第二話 魂が覚えている。
――ああ、なんという懐かしい感触だろう。
亡霊は目の端に溜まる涙を、指先でそっと拭った。
だが、いつまでも感動に浸っている訳にはいかない。
足元に転がるゴブリンの死骸を見下ろして、その手からもう一本鉈を拾い上げる。
二本になったと言っても、みすぼらしい得物には違いない。
恰好がつく訳でも無い。
だが亡霊は、左右の手、それぞれに掴んだ得物の感触を確かめると、
――どうやら、私は元々こういうスタイルだったらしい。
そう胸の内で独りごちて、満足げに頷いた。
だが、亡霊は満足でもゴブリン達にしてみれば、堪ったものではない。
死んだはずの仲間が起き上がって、別の仲間を殺したのだ。
人間であっても大混乱を起こすであろう事態に、知能で劣るゴブリン達が即応できる訳もなかった。
少女のことなど、既にゴブリン達の意識の外。
呆気に取られた様な空白の時間が、暗い洞窟に居座っていた。
一際体格の良いゴブリンが、ハタと我に返る。
その一匹が「ぐぎゃ!」と声を上げて身構えると、他のゴブリン達も慌てて得物を構え直した。
静謐な洞窟の中に、次第に囲みを狭めていく、ゴブリン達のにじり寄るような足音が響く。
押し殺した呼吸音。
カンテラの灯りを宿して、爛々と輝く殺意に満ちた赤い目。
空白の時間をどこかへと追いやって、張り詰めた糸のような緊張感が、狭い空間に満ちる。
エルフの少女が表情を強張らせながら、ゴクリと喉を鳴らしたその瞬間、殺気が爆発的に膨れ上がった。
ぐぎゃぎゃあぁあ!
ゴブリンたちが口々に激しく叫び始め、限界まで膨れ上がった殺気が一気に破裂する。
凶悪に顔を歪めたゴブリン達が、得物を振り上げて、一斉に亡霊の方へと雪崩れ込んできた。
ぐぎゃああああああッ!
雄叫びと共に突き出される、錆びた短槍。
だが、
――遅い!
亡霊は軽く身体を傾けてそれを躱すと、突き出された腕を下から斬り上げ、即座に手首を返して、その一匹の首を刎ねる。
だが、それで終わりにはさせない。
更にその勢いを駆って身体を回転させると、背後から襲い掛かってきた連中の胴を横なぎに払う。
一匹、二匹、三匹ッ!
ところが、おそらく偶然なのだろう。四匹目は足を縺れさせて倒れ込み、斬撃が空を斬った。
――三匹どまりか。
やはり、この身体は動きが鈍い。
バランスが悪い。
フォロースルーの勢いに耐えきれずに、乗っ取ったゴブリンの身体がギシギシと軋む。
外れそうになる肩を庇って、亡霊がよろけたその瞬間、一番体格の良いゴブリン、おそらくこの群れのボスなのだろう。それが、石鎚を高く振り上げるのが見えた。
攻撃のタイミングとしては悪くない。
むしろ、これを狙っていたのだとしたら、大したものだ。
亡霊は他人事のようにそれを眺めながら、胸の内で独り、こう呟く。
――まあ、やられてやる事は出来ないが。
ぐぎゃあああああああッ!
咆哮とともに振り下ろされる石鎚。
野太い風斬り音が耳朶を打つ。予測? するまでもない。紙一重。反射神経だけでそれをあっさりと躱して、亡霊は跳躍する。
石鎚が何もない地面を穿って、苔もろともに石礫が飛び散った。
そして、亡霊が半ばまで地に埋もれた石鎚の上へと着地すると、ボスゴブリンは驚愕に目を見開く。
おそらく彼の目には、亡霊が突然現れた様に見えたのだろう。
――ふむ、キミ達もそんな表情が出来るのだな。
感心はするが、容赦はしない。
慌てて石鎚を引き抜こうとするボスゴブリン。だが遅い。亡霊は振り上げた鉈をその頭へと振り下ろした。
――あと一匹。
ボスゴブリンが倒れ込む音を背中で聞きながら、亡霊は先ほど胴薙ぎを躱した、残りの一匹へと目を向ける。
地面に転がったまま震えていたそいつは、見られていることに気づくと、ぐぎゃっ!? と短い声を上げ、手にした短槍を投げ捨てて逃げだした。
――逃がしてやっても良いのだが……。
亡霊は、坂道の方へと駆けていくゴブリンの背に、手にした鉈を力一杯投げつける。
「ぐぎっ!」
カンテラの灯りのほとんど届かない、暗がりの向こう側で、短い悲鳴が響いて、ゴブリンのシルエットが崩れ落ちた。
――仲間を呼ばれても面倒だからな。
これで終わり。あっけないものだ。
それは亡霊がゴブリンの身体を手に入れてから、僅か数十秒の出来事であった。
エルフの少女は、信じられない物を見たかの様に、ぽかんと口を開けたまま呆けている。
だが、亡霊が得物を振るって血を払うと、思い出した様に口を開いた。
「あ、あ、あんた! 一体何者なのよ?」
――今はゴブリンだと思うが?
そう答えようとしたのだが、亡霊の口からは、「ぐ」とか「ぎ」とか、くぐもった唸り声しか出てこなかった。
どうやら、ゴブリンの声帯では、人間の言葉は喋れないという事らしい。
だが、
「そういうことじゃない! 中身は何者かって聞いてんの!」
どうやらエルフの少女は、口に出さずとも亡霊の考えている事が分かるらしい。
考えてみれば、霊体の時点で意思の疎通が出来ていたのだから、今更驚くことでもない。
――ということは、乳が貧相だと思っていた事も、筒抜けということだな……。
「な、な、な、ひ、貧相で悪かったわね!」
エルフの少女は隠す様に胸を抱いて、身を捩る。
――冗談だ、冗談。本気にするな。
「ふ、ふん! エルフはね。元々みーんな、スレンダーなのよ。エルフの中じゃ、私大きい方だもの! 寧ろ巨乳って言ってもいいぐらいよ!」
――キミはエルフの仲間と、本物の巨乳の皆さんに謝った方がいいと思う。
「うるさい! うるさい! うるさい! で、結局何なのよアンタは! あんな剣術見たこと無いもん! どう考えたって普通じゃないわよ!」
――それは、寧ろ私が知りたい。気がついたらここにいたのだ。なんでここにいたのか、自分が誰なのか……全く分からない。
亡霊のその回答に、エルフの少女は片眉を跳ね上げて、急に思案顔になった。
そしてしばらく黙り込んだ後、ぼそりと呟く。
「ふーん、なるほど。そっか、あんだけ強いんだし、そういう可能性もあんのかぁ……」
――可能性?
「あ~なんでもないの。こっちの話。で、アンタ、これからどうすんの? まさかゴブリンの群れに戻るとか言わないよね」
――中身はゴブリンじゃ無いからな。
亡霊のその返答にくすりと笑うと、エルフの少女は喜色満面に、彼の顔を覗き込んだ。
「じゃあ! じゃあ! 行くあてが無いなら、しばらく護衛として私の旅に付き合ってよ? 使い魔ってことにして」
――使い魔?
「方便よ、方便。私、これから人間の都へ行くんだけど、使い魔ってことにでもしとかないと、ゴブリンの身体じゃ町に入れないでしょ?」
彼女の態度は気安過ぎる気もしないではないが、実際、他に行くあてもないのだ。
少女のその申し出は、亡霊にとってもありがたかった。
だが、亡霊は視線を上向けて少し考えると、一つ条件を付ける。
――飯を食わせてくれるのなら、引き受けてもいい。
エルフの少女は、一瞬きょとんとした表情になった後、
「良いわよ。じゃあ、交渉成立ね!」
そう言って、ニコリと微笑んだ。
実際、このゴブリンの身体は結構、腹ペコだったのだ。