第九話 大切断
風が唸る。
真っ暗な曇天の空を背景に、鎌首を持ち上げた巨大な蚯蚓が渦を巻く。
鋭い牙のびっしりと映えたデスワームの口が、すぐ近くまで迫っている。
だが、レイのいる位置が近すぎて、デスワームがいくら身体を曲げようとも彼には届かない。
レイの今いる場所はデスワームの先端から、凡そ十メートル前後の位置。
地上に出ているデスワームの長さは三十メートル程だが、土の中に隠れている部分も合わせれば、恐らくその倍はあるだろう。
そう思えば、
――このあたりが首みたいなものだ。
と、恐ろしく大雑把な事を考えながら、レイは突き刺さったままの鉈を掴んで、気を送り込む。
同時に、足下へも気を送り込んで、
「ぎゃああああああああ!」
絶叫とともに、『歩法』を発動させた。
それは、まさに一瞬の出来事。
デスワームの、直径にして1メートルほどの身体。
その体表を、鉈を引き摺る様にして、一匹のゴブリンが恐ろしい速さで駆け抜けた。
重力の軛を逃れるほどの超高速。
まるで平地を走るかのように、宙空のデスワームの身体をぐるりと一周したのだ。
途端に、あれほど体を跳ねさせていたデスワームが、ピタリとその動きを止める。
デスワームの、巨体を引き摺る音が消え、尚も降り注ぐ雨が、その体表を滑り落ちる音が、やけに大きく響いた。
余りにも唐突な沈黙の中、
レイは鉈を引き抜くと、トンッ! と一つ足を踏み鳴らした。
その途端、
ズルリ。
鎌首を擡げたままのデスワームの体。
それが、いきなりズレた。
先端から凡そ十メートルの場所を境に、二つに分かたれるデスワームの体。
レイを上に載せたまま、『先端から十メートル』が落下し始めたのだ。
見上げれば、鎌首を擡げたまま赤黒い肉を覗かせる十メートルから後ろの断面。
次の瞬間にはそこから染み出した黄色い体液が、滝の様な勢いで噴き出し、落ちて行くレイの上へと降り注ぐ。
ズシン! と重々しい音を立てて、デスワームの先端十メートルが地面を打って、そこに蟠っていた泥混じりの雨水が派手に飛び散った。
◇◇◇
巻き上がった土煙が、降り注ぐ雨に叩き落とされて消えていく。
ミーシャは泥混じりの水を、全身からダバダバと滴らせながら、呆然と座り込んでいた。
彼女は目の前に落ちてきた巨大な十メートルの切れ端を、左から右へと虚ろな目で見回した後、すーっと息を吸い込んで、
「うそでしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
驚愕の叫びを上げた。
――騒がしい奴だな。
そんな呟きとともに、デスワームの身体の上で立ち上がる、一匹のゴブリン。
その姿を見つけたミーシャは、指を差しながら声を震わせた。
「で、でた……」
――出たって……幽霊でも見たような物言いだな。
「いや、アンタ、生霊でしょうが……じゃなくて!」
――ん?
「デタラメすぎんのよぉぉ! あんた! なんでそんなに平然としちゃってんの!? 自分が何を倒したか分かってんでしょ!」
――でっかいミミズ。
「うわあぉ! ミwwwミwwwズwwwって、バカッ!」
――なんだ? 違うのか?
「違わないけど! そうだけど! 普通あんなの倒せないし、倒そうなんて思わないわよ。あれは怪物なんてレベルじゃないのよ、竜巻とか! 台風とか! 地震とか! そういうのと同じ、災害みたいなものなのっ!」
――倒せたぞ。
その一言に、ミーシャは一瞬、ひくひくっと頬を引き攣らせた後、ガクリと肩を落とす。
「そうなのよねぇ……倒せちゃったのよねぇ……」
背負ったままの背嚢がなんだか更に重みを増したような気がした。
デスワームをあっさりと真っ二つにするゴブリンって……。
もはや存在そのものが、悪い冗談としか思えない。
ましてや、それが自分の旅の相棒だというのだから、心強いとか何とかいう以前に、ドン引きである。
「でも……」
レイの正体が私の推測通りの人物なら、そういう事も有り得るのか。
と、胸の内で独り呟いた。
「なんかもう、私だけ騒いでたら、バカみたいじゃない」
――そうだな。
「なっ!? あんたねぇ! そこは否定しなさいよ! フォローの出来ない男はモテないわよ」
――ゴブリンの時点で、モテないと思うぞ。
ごもっともである。
ミーシャは、気まずそうに眼を泳がせると、取り繕う様に口を開いた。
「ま……まあ、アンタ、魂はそこそこ綺麗だし、そうね。元の身体を取り戻したら、このミーシャちゃんが一回ぐらいデートしてあげてもいいわよ」
――お断りします。
「なんでよッ!?」
ミーシャが思わず声を荒げたその瞬間のことである。
唐突に、轟音が響き渡って、大地が大きく揺らいだ。
「えっ!? えっ!? な、何、何なのよ、もう!」
音のした方へと目を向けると、山頂の方角で盛大に土煙が上がっている。
山肌に、目に見える程の大きなひび割れが走り始め、巨大な何かが蠢いているのが見えた。
稲光に照らされて浮かび上がったのは、紛れもないデスワームの半身。斬り落としたのとは逆の端。
――確かに災害だな。
レイがそう呟くのと同時に、鎌首を持ち上げたまま動きを止めていたデスワームの後ろの半身が、斬り落とされた先端部分をその場に残して、後ろから引っ張られるように、シュルシュルと岸壁の内側へと引っ込んでいく。
六十メートルどころのサイズではない。
ここから山頂付近でのたうちまわっているデスワームの尾までは、どうみても数キロもの距離がある。
でっかいミミズ。
レイの言ったその表現は、決して誤りではない。
ヒメミミズなどの一部の例外を除いて、ミミズを二つに斬ると、先端部分側は生き残って再生し、後ろ半分は散々のたうちまわった末に死に至る。
山頂付近のデスワームの半身は、断末魔の苦しみに身を捩っているだけに過ぎない。
生き残るのは、先端の十メートル。
レイを上に乗せたままのデスワームの先端部分が、突然のたうつように蠕動し始めた。
「レイ!」
ミーシャが名を呼ぶと、レイはじっと彼女を見詰めた。
――逃げろ!
レイの言葉が伝わってくる。
だが、動けない。
怖くて動けない。
怯えきった表情で座り込んだままのミーシャの姿に、レイの表情に初めて焦りの色が浮かんだ。
レイは両手の鉈を振り上げると、まるで穴でも掘るかのように無茶苦茶にデスワームの背を斬りつけ始める。
苦しげに暴れるデスワームの先端十メートル。
黄色の体液が飛び散って、ゴブリンの凶悪な顔が黄色く染まっていく。
だが、デスワームに動きを止める気配はない。
――輪切りにしても死なないなら、ヒラキにするしかあるまい。
今度は、デスワームの背に鉈を突き刺すと、レイはそれを引き摺る様に、暴れるデスワームの上を走り始めた。
レイが走った後、デスワームの背に真っ直ぐに一本の線が描かれ、そこから黄色の体液が噴水のように噴き出していく。
だが、そうしている間にも山頂付近で暴れるデスワームの後ろ半身が山肌に体を打ちつける度に、激しい振動が巻き起こり、山そのものが崩れ落ちようとしていた。
そして、デスワームの後ろ半身がその両端を持ち上げてUの字を描くと、鞭打つように地面を叩く。
その瞬間、山肌が一気に崩れ落ち始めた。
地崩れ。
凄まじい轟音が、耳朶を埋め尽くす。
山肌が荒波のように滑落してくる。
それは、恐ろしい速さで二人の方へと迫ってきた。
絶望に顔を歪めたミーシャが目を向けたその時、デスワームの先端部分が大きく跳ねた。
思わず目を見開いたミーシャの蒼い瞳に、宙空へと跳ね飛ばされるレイの姿が映る。
「レェェェエエイッ!」
彼女の叫びに応えることもなく、レイは二度三度と地面を弾んで、そのまま動かなくなった。
もうお終いだ……。
激しく震える大地。
地精霊達の狂乱する声がする。
荒波の様に地崩れが、ミーシャの方へと迫ってくる。
項垂れる彼女の上へと、大きな影が落ちた。
ミーシャが涙に汚れた顔を上げると、そこには凶悪な牙がびっしりと生えた、巨大な口がイヤらしく粘液をしたたらせながら、彼女を見下ろしている。
その光景を最後に、
彼女の意識は闇の中へと落ちて行った。