第十九話 脱出
「まさか、レイを抱いたまま、女湯に入ってくるとは思わなかったわよ!」
「仕方ないじゃありませんか。このお姿の勇者様が、お一人で男湯に入れる訳ありませんもの」
「そうかもしれないけど! そういうことは先に言ってよね! そ、その……見られちゃったじゃないのよ!!」
――安心しろミーシャ。私は只の兎だ。何も見ていない。
「嘘つけ!」
――ウサギウソツカナイ。
「なんでカタコトなのよ! 只の兎だって主張する兎がどこにいんのよ!」
――ここにいるぴょん。
「語尾にぴょんつければ、兎っぽいわけじゃないんだからね!?」
二人と一匹は騒がしく言い争いながら、宿へと戻って来た。
戻ってくる頃には食堂には客の姿はなく、夕食を取れば後は寝るだけ。わざわざ外を出歩く用事もない。
ドナが寝間着に着替えるというので、ミーシャはレイを廊下に摘まみ出す。
野宿の時にはドナも着の身着のままで眠っていたのだが、流石にベッドで眠るとなると、修道衣のままという訳にはいかないらしい。
首元までボタンで閉じられたコットン生地のワンピースに着替え終わったドナを眺めながら、ミーシャは問いかけた。
「あんた、その髪飾りとらないの?」
「ええ、司祭様からは四六時中身に付けているようにと、言われておりますので」
「取ったら悪霊が出てきちゃう?」
「即座に出てくるという訳ではありませんが、まあ何があるかわかりませんから」
一方向にしか寝返りが打てないのは大変ね。
そう思いながら、ミーシャが扉を開けてレイを部屋へと招き入れると、レイは即座にベッドの端で丸くなって眠り始める。
「あらあら、勇者様もうお眠ですか? よろしければワタクシが添い寝してさしあげますけれど?」
――この部屋は暑い。
「暑いからいらないって。まあ、そうよね。野宿ならともかく、自前の毛皮着てんだもん。この上に更に毛布なんて被ったら、そりゃ暑いわよ」
「左様でございますか……」
なぜかしょんぼりするドナの姿を眺めて、ミーシャが溜息を吐く。
「あんた、コイツの中身が男だって忘れてない?」
「そ、そんなつもりはありませんが、勇者様にご奉仕するのがワタクシの役目ですから……」
ミーシャの問いかけに、ドナは僅かに目を泳がせる。
人は見た目が九割とはよく言ったもので、ゴブリン姿の時ならともかく、この兎の姿になってから、ミーシャ自身、レイの事をついつい愛玩動物のように扱ってしまっている。
二人はそれぞれベッドに入ると、ミーシャが脇机の上のカンテラへと手を伸ばした。
「あかり消すわよ」
「はい」
部屋が暗くなって、ミーシャが静かに目を閉じると、すぐに眠気が瞼の上に圧し掛かってくる。
だが、この調子ならすぐに眠れそうだと思った途端、ドナが話掛けてきた。
「耳長殿。まだ、起きておられますか?」
「うん、何?」
「ふと思ったのですけれど、勇者様は何者かに倒されて、生霊として漂っておられたというところまでは聞きましたが、その何者かというのは、もしかして魔王なのではありませんか?」
「覚えてないって言ってたわよ。何で?」
「勇者様のご一行の中でお一人だけヌークアモーズに戻って来られた方がいらっしゃいます。現在大司教を務めておられるライトナ様という方ですが、その方は魔王の城の第一階層までは、勇者様とご一緒だったと、そうお伺いしています」
「へえ、一応魔王の城までは到達してたのね。そのライトナってのはそこで引き返してきたの?」
「ええ、詳しい事はお伺いできておりませんが、勇者様の願いで、瀕死の仲間を連れて脱出されたとか」
「ふーん、っていうか、勇者って一人で魔王のとこにカチ込んだ訳じゃないのね?」
「はい。ワタクシが存じ上げているのは、ライトナ様と親衛隊長のバルタザール様。このお二人は勇者様と一緒にヌーク・アモーズを出発されたと聞き及んでおります。ライトナ様のお話では、旅の途中であと何人か仲間が加わったとか……」
「でも、そのライトナって人以外は行方不明ってわけね」
「ええ、ライトナ様が連れて脱出された方が、どこかにいらっしゃるはずです。ですが、勇者様はもちろん、バルタザール様も豪勇無双と言われた二刀流の使い手、そう簡単にやられるとは思えませんが……」
「二刀流……」
二本の鉈を振るうゴブリンの姿を思い出して、ミーシャはちらりとレイの方へと目を向ける。
その時、突然、風で窓がガタガタと音を立てた。
「なんでしょう? 昼間はあんなに天気も良かったのに、嵐でも近づいているのでしょうか?」
ドナがぼんやりとした調子で呟くと、ミーシャは慌しくベッドから身を起こした。
「違うわ! 悪霊女! 窓を開けて!」
「え? でも風が……」
「いいから早く!」
ドナは怪訝そうに身を起こすと、窓辺へと歩み寄り、僅かに窓を開く。
途端に音を立てて風が吹き込んできて、ミーシャは声を上げた。
「風精霊達が騒いでる。今すぐここを出て逃げろって警告してる! アンタ、早く着替えて!」
「は、はぁ?」
突然過ぎて、ミーシャがなにをそんなに焦っているのか分からず、ドナはただ小首を傾げた。
「早くしなさいよ、もう!」
「きゃ!?」
ミーシャは苛立ち混じりに、ドナのワンピースの裾を掴んで捲り上げた
「ちょ、ちょっと何するんです! 胸元のボタンが閉まってるんですから捲り上げたって脱げませんってば」
「うっさい! 良いから早く着替えなさいよ! レイ! 寝たふりしてんのは分かってるんだから! あっち向いてて!」
――バレてたか。
「分かるわよ。悪霊女と一緒に寝たくないから、眠ったふりしてたんでしょ」
――いや、一緒に寝たくないという訳では……。
「しょーもないニュアンスの違いなんか、聞いてる場合じゃないの! 悪霊女の身支度が出来次第、馬車まで走るわよ!」
ドナが着替え終わると、ミーシャはドナが脱いだ服を引っ手繰ると丸めて自分の背嚢に押し込む。
のんびり畳んでいる場合ではない。
風精霊の声は、もうほとんど悲鳴と言っても良いレベルにまで達している。
「レイは先行して! 悪霊女! アンタは最後尾をお願い」
――わかった。
「はい」
ミーシャの只ならぬ様子にドナは、口元を引き結んで頷く。
「行くわよ!」
ドアを開け放つと、レイを先頭に二人は廊下へと飛び出した。
深夜だと言うのに、足音を殺そうともせずに、そのままドタドタと階段を駆け下りる。
一階の酒場に降りると同時に、ドナがミーシャを呼び止めた。
「あの、ちょっと待ってください。宿代を置いていかないと……」
「バカ! そんなこと言ってる場合じゃないんだって! 踏み倒すのが嫌なら、ヌーク・アモーズについてから誰か使いでも寄越しなさいよ!」
「し、仕方ありません。神よお許しください!」
表通りへと続く正面玄関。
ミーシャがもどかしげに閂を引き抜くと、レイを先頭に一行は表へ飛び出した。
街中は静まり返っている。
星明りだけの暗闇が周囲を包み込んでいる。
――たしかに何者かの気配を感じる。
「馬車まで走るわよ!」
宿の裏手に周って馬車へ辿り着くなり、ミーシャは背嚢を荷台に放りこむ。
馬を繋いだままにせざるを得なかったのは、寧ろ幸いだった。すぐに出発できそうだ。
御者席に乗り込むと、ミーシャは脇に吊ったままのカンテラに手を伸ばして火を入れる。
だがその途端、馬車のすぐ脇、ミーシャのすぐ傍に、佇んでいる男の姿が浮かび上がった。
「きゃあああああ! ぐっ!?」
思わず悲鳴を上げるミーシャ。だが男は腕を伸ばすといきなりミーシャの首を締め上げた。
ミーシャは苦しげに顔を歪めながら、男を睨みつける。
見覚えのない顔。
――ミーシャ!
レイの声が脳裏に響いた次の瞬間、ミーシャの目の前を何かが横切った。
その途端、
「ぎゃああああああ!」
ミーシャの首を締め上げる両腕が切断されて、激しく血が噴き出す。男は悲鳴を上げながら、後ろへと倒れた。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
――大丈夫か?
「ええ、助かったわ」
喉元を押さえながら、ミーシャはドナへと振り返る。
「悪霊女、手綱をお願い!」
「わかりました! 出します!」
ミーシャが足元に落ちた男の腕を馬車から蹴り落とすと、ドナが手綱をしならせて、馬を出発させる。
「ふう……」
ミーシャが思わず額を拭うと、荷台の上にいるレイの声が脳裏に響いた。
――安心するには、まだ早いようだ。
背後を振り返れば、何人もの男達が、馬車を追って走ってくるのが見える。
「なんなのよあれ! ゾンビかグールでも紛れ込んでんの? この町は!」
――違うな、さっきの男は紛れも無く只の人間だった。