第七話 赤鶏冠(レッドクレスト)
――どけっ! 道を開けろ!
その叫びは奇声となって、牙の間から飛び出した。
「ぐぎゃ! ぐぎゃぎゃぎゃ!」
レイはミーシャの悲鳴が聞こえた方角、そちらを睨みつけて、ゴブリン達の只中へと一気に突っ込む。
鉈を振り上げ、目の前のゴブリンを袈裟斬り。
緑の返り血をものともせずに、よろめくゴブリンを蹴り倒して、そのままその背後、次の一匹へと襲い掛かる。
怯えて尻餅をつくゴブリン。
だが容赦はしない。
鉈を二つ揃えて頭を叩き割ると、そのまま両手を振りかざし、左右から殴り掛かってくるゴブリンの棍棒を鉈で受け止める。
ずしりと肩に圧し掛かってくる衝撃。
「ぐぎゃぎゃぎゃ!」
レイは身体を捻ってそれを受け流すと、気合の叫びとともに回転して、前のめりになった左右のゴブリンの首を一息に刎ねた。
一瞬にして四体ものゴブリンを物言わぬ肉塊へと変えて、レイは一気に囲みを破り、そのまま悲鳴が聞こえた方向へと駆け出す。
あまりのことに、ゴブリン達は呆気に取られた様な表情を浮かべたまま、ただその背中を見送った。
雷鳴が轟く。
曇天の空、顔を叩く雨、焦燥に胸を焼きながら、レイは必死の形相で走る。
意識はずっと前へと進んでいるのに、体が追いついてこない。
遅い。ゴブリンという生き物の致命的な足の遅さに、ギリギリと奥歯を鳴らす。
「ぐぎゃぎゃぎゃあああああああ!」
雄叫びを上げながら、レイは意識の奥底、鍵のかかったままの記憶、その扉へと必死に爪を立てる。
――私はもっと早く走っていたはずだ。
そんな記憶の欠片を必死に拾い集め、レイは背筋を伸ばし、足の裏へと意識を集中させる。
土踏まずに気を送り込み、身体を重力に牽かれるままに倒す。
その流れに逆らわずに足を踏み出し、地から足が離れるその瞬間に気を放出する。
途端に水しぶきを上げて、足の裏で弾ける膨大なエネルギー。
爆発的な推進力を得て、身体が一気に加速する。
雨粒が、周囲の風景が、凄まじい勢いで後ろへと飛び去って行く。
それは『歩法』と呼ばれる剣士の戦闘技術の一つ。
神速の踏み込みを実現する、高速移動術であった。
だが、ほんの数秒足らずで、レイの体中の関節という関節が悲鳴を上げ始めた。
骨が軋む音がする。
針を差し込まれた様な鋭い痛みが走る。
ゴブリンという生き物の脆弱さに、レイは思わず舌打ちする。
――耐えろ!
顔を歪めながらも、一瞬にしてゴブリンの群れは後方に置き去り。
豪雨の半透明の膜を切り裂きながら、レイはすぐに、左右を切り立った崖に挟まれた渓谷のような場所へと到達した。
――どこだ、どこにいる! ミーシャ!
崖に挟まれた一本道を駆け抜けながら、レイは胸の内でミーシャへと呼びかける。
すると、
「ダメッ! レイ! こっちに来ちゃダメ!」
激しい雨音にかき消されそうになりながら、道の先、前方からミーシャの声が聞こえてきた。
レイは足を止めて、雨霧の向う側へと目を凝らす。
曇天の薄闇の中、雲間に走る稲光に照らされて、シルエットが浮かび上がった。
半円形に道を塞ぐゴブリンの群れ。
その真ん中に、黒い煙の様なものに絡めとられてもがいているミーシャと、それを足蹴にする異形のゴブリンの姿。
――赤鶏冠。
赤い鬣のゴブリンの王。
体格は他のゴブリンに比べて、特に大きい訳ではない。
寧ろ、一回り小さくさえ見える。
ぐぎゃ、ぐぐぎゃぎゃ!
赤鶏冠はレイの姿を見止めると、そんな奇声を上げて、ニヤリと笑った。
無論、何を言っているのか、レイに分かる筈も無い。
だが、その人間染みた表情、目に宿る確かな知性の光に、レイは思わず眉根を寄せた。
――ミーシャ、無事か?
レイは胸の内で彼女へと語り掛けながら、鉈を構えて、一歩一歩足を進める。
ところが、
「レイ! 来ちゃダメだってば!」
ミーシャが、必死にそう叫ぶと
「ぐぎゃ!」
怒りに顔を歪めた赤鶏冠が彼女の腹を蹴り上げ、「うっ」という息のつまる音が聞こえた。
――貴様ッ!
レイの鉈を握る手に、力が籠る。
一気に距離を詰めるべく、踏み込もうとしたその時、唐突に足元の地面に巨大な影が落ちた。
――なにっ!?
見上げれば、巨大な岩石が落下してくるところ。
稲光に照らされて、崖の上に数匹のゴブリン達が、小躍りする姿が見えた。
「だめええええええええ!」
ミーシャの絶叫が渓谷に反響する。
だが、それは瞬時に岩石が大地を穿つ轟音に飲み込まれ、掻き消された。
弾け飛ぶ石礫。
固い岩同士がぶつかり合う硬質な音。
濛々と立ち昇った土煙は、激しい雨に叩き落とされて、すぐに収まっていく。
「レ……ィ……」
愕然とするミーシャの顔を覗き込んで、
ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!
赤鶏冠が仰け反る様に甲高い笑い声を上げると、周囲のゴブリン達が楽しげに跳ねまわりながら、手を叩いた。
砕けて、小山の様に積み上がった岩石を呆然と眺め、
「ううっ……」
ミーシャが思わず項垂れたその瞬間、
――舐められたものだな、私も。
と、脳裏に自嘲する様な声が響く。
彼女が思わず顔を上げると、赤鶏冠が怪訝そうにその顔を覗き込んだ。
その瞬間のことである。
周りで騒いでいるゴブリン。
その内の一匹が、ぎゃぎゃぎゃ! と尚も甲高い笑い声を上げた途端、その首が胴から離れて宙を舞った。
頭を失った首から、噴水の様に噴き出す緑の血。
唖然とした静寂の只中、緑の肌の一群の只中で、手にした鉈を振るって、血を払う一匹のゴブリンの姿があった。
ぎゃっ!?
赤鶏冠は思わず目を見開き、他のゴブリン達は何が起こったのか分からぬままに、一斉に飛び退いた。
「あ、あは、あはは……。びっくりさせないでよ、もう……」
涙を浮かべ、困惑と安堵が混じりあった、多分二度と出来ないであろう複雑な表情を浮かべて、ミーシャが笑う。
赤鶏冠は、そんなミーシャを忌々しげに睨みつけて、顔を歪めた。
そして、
ぐぎゃ、ぐぐぎゃ!
と、甲高い叫び声を上げる。
ゴブリン達は慌てて得物を構えると、レイへと襲い掛かった。
足元でバシャバシャと水が跳ねる音が響いて、ゴブリン達がレイの方へと殺到してくる。
先頭のゴブリンが石鎚を振り上げると、レイはその懐へと潜り込み、鉈の先端で下から上へと喉を衝き上げ、首の骨を力づくでへし折った。
ゴブリンの眼球が、ぐりんと引っ繰り返って白目を剥き、振り上げた石鎚ごと背後に倒れ込むのと同時に、別の一匹が、そいつの脇をすりぬけ、短槍を抱えて突っ込んでくる。
レイは突き上げた鉈をそのまま振り下ろして、短槍を大地に叩き落とすと、勢いで前のめりになったその一匹を、もう一本の鉈で斬り上げて跳躍し、回転しながら宙を舞う。
平面の戦いの中で、上方向からの立体的な動きに対応することは難しい。
ましてや、人間ならぬゴブリンならば尚更である。
宙を舞うレイを、呆然と見上げていた一匹のゴブリン。そいつを鉈の側面で殴り倒しながら着地すると、レイは「ぐるおああああああ!」と咆哮をあげて、周囲を威嚇した。
そのいかにも恐ろしい叫び声が、ゴブリン達のなけなしの意気地を根こそぎ刈り取る。
ぎゃ、ぎゃぎゃ!?
怯えるような声を上げて、ゴブリン達が次々に得物を投げ捨てて逃げ始めると、
ぐぎゃあああああッ!
赤鶏冠が慌てて、壊走するゴブリンの群れへと、怒りに塗れた叫び声を上げた。
だが、もう手遅れ。
一度決壊してしまえば、立て直すことなど不可能だ。
逃げ去っていくゴブリン達の背を呪いに満ちた目で睨みながら、赤鶏冠は、ミーシャの髪を引っ掴んで、無理やりに顔を上げさせる。
「痛い! は、離しなさいよ! あんたなんかレイの敵じゃないんだから! 降参するなら今の内よ!」
痛みに顔を歪めながら、ミーシャがそう捲し立てると、赤鶏冠は、ニヤリと笑って、彼女の腰の鞘から無理やり短剣を引き抜く。
「あっ!」と声を上げるミーシャ。
赤鶏冠は彼女の鼻先に刃を突きつけると、モゴモゴと口元をもどかしげに動かす。
そして、
「ウ……ウゴ、クナ」
その牙の間から零れ落ちたのは、たどたどしく、金属を擦るような甲高い響きではあったが、確かに人間の言葉。
――ほう、なるほど。やりようによっては、ゴブリンでも人間の言葉を喋れるのか。
「どこに感心してんのよ、ばかあああ!」
レイのあまりにも呑気なもの言いに、ミーシャが思わず声を上げる。
「ダ、マレ、コロスゾ」
赤鶏冠は、苛立たしげにミーシャの顔を覗き込んで凄むと、彼女の身体を引き摺りながら、ゆっくりと後退っていく。
だが、レイに慌てる様子はない。
それも当然。
『歩法』を使えば、ミーシャに刃先が食い込むより先に、赤鶏冠の首を、すっ飛ばすことが出来るのだから。
ところが、
――じゃあ、そろそろ殺るか。
レイが踏み込むべく、僅かに腰を落としたその時、予想だにしないことが起った。
逃走を図る赤鶏冠のすぐ斜め後ろ。
側面の岩肌が、まるで焼き上がっる瞬間のパウンドケーキの様に膨れ上がったのだ。
そして次の瞬間、それがいきなり轟音と共に弾けた。
飛来する石礫。
レイは、それを後方へと跳ねて避ける。
雨粒に叩き落とされて、すぐに薄まっていく土煙。
その向こう側にミーシャの姿を見つけた。
地面に倒れたままの彼女は、目尻も避けそうなほどに目を見開いて、ひきつけでも起こしたかのように、小刻みに身体を震わせている。
――なんだ!?
晴れていく土煙の中に、中空からだらりとぶら下がる二本の足が見えた。
まるで首吊り死体のように赤鶏冠が、中空から垂れ下がっている。
だが、見えるのは下半身のみ。
直径一メートル以上もある、腸のような赤黒い筒状の物が壁面から突き出して、どくどくと脈打っている。
それが赤鶏冠の上半身を呑み込んでいた。
「デ……デスワーム……そんな、嘘でしょ……」
今にも卒倒しそうな顔をしたミーシャが、声を震わせる。
雨音に混じって、ズルズルと赤鶏冠が飲み込まれていく音が響いた。