第八話 VSデスワーム
ずるずる……。
雨音とは異なる、どこか水気を感じさせる音を立てて、赤鶏冠を呑み込み終えた巨大な腸は、どろりとした粘液を滴らせながら、プルプルと小刻みに震えている。
崖の半ばあたりの壁面を突き破って垂れ下がる、余りにも巨大な肉色の蚯蚓。
直径は一メートル余り、長さに至っては岩山の中にどれだけ残っているのか想像もつかないが、見える範囲だけでも三十メートルを優に越えている。
眼は見当たらない。
見当たらないどころか、顔そのものがない。
何を考えているのかを、推測できる要素は何も無い。
そんな訳の分からない化け物が、鋭い牙のびっしりと生えた巨大な口。口というか穴? それを開いたり閉じたりしながら、頭上でふらふらと揺れているのだから、ミーシャが今にも卒倒しそうな顔で硬直していたとしても、無理からぬ事である。
一方のレイはというと、彼女を救いに行きたいのは山々なのだが、唐突に現れたこの巨大な蚯蚓が、この後どんな行動を取るのか想像もつかなければ、迂闊に動く訳にはいかない。
せいぜい音を立てないように、じりじりと彼女の方へとにじり寄るのが精一杯であった。
そんな余りにもイヤすぎる緊張感の中、当の化け物は、二人のことなどまるで気に留める様子も無く、唐突に動き始める。
後ろから引っ張られる様にズルズルッ! と、崖の中へとひっこんだかと思うと、一呼吸の後、逃走していくゴブリンの群れの方が、俄かに騒がしくなった。
ぎゃああああああ! ぎゃあああああ!
絶叫と表現するしかないような、ゴブリン達の奇声が響き渡る。
降りしきる雨の向こうに眼を凝らせば、渓谷の奥で壁面から垂れ下がったデスワームが鎌首を擡げて、次々にゴブリン達を呑み込んでいくのが見えた。
――ひどいものだ。
レイは我に返ると、ミーシャの方へと駆け寄って、カチンコチンに硬直したままの彼女を助け起こす。
――何なんだ? あの化け物は。
ミーシャは表情を引き攣らせたままレイに縋りついて、フルフルと首を振った。
「デ、デ、デ、デ、デスワーム! あ、あれはダメ! 戦ってどうにか出来るような相手じゃない! 土精霊達が警告してたのは、あいつのことだったのよ!」
――どうする。
「とりあえず逃げる!」
――それから?
「あ、後で考える!」
――考え無しだな。
「う、うるさい! だってヤなんだもん! あのヌメッとして、ぐちゅぐちゅーっていうの、ヤなの! ヤっ!」
よっぽど怖かったのだろう。
恐怖の余り、幼児退行しきった末に、身を捩って、イヤイヤするバカエルフの姿があった。
――はぁ……。
レイが思わず肩を落としたところで、ピタリと動きを止めた。
気がついてみれば、あれほど響き渡っていたゴブリン達の奇声が途絶えている。
ゴブリン達が逃げ惑っていた方へと目を凝らすと、ゴブリンどころか、デスワームの姿も見当たらない。
どうやらゴブリン達は、全部おいしく召し上がられてしまったらしい。
――満足して、このままどこかへ行ってくれれば。
だが、レイのその淡い期待は、瞬時に裏切られる。
足の裏に感じる微かな振動が、次第に大きくなっていく。
――ミーシャ、掴まっていろ。
「え? なに? きゃっ!?」
レイは戸惑うミーシャを抱きかかえると、飛び退きながら『歩法』を発動する。
途端に、つい今の今まで二人がいた辺り、その地面がボコッと音を立てて盛り上がったかと思うと、まるで爆発物でも埋まっていたかの様に、一気に弾け飛んだ。
ミーシャの目線が、下から上へと動いて、そこで釘付けになる。
地面を突き破って現れたデスワームは、そこから筍の伸びるが如くに、真っ直ぐに空へと向かって伸びていく。
「あわ、あわ、あわわ……」
――口を閉じろ。涎が垂れている。
真ん丸に目を見開いて、口を半開きにするミーシャ。
そのあられもない姿に、レイは出会った当初、彼女の事を美しい少女などと評したことをやや後悔した。
――逃げ切れるか?
レイは自身へのその問いかけの無意味さに、思わず苦笑する。
いかに『歩法』を使おうと、所詮ゴブリンはゴブリン。
この脆弱な身体で、エルフを一人抱えたまま走り回っていてはそう長くはもたない。
走りながら振り返れば、塔のように真っ直ぐに空を突き上げた肉色の筒が、半ばからアーチを描く様に折れ曲がって、レイ達の方へと襲い掛かってくるところだった。
「いやあああああああぁぁぁぁぁあああああ!」
上向きに抱えられたミーシャの顔面の引き攣り具合で、距離を推測し、ここが限界だというところでピンポイントに加速。
突っ込んでくるデスワームを紙一重で躱すと、背後で大地が砕け散るけたたましい音とともに、地面がはじけ飛んだ。
「うぇええええん、もういやだぁあああ……」
――落ち着け。
「いやぁああだあああ、もうお家にかえるううう!」
顔の各パーツから分泌される液体で、顔面をグズグズにしながらジタバタするミーシャ。
それを呆れ顔で眺めて、レイは諭すような口調で言った。
――聞いてくれ。次に攻撃を躱したら、そこで手を離すから、キミは岩陰にでも隠れて、ジッとしているんだ。
「え、な、なに、いや、私、見捨てられちゃうの!?」
――そうじゃない。あいつは恐らく音で獲物の位置を探り当てている。私が大きな音を立てて、アイツを引き付ける。
「ひ、引き付けてどうするの?」
――仕留める。
一瞬ぽかんと口を開けた後、ミーシャはどこか怒った様な口調で捲し立てる。
「ムリ! ムリよそんなの! 死んじゃう!」
――このままでは、どのみち二人そろって、アイツの餌になる。
「だからって、アンタそんな無茶く……」
――来るぞ!
レイはミーシャの言葉を遮ると、大地を蹴って飛ぶ。
途端に中空から落下する様に襲い掛かってきたデスワームが、二人が直前までいた辺りの岩肌を穿って、石礫が飛び散る。
「えっ! えっ! えっ! きゃあああああ!」
着地と同時に、レイはミーシャを脇へと放り投げると、
――化け物! こっちだ!
両手に鉈を構えて、激しく打ち鳴らした。
カン! カン! カン!
雨音を切り裂いて、硬質な金属音が響き渡る。
レイの推測通り、デスワームの反応は劇的だった。
勢いよく鎌首を擡げると、デスワームは真っ直ぐにレイを追い始める。
凶悪な牙を持つ咢を一杯に開いて、デスワームの先端が背後から迫ってくる。
だが、レイにしてみれば、その動きは単調過ぎた。
レイは宙空から、しなりながら落ちてくるデスワームの先端を、最小限のステップで躱すと、
「ぎゃああああああああ!」
獣そのものの奇声を上げて、風切り音を立てながら通り過ぎていく肉色の筒、その襞の間に鉈を叩きつける。
深々と食い込む刃。
柄を握ったまま引き摺られたレイはタタタと掛けるも、四歩目を踏む前に、足が地面から離れた。
螺旋を描く様に上昇していくデスワーム。
恐らくレイに喰いつこうとしているのだろうが、彼のしがみついている場所は、先端から近すぎて、口が届かないのだ。
言うなれば、自分の尾を追いかけてグルグル回る犬のようなもの。
凄まじい遠心力の中で、レイはもう一本の鉈を叩きつけ、デスワームの身体をよじ登る。
背面まで登り切ると、フウと大きく息を吐き出した。
既に数十メートル上空。
ぐるぐると回る景色。
顔を打つ雨は更に激しく、駆け抜ける風は冷たい。
雲間を走る稲光が、螺旋状に上昇するデスワームの禍禍しい影を地面に描き出し、この化け物の動きに合わせて山が震えた。
下の方へと目を向けると、金色の点が見えた。
金髪。岩陰に隠れて目尻が裂けそうな程に目を見開き、両手で口元を押さえたまま尻餅をつくミーシャの姿。
――腰が抜けてるみたいだな。
レイは胸の内でそう独りごちて、苦笑した。
そして、
――さて、斬り落とすとするか。
どうすれば倒せるかなど、考えるまでもない。
身体を手に入れて以降、散々ゴブリンどもの頭をカチ割り、首を刎ねてきたのだ。
相手が大きいか小さいかだけの違いでしかない。
とはいえ、見れば見る程にデスワームに首など見当たらない。
――まあ、適当に真っ二つにしてやれば、流石に死ぬだろう。
最後は驚くほど大雑把なことを考えて独り頷くと、レイは突き刺さったままの鉈の柄を握り直し、深く腰を落とす。
気を送り込みながら力を込めて、鉈を更に深く押し込むと、デスワームの身体が嘶く様に大きく跳ねた。
――いくぞ。