指を震わせ、のちに涙をにじませるほどの努力が詰まっているものだとは、想像もしていなかった。
翌日からの彼女の行動は、早かった。
もともと技術などは拙くとも、実行力でそれを補うタイプだったのだ。
看護師は、町の健康な人間のなかで、字の書ける者をすべて集めると、アシュレイの本を大至急写させていった。
そして中央の街”クリーブランド”にそれを送ると、近隣に存在する輪転機を全回転させ、各地にそれを配布するよう上申していく。
彼の学術書に触れ、驚いたのは、医療従事者ばかりではなかった。
そのアシュレイがまとめた書物の後半は、ほとんど治療の心得がないものでも重篤患者への可能な処置が記されており、看護師すら派遣されていない町村の多くは、その医学書のみに救われることになる。
・・・一方、『神殿』は何もしていないのかと揶揄されることもあったが、彼らは彼らで、しっかりと活動をしていたようだった。
『奇跡』はまったく消失したわけではなく、法王権力に嫌気がさし、学びの途中で独自の信仰を歩みだした者たちは、まだその力を残しているーー
その者らが各自で動けば国が混乱するため、袂を別っていたはずの彼らは、一時的にではあるが、再び法王の指揮下に入ることになったようだ。
神秘の力を使えない者が、その稀有な能力者たちを操る。
これも世界の、いや国の世の文化の皮肉だったのかもしれない。
ーーアシュレイを生前から知っている者は、そんな事件があった後も、あまり彼の評価を変えてはいない。
「あいつは・・・! 戦いに生きれば、一国の軍団長にまで成り上がり、人々に壮大な夢を与えることができたろうよ」
「いや、独りを好んだ彼に、部下がまとめられたとは思えない。けど、俺が一生かけて見てきた冒険者の中に、アシュレイ先生より、武器を手にして向かい合った姿が恐ろしかった人間なんて、いなかった」
それは強者たちの夢だった。
今が約束されている者たちは、さらなる未来をいつだって求めている。
弱者は ーー 他者は、他者のままでいいのだ。
・・・だが、彼を知らず、その素っ気ない記述の本でしかアシュレイに触れたことのない人々は、穏やかな笑みで、長く語りつづけたという。
「ーー神殿の『祈り』などではない。あの時代に、たった一人で医師として虚しく生きた彼こそが、確かな奇跡だった」
それが、アシュレイという、誰にも価値を認められなかった男へ、最後の重みをもたらした言葉だった。