第五話 豪雨の包囲網
二人が出発して三時間ほどが過ぎた頃、雨の臭いが急激に濃さを増した。
そこから数歩と行かないうちに、雨粒が地面に黒い水玉模様を描きだし始め、二人は思わず周囲を見回す。
ゴツゴツとした岩肌が露出する山道。
雨をしのげるような場所は、何処にも見当たらない。
「あーあ、降り出してきちゃった。もう最悪ぅ……」
――その山小屋というのは、まだ遠いのか?
「えーと、ちょっと待ってね」
そう言って、ミーシャは目を閉じると、ブツブツと何かを呟き始める。
レイの目には見えないが、おそらく風精霊に問いかけているのだろう。
「このまま真っ直ぐ。あと半刻ぐらいだって」
――半刻か。それなら走った方が良さそうだ。
こうしている間にも空は益々暗さを増し、午前だというのに、既に宵の口宛らに薄暗い。
顔を叩く雨粒が大きくなっていくのと前後して、遠くの方でゴロゴロと、猫が喉をならしているような雷の音が響き始めた。
二人は頷きあうと、足早に山道を駆け上がる。
山道と言っても、整備された道がある訳では無い。
中腹近くともなれば、それなりに傾斜もきつい。
ハァハァ……と、乱れた呼吸音が二人の周囲に纏わりついて、降り注ぐ雨水が、体温で気化して湯気が立ち上る。
ポツポツという雨の音が次第に途切れることなく繋がって、遂には、ザーという間断の無いノイズに変わった。
空を見上げれば、天から垂れ下がる白糸が、半透明のカーテンの様に揺らぎながら世界を覆っている。
その向こうに、重そうな色をした雲。それを串刺しにする山頂のシルエットが浮かんでいた。
まさに竜が泣き出したかのような大雨。
目を凝らしても、数メートル先も定かには見えない程の豪雨である。
傾斜を流れ落ちる雨水は既に濁流のごとく、足に当たっては白波を立てている。
進む速度は落ちる一方で、言葉を交わすだけの余裕も無い。
二人は顔を叩く雨粒に目を細めながら、濡れた体を引き摺る様に先へ先へと進んでいく。
元々襤褸布を腰に巻き付けているだけのレイはともかく、ミーシャには背嚢の重みに加えて、水を吸った衣服の重みが圧し掛かって、時折、重労働に従事する罪人さながらに、よろよろと足を縺れさせていた。
結局、
「見えた! あそこよ!」
と、激しい雨音の中に、ミーシャの喜色混じりの声が響いたのは、半刻どころか、一時間以上も経った後の事だった。
近づいてみれば、それは丸太で組んだ高床式の小さな山小屋。
ずいぶん古そうではあるが、かなり頑丈そうに見える。
なんにせよ、雨露をしのげる屋根があるのはありがたい。
三段ほどの階段を登って、デッキへと上る。
正面に扉。
ミーシャは取っ手に手を掛けると、レイの方へと振り返った。
「鍵……掛かってたら、蹴破ってね?」
――ああ、その時は任せてくれ。
だが、その心配は全くの無駄になった。
ミーシャが力を込めて引くと、扉は軋みながらも、あっさりと開いたからだ。
二人は中へ駆けこむと、慌しく扉を閉じる。
途端にザーという雨音が壁に阻まれて、一気に遠ざかった。
示し合わせた訳ではないが、二人は同時に大きな息を吐いて、
「……屋根って素晴らしい」
――まったくだ。
と、感慨深げに頷きあった。
扉を閉じてしまうと、部屋の中は、壁の隙間から入り込んでくる微かな光だけの薄闇。
へなへなとその場にへたり込んでしまったミーシャを尻目に、レイは壁を手探りで弄って木戸を探し当て、それを跳ね上げる。
再び雨音のボリュームが上がって、僅かに室内が明るくなった。
「はあ……もう、ぐしょぐしょ」
ミーシャがため息交じりに呟きながら、服の裾を絞るとボトボトと水が滴り落ち、彼女は寒そうに身体を震わせる。
――そのままでは風邪をひきそうだな。
「あんたは大丈夫なの?」
――特に寒いとも思わない。記憶がないからはっきり大丈夫だとは言えないが、風邪気味のゴブリンに出会ったことはないと思う。たぶん。
レイは冗談とも思えない様な口調でそう返事をすると、ぐるりと部屋の中を見回す。
丸太を積み上げた壁、それほど広くも無い部屋の隅には薪が積み上げてある。
壁の一方には黒く煤けた小さな暖炉があった。
――火を熾すぞ。風精霊のご機嫌をとるのは、また今度ということにしてくれ。
「うん、大丈夫。室内には風が無いでしょ。風精霊たちはほとんどいないから」
◇◇◇
レイは暖炉に薪をくべながら、草色のローブにくるまって気持ちよさげに寝息を立てているミーシャを眺めた。
流石に雨の中の強行軍は、相当きつかったらしい。
外から聞こえる雨音には弱まる気配がない。
開けっ放しの木戸の外へと目を向けると、雲は益々厚みを増し、その向こう側に昇っている筈の午後の太陽を欠片も見せようとはしない。
――これは雨が止むのを待つしかないだろうな。
そう胸の内で独りごちて、木戸を閉じるとレイは壁に凭れ掛かって目を閉じる。
何年も感じることの無かった『眠い』という感覚。それ自体が不思議な気がして、思わず笑みが浮かぶ。
寝ているのか起きているのか、良くわからぬような微睡の心地よさに身を任せた途端、彼は周囲に満ちる殺気に気が付いた。
レイは唐突に跳ね起きて、身体のすぐ脇に置いておいた鉈を引っ掴むと、
――起きろ!
「ぎゃん!?」
横たわってるミーシャを、遠慮なく蹴っ飛ばした。
「痛ったぁーい! 何すんのよ!」
――静かにしろ! 囲まれてる!
「へ?」
寝ぼけ眼で抗議しかけたミーシャが、手を振り上げたまま、間抜けな声を洩らした。
「囲まれてる? 何に?」
――この殺気は……ゴブリンだな。
ミーシャは一瞬きょとんとした顔になると、ふたたびローブにくるまって横になった。
「なーんだ、ゴブリンか……。じゃあさ、レイ、昨日みたいにちゃっちゃって、やっつけちゃってよ。私、もうひと眠りするから」
昨日襲われた時には、あんなに必死な顔をしてたというのに、レイが強いと分かるとコレである。
信用されていると言えば聞こえは良いが、流石にこの態度にはレイも呆れた。
――そういう訳にはいかないな。大した殺気ではないが、数が多い。あの数からキミを守るには残念ながら、手が足りない。
「へ? そんなに多いの?」
――自分の目で見てみるといい。
ミーシャは起き上がると、木戸を押し上げて外へと目を向ける。
そして、途端に顔を引き攣らせた。
「なによ……これ」
激しい雨に白くけぶる風景。
その寒々しい景色の中で、黒い影が蠢いている。
群れだ。ゴブリンの群れ。
それが、遠巻きにではあるが、この山小屋を取り囲んでいる。
正確な数は分からないが、確かに何十匹もいるように見えた。
表情を強張らせて振り返るミーシャに、レイは問い掛けた。
――どうにも腑に落ちないのだが……。ゴブリンというのは、こんなに統率の取れた行動をするものなのか?
驚きすぎて声も出ないのか、言葉を喉に詰めたまま、ミーシャはブンブンと頭を振った。
――ふむ、そうだろうな。
昨日戦った際の印象で言っても、ゴブリンならば、もっと本能的な行動をとりそうなものだ。
気配を悟られない様にわざわざ大雨の中で行動し、直情的に襲い掛かってくるわけでもなく、獲物を完全に包囲するというのは、ゴブリンの印象とはほど遠い。
――どうやら、知恵が回るのがいるらしい。
その一言に、ミーシャがビクンと身体を跳ねさせた。
「……まさか、赤鶏冠!?」
――なんだそれは?
「異常に頭の良いゴブリンがいるって、おじいちゃんに聞いたことがあるの。暗黒魔法まで身に付けてるって……。突然変異みたいなものらしいけど、そいつには鶏の鶏冠みたいな赤い鬣が生えてるんだって」




