第三話 デッドかと思ったらアライブだった。
洞窟を出るなり、エルフの少女は、木の根本に転がっていた大きな背嚢へと駆け寄る。
そして、緊張した面持ちで中身をゴソゴソと確認した末に、
「よかった……何にも盗られてない」
と、薄い胸を撫でおろした。
どうやらゴブリンに追いかけられた時に、重い荷物を放り出して、洞窟に逃げ込んだ。
そういうことなのだろう。
見回してみれば、周囲は鬱蒼とした森。
空に枝を差し伸べる、青々とした広葉樹。
葉の隙間から差し込む初夏の日差しに、亡霊は思わず目を細める。
昼も夜もないあの洞窟に、どのぐらい佇んでいたのだろう。
止まっていた時計が動き出した。
まさにそんな気がした。
背後の洞窟を振り返れば、こうして二本の足で大地に立っている事。そのありがたみが、今になって、じわりと胸の奥から湧き上がってくる。
そう思えば、たとえゴブリンの身体とはいえ、それを手に入れる方法を教えてくれたこの少女には、感謝してもしきれない。
――口にする気はさらさら無いが。
亡霊が胸の内でそう独りごちると、少女はジトッとした目を彼に向けた。
「ばーか。そういう事こそ、ちゃんと言葉にしなさいよ」
その瞬間、亡霊はゴブリン面を思いっきり歪ませて、腐った生魚を投げつけられたような顔をした。
――考えている事を読まれるというのは、厄介だな。
「ふふーん、隠し事なんて出来ないんだから」
亡霊は自慢げに胸を反らすエルフの少女を仰ぎ見て、思わず口を尖らせる。
無論、いくら拗ねたところで、ゴブリン面では、可愛くもなんともない事ぐらい分かっている。
――で、キミにつきあうのは構わないが、これからどうするのだ?
「キミとか呼ばれると、鳥肌が立つわ。ミーシャよ。私の名前。で、アンタ、名前は?」
――わからない。
「ふーん、名前も覚えてないんだ……」
エルフの少女――ミーシャは呆れたとでもいう様に溜め息を吐くと、亡霊のゴブリン面をまじまじと覗き込む。
間近で眺めた彼女の瞳は、水底の様な深い蒼。
肌は陶磁器の様に白く、そこはかとなく漂うお調子者らしき雰囲気に目を瞑れば、極めて美しい少女だ。
見た目で言えば、年の頃は十四か十五といったところ。
だが、エルフは長命種である。
ならば実際の年齢はもっと上だろう。
こればかりは想像がつかない。
物言いはちっとも可愛げが無いが、黙ってさえいれば、女神を自称しても五人に一人ぐらいなら、あっさり騙されそうな気もする。
「女神っていうのは悪くないけどぉ、『お調子者』とか『黙ってさえいれば』ってのが余計」
――むう……考えてる事を読まれるのは、やはり面倒だな。
亡霊がうんざりした顔をすると、ミーシャは愉快そうに、顔全体で笑った。
「あはははは。じゃあ、ちゃんと思い出すまでアンタのことは、レイって呼ぶことにする」
――レイ?
「うん、レイ。生霊だからレイ」
それはもう、びっくりするぐらいに考え無しだった。
脳を経由せずに脊髄反射だけで、口走ったのではないかと疑うレベルだ。
――ま、まあいい。それでいい。で、実際これからどうするのだ?
「ヌーク・アモーズへ向かうの」
――ヌーク・アモーズ?
「あらら、そんなことも覚えてないんだ? ヌーク・アモーズは人間の都、一番大きな都よ」
――ふむ。しかし、なぜエルフが人間の都などに……。
「理由はまだ言えない。それとも話によってはここで別れたい?」
――行くあてなど無いな。
「ふふ、ゴブリンだもんね」
ミーシャは、身の丈とは不釣り合いに大きな背嚢を拾い上げて背負うと、クスクスと笑いながら歩き出す。
――おい、待ってくれ。
ゴブリンの身体を乗っ取っている、レイと名付けられた亡霊。
その非常にややこしい存在は、二本の鉈を引き摺って、慌しく少女の後を追った。
◇◇◇
森は深い。
洞窟を出て既に半日、ずっと変化のない景色が続いている。
背の高い広葉樹の森。
濃厚な緑の臭い。
レイは両の手に鉈をひきずっている所為で、頻繁にぶつかる羽虫を払うことも出来ずに、顔を顰める。
黒土の地面を踏みしめると、足の下で小枝の折れる渇いた音が静かな森に響き渡る。
顔を上げれば、大きな背嚢が前を歩いていた。
前を行くミーシャは少しも躊躇すること無く、道なき道、木々の間を縫う様に進んでいく。
レイが『もしかして道に迷ってるんじゃないか?』ちらりとそう考えた途端、ミーシャは足を止めて振り返ると「迷ってないから」と、不機嫌そうに頬を膨らませた。
――なあ、そのヌーク・アモーズという町までは、どれぐらいかかるのだ?
「まだまだ遠いわよ。森は今日中に抜けられると思うけど……。それでも徒歩なら、あと二十日ほどはかかると思う」
――二十日か……それは随分遠いな。
「馬でも手に入れば別なんだけどね。この森を抜けたら、ディアボラ山脈。少し前までは山向うに抜ける隧道があったんだけど、今は塞がってるらしいから、山を越えなきゃ向こうに行けないの」
――塞がってる? 落盤事故でも起こったのか?
「塞いだのよ、人間自身の手で」
――塞いだ?
「そうよ。元々、ディアボラ山脈を挟んだ東側、つまり今私達がいるあたりも人間が住む土地だったんだけど、数年前に一気に魔物たちの生息域が拡大して、人間は山脈の西側に追い立てられちゃったのよ」
――つまり、魔物の手から逃れるために隧道を塞いだということか?
レイの問いかけに、ミーシャはこくりと頷く。
「そういうこと。まあもともと人間達の多くは、山脈の向こう側に住んでた訳だし、それ自体はどの程度深刻な話なのかはわからないけどね」
――魔物が勢いを増したのはなぜだ?
「私も聞いた話だから詳しくはしらないけど、何年か前に聖剣に選ばれた勇者が、魔王討伐に向かったまま帰って来ないんだって。虎の子の聖剣も一緒に行方不明。もう魔王を倒せる奴なんていないから、魔物たちはどんどん勢いづい……」
ミーシャの言葉が中途半端に途切れた事を不審に思って、レイが顔を上げると、彼女はまるで観察するかの様に、彼の事をまじまじと眺めていた。
――なんだ?
「なんでもない。不細工だなって思っただけ」
そう言い捨てると、ミーシャはさっさと先を歩き始める。
レイは思わず憮然と口を尖らせて、
――仕方ないじゃないか、ゴブリンだもの。
そう独りごちると、再び彼女の後を追った。
そこからは、レイがその勇者という奴の事を尋ねても、ミーシャは知らないの一点張り。
次第に話すことも無くなって、二人は黙々と森の中を歩いて行く。
更に二時間ほども木々の間を歩いていくと、緩やかに地面が傾斜しはじめ、遂には森が途切れた。
緑のトンネルを抜けた向こう側には、ゴツゴツとした岩が転がる山肌が見える。
見上げれば視界の左右、どこまでも続く長い尾根。
木々も疎らな峻険なる山々。
頂上は雲を衝き、頂上付近には万年雪が積もる寒々しい岩肌。
――ディアボラ山脈か……。
そう呟いたレイの脳裏を掠めた景色がある。
どこか高い建物の窓から、遥か遠くにある、この山脈を眺めていた。
覚えている。
ディアボラ山脈。
半島を東西に分断する天然の要害。
……半島?
――ミーシャ。ここは半島なのか?
「なによ、唐突ね……ああ、なにか思い出したのね。そうよ、ここは西大洋に突き出した大陸の踵。エルフはタロン半島って呼んでるわ」
そう答えると、ミーシャはまた観察するような目をして、レイを眺める。
――それは、まずいんじゃないのか?
人間は半島の先端の方へと、追い詰められている。
魔物たちが勢いを増して、この山脈を越えてくることがあれば、その先に逃げ場はない。
「だから、私が行かなきゃなんないのよ。って言っても、人間の国がどうなろうと知った事じゃないんだけど……」
ミーシャのその良く分からない物言いに、レイが思わず首を傾げると、夕暮れ近くの涼やかな風が吹き抜け、彼女は、その金糸の様な髪を手で押さえた。
「ねえ」
――なんだ。
「ここから先の事だけど、何があっても私の味方でいて欲しいの。無事目的を果たしたら、今度はレイの身体を探すのを手伝ってあげるから……。約束する」
――身体? 腐った死体など見つけられても困る。それとも、供養してもらえれば、消滅するなり、生まれ変われるなりするということなのか?
怪訝そうに眉間に皺を寄せるレイに、ミーシャはきょとんとした顔を向けた。
「何言ってんの? 生きてるわよ、アンタ」
――は?
「私が一度でもアンタが死んでるって言った? エルフは死霊と生霊を見間違えたりしない。アンタは生霊。つまり、アンタの身体は、まだどこかで生きてんのよ」