第四十三話 晴れときどきタコ。
ズズズ……と空気を振動させる巨大な影。
ミーシャは目尻に涙を浮かべて、空を見上げた。
その瞬間――
「ぎゃぁああああああああああああああああああああああ!!!」
それはもう、スゴい顔をした。
美少女が決して、してはいけない顔。
描写するのも憚られる禁断の表情である。
だがそれも無理からぬ事。
宙に浮かんでいたのは、あまりにも不気味な物体だった。
膜質の羽が生えた歪な球体。
赤灰色のヌメヌメした筋繊維のような表面。
そこら中から不規則に突き出した無数の触手が、うにょうにょと蠢いている。
「じゃ……邪神!?」
ミーシャは魂の抜け落ちた表情でそう呟いて、驚きの余り垂れ落ちた涎が、口の端で糸を引いた。
――おい、涎! 涎! 誰が邪神だ。良く見てみろ。
ミーシャは慌てて手の甲で涎を拭って、言われるままに、名状しがたいその異様な物体を眺める。
よく見れば、その表面は無数の触手が絡みついたもの。
ところどころの隙間から、古竜の黒い鱗が覗いている。
「タコぉ!?」
そう。それは何十匹もの巨大な蛸に、絡みつかれている古竜。
「何をどうすれば、そんな事になんのよ!!」
――ふむ、島を襲う巨大蛸の群れとの戦闘中だったのだが、奴らは中々すばしっこい。水中ではブレスも使えないし、一匹ずつ噛み殺していては、ここへ戻ってくるのは前に告げた通り、四、五時間はかかる。そこで私は考えた。
レイボーンが剣を肩に担いで、どこか自慢げに胸を張る。
――とりあえず、全部持っていこう、と。
「はい? もって……くる?」
――ああ、そうだ。奴らは私を絞め殺そうと、絡みついてきた。そこで、自分から奴らのど真ん中に飛び込んで、全部が絡みついてくるのを待ったのだ。
「で、そのまま来たと……」
――そうだ。
「……あ」
――あ?
「アホかぁああああああああああああああああああ!!!」
さっきまで意識を失いそうになっていたのも何処へやら、ミーシャは思わず声を上げる。
「この脳筋! 只でさえ魔物の群れでびっしりなのに、更に何十匹も巨大蛸水揚げして、どう収拾つけるのよ! そんな状態じゃ、アンタも身動き取れないんじゃないの!」
――ふむ。言われてみればそうだな。口の中まで触手で一杯なのでブレスも吐けない。
「言われてみればって……アンタねぇ……」
ミーシャは、思わず眉間に皺を寄せて、こめかみを指で押さえる。
だが、そんな彼女に、レイボーンは平然とこう言った。
――ちょっと振り落としてくる。
「え?」
ミーシャが思わず小首を傾げたその瞬間、タコ邪神が翼をはためかせて、地上に激しい風が吹き荒れた。
「ちょ、ちょっと、な、なにすんのよ!?」
ミーシャの抗議の声は激しい風音にかき消され、タコ邪神もとい古竜は、真っ直ぐに上空へと、飛び上がっていく。
魔物達も呆然と空を見上げ、地を埋め尽くす魔王軍の真上へと上昇していく、歪な竜の姿を目で追っていた。
やがて、遥か上空で動きを止める歪な物体。
ミーシャの目に、それが午後の太陽を遮って、錐揉みする様に激しく身体を揺さぶるのが見えた。
途端に、竜の体から剥がれ落ちて、宙へと放り出される無数の巨大な蛸。
飛び散る粘液が陽光に照らされてキラキラと光り、どこか幻想的な風景を形作る。
無数の巨大な蛸が、大地へと降りそそぐその光景を眺めながら、
「……………………」
ミーシャは言葉を失う。
本日は晴天なり。
晴れときどきタコであった。
◇ ◇ ◇
悪ふざけとしか言い様の無いその状況も、下にいる魔物達にしてみれば、たまったものではない。
十数メートルはある巨大な蛸が、自分達の上に落ちてくるのだ。
「ぐぎゃあああああああ!」
「ぎゃ! ぎゃ! ぎゃ!」
地軸を揺るがすような振動。
巨大な蛸が地にぶつかる、水気を含んだ轟音。
それが断続的に響き渡って、魔物達の断末魔の声と恐怖の悲鳴が大地に満ちる。
砂煙が濛々と立ち上り、尚も生きている蛸が必死に逃げ惑う魔物を、その触手で掴んで振り回している。
城壁近くの魔物達は、なんとかよじ登ろうと必死に石壁にしがみつき、大地に展開していた魔物達は、必死に東に向かって逃亡を図る。
次々に押しつぶされていく魔物達。
それでも尚、蛸は降り続く。
蛸の上に蛸。
そのまた上に蛸。
魔物達を踏みつぶし、粘液塗れの軟体動物が大地を埋め尽くしていく。
それは凡そ、この世のものとは思えない、阿鼻叫喚の地獄であった。
「貴様ら! 逃げるな! 戦え!」
指揮車輛の上で足を踏み鳴らしながら、山羊頭の悪魔が、後方へ向かって逃げてくる魔物達へと必死に叫ぶ。
だが最早、軍としての体裁などありはしない。雪崩を打って逃げる魔物達の耳に、その声は届かなかった。
「ア、アタシらも逃げた方が良さそうね」
輜重車の影に隠れたまま、ものすごい勢いで通り過ぎていく魔物達を眺めて、アリアがそう呟くと、肩口から顔を覗かせたドナが、フルフルと首を振った。
「いいえ、勇者様が作ってくださった、この好機。今なら、あの山羊の頭の悪魔も油断している筈です」
「油断どころの話じゃないと思うけど……。こっちだって、いつ蛸が落ちてくるか分かんないわよ」
呆れ気味にアリアがそう答えると、何故かドナが胸を反らした。
「大丈夫です。神は信ずる者を守り給います!」
「全然、大丈夫じゃないわよ!?」
これは説得しても無理。そう悟ったアリアは、間髪入れずに背中の穴から一気に糸を噴きだし、ドナを絡めとった。
「ちょっと、な、なにをするのです!」
狂信者の戯言には、つきあっていられない。
抗議の声を上げるドナを肩に担ぐと、アリアは山羊頭の悪魔に背を向けて、魔物達の群れの中を、一目散に東の方角へと走り始める。
だが、その途端、アリア達がいたまさにその辺りに、巨大な蛸が落ちてきた。
押しつぶされる輜重車。
のたうちまわる巨大な蛸。
「ひぃいいいいいいい!」
うねうねと追ってくる触手を躱しながら、アリアは必死の形相でひた走る。
最早、山羊頭の悪魔など、気にしている場合ではなかった。
◇ ◇ ◇
「はぁぁぁぁぁ…………」
ミーシャは、目の前で繰り広げられる筆舌に尽くしがたい光景を眺めながら、地の底まで届きそうな深い溜息を吐いた。
巨大な蛸で相手を押し潰す。恐ろしい攻撃ではあるが、おそらくレイはそこまで考えていない。
たぶん、倒すべき敵を一カ所に纏めようとしただけ。
この生霊は、時々恐ろしいほど考え無しで、無茶苦茶な行動をする。
一体、本当の身体はどんな奴なのだろう? 歳は? 見た目は?
剣を構えたままの、頭と右腕のない骸骨を眺めながら、ミーシャは独り想いを馳せる。
もし本当に勇者なら、シャイな若者の筈なのだが、どうにもレイの在り方とは大きく食い違っているような気がする。
――たとえ、勇者じゃなくったって……。
ミーシャが胸の内でそう呟いたのと同時に、
――あっ!?
レイの焦ったような声が、ミーシャの脳裏に響いた。
「あ?」
目を向ければ、挙動不審なレイボーンの様子。
ミーシャが怪訝そうに首を傾げたその瞬間、轟音が響き渡る。
竜の体を剥がれ落ちた巨大蛸の一匹が、城壁の内側へと落ちて、王宮の一部を粉砕した。
丁度、玉座の間の辺りである。




