第十六話 女は灰になるまで乙女
――もうあと何日か、ここに居ても良いんじゃないか?
レイはベッドの方を振り返り、名残惜しげにそう主張した。
ゴディンのはからいで、昨晩の夕食は相当に豪華なものだった。
無論、それだけでは無い。
大きなお風呂に、一人に一つのベッド。
ミーシャと別々に眠れば、首を絞められる恐れも無い。
「ダメだってば! のんびりしてるような時間は無いのっ!」
そう言いながらミーシャは、大きな背嚢を背負って、廊下へと続く扉を押し開く。
――やれやれ。
レイは首を竦めて追いかけようとしたが、なぜかミーシャはドアノブを握ったまま、その場に立ち止まった。
――どうした?
レイがミーシャの脇から顔を覗かせると、部屋の前の廊下に、おかしなものが居座っているのが見えた。
「えーと…………ねぇ、アンタ。そんなところで何やってんの?」
ミーシャが戸惑いながら声を掛けると、廊下に蹲っているそれは、額を床に擦り付けるようにして、声を潤ませた。。
「勇者様! 昨日は! 誠に申し訳ございませんでした! 身の程知らずにも勇者様に刃向おうとは、ワタクシが愚かでございました!」
それは白い修道衣姿の女性。
昨日、レイと死闘を演じたトアナベの亡霊――ドナ・バロットであった。
「ちょ、ちょっと、アンタ、大袈裟! 大袈裟すぎるわよ! 大丈夫、私たちはなんとも思ってないから。ね、レイ」
――ああ。
ミーシャがあたふたしながらそう声を掛けると、ドナは静かに顔を上げた。
肩の辺りで切り揃えられた髪に、やけに大きな薔薇の髪飾り。
昨日仰け反って奇声を上げていたのと同一人物とは思えぬ、おっとりとした顔立ち。たれ目がちな優しい瞳が潤んで、微かに揺れている。
彼女は、じっとミーシャを見つめると、申し訳なさげに小首を傾げた。
「耳長殿、申し訳ありませんが、ワタクシは別にアナタに謝っている訳ではございません。そこをお退きいただけると、ありがたいのですけれど?」
ミーシャの動きがピタッと止まる。
そして、ドナの発言を反芻する一瞬の間を置いて、彼女は声を荒げた。
「な!? ちょっと! なんなのよ、その言い草! 私だってアンタに殺されかけたのよ!」
「まあ、それは不幸な事故ということで。それはともかく、退いていただけませんか?」
「な、な、な……!」
思わず拳を震わせるミーシャ。
このまま放っておけば、碌なことにならないのは、火を見るよりも明らかである。
溜め息混じりに、レイがミーシャの脇を擦り抜けて廊下へと歩みでると、
「勇者様!」
ドナは、慌てて再び床へ額を擦り付けた。
――ミーシャ。とりあえず『気にするな』と伝えてくれ。
「何で私がそんなこと、言ってやらなくちゃなんないのよ!」
――このままでは、話が進まないだろう?
「ああっ! もう!」
ミーシャは恨めしげにレイを睨みつけるとドナを見下ろして、投げやりに言い放つ。
「……気にするなって言ってるわよ。アンタんとこの勇者は!」
途端に、ドナは弾かれるように顔を上げた。
じっと見つめてくるドナに、レイが一つ頷くと、彼女は蕩ける様な笑みを浮かべる。
「感謝いたします! 勇者様ぁ!」
「いくわよ、レイ」
ムスッと頬を膨らませたミーシャが、ドナの様子を横目に見ながら、そう声を掛けた途端、ドナは唐突に手を伸ばすと、目の前のレイを赤子のように抱きかかえた。
「は!?」
そして、彼女は呆気に取られるミーシャを顧みることもなく、そのままさっさと廊下を歩き始める。
「では、勇者様、ゴディン殿が西門に馬車を用意してくださっておりますので、そちらへご案内いたします。もし何かご要望がございましたら遠慮なく、このワタクシにお命じくださいませ」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ! アンタ! 何すんのよ! レイを離しなさいよ!」
肩を掴むミーシャを振り返って、ドナが小首を傾げる。
「何を言ってるのです。耳長殿。馬車を用意してある西門までは、かなり距離があるのです。勇者様の足が疲れてしまったらどうするのですか」
「どうもしないわよ! 過保護か!」
――私はこのままでもかまわない。楽だし。
「アンタも、なんであっさり受け入れてんのよ!」
ミーシャがレイに指を突きつけると、ドナは彼に憐れむ様な目を向けた。
「勇者様、耳長殿に、こき使われてこられたのですね。お可哀そうに。あれはきっとサドです。サド」
「誰がサドよ!」
ぎゃあぎゃあと騒がしい二人と一匹が西門へと辿り着くと、そこにはゴディンとソフィーが待ち受けていた。
ゴディンの姿を見つけると、ミーシャはいきなり彼に詰め寄る。
「ちょっと! 何なのよ、あの悪霊女は!」
「いや、姫……彼女のことを、わ、私に仰られましても……」
それはそうだ。ドナはゴディンの部下ではない。
寧ろ、聖職者である彼女の方が、社会的地位でいえば、上だと言っても過言ではないのだ。
苛立つミーシャの姿を眺めながら、ゴディンの背後で、ソフィーは密かにほくそ笑む。
ドナ・バロットめ、なかなかどうして、上手くやっておる様では無いか、と。
「と、ともかく、姫のご要望どうり二人乗りの荷馬車をご用意いたしました。あと、剣二本と数日分の食料は、木箱にいれて既に荷台に積み込んでおります」
ゴディンが、たじたじと後ずさりながらそう告げると、
「まあ、アンタにはお世話になったわね。お礼を言っておくわ。あのちびっ子と悪霊女さえいなければ、もっと気分よくお礼も言えたんだけど……」
ミーシャはそう言って、唇を尖らせる。
そして、つかつかと馬車の方へと歩み寄ると、荷台に背嚢を放り込み、ドナに抱えられたままのレイに向かって声を上げた。
「行くわよ! レイ! モタモタしないのっ!」
そう言って、腹立たしさも露に馬車に乗り込むと、背凭れに身を投げ出して、憤然と腕を組んだ。
レイが乗り込んでくるのを口を尖らせながら待っていると、どういう訳か、レイを胸に抱えたままドナが馬車へと乗り込んでくる。
「ちょ!? なんでアンタまで乗り込んでくんのよ!」
思わず馬車の上で立ち上がるミーシャを見上げて、ドナは不思議そうに首を傾げた。
「あら? お聞き及びではございませんでしたか? ここからはワタクシも同行させていただく事になっておりますけど……」
「なっております……じゃないわよ! 何をどうやったら、そんなミラクルな話になんのよ!」
ミーシャがギロリとゴディンの方を睨みつけると、彼はソフィーの背中に隠れるように身を竦める。
まあ、身体のサイズが違い過ぎて、全く隠れられてはいないのだが。
「兵士の皆さんにトアナベの悪霊とバレてしまっては、この砦に居座る訳にも参りませんし、ヌーク・アモーズを目指すのであれば、神官のワタクシと一緒なら、道中いろいろと便宜をはかっていただけると思いますので、耳長殿にも恩恵はあるのではないかと……」
「ああああ、もう! じゃ、じゃあ、せめて三人掛けの馬車を用意しなさいよ。アンタ、ずっとレイを抱きかかえて旅する気?」
「はい、そのつもりですけど? 長時間の馬車移動で、勇者様がお尻を痛められては一大事ですし」
「過保護!? どんだけ過保護なのよアンタ! レイ! アンタもなんとかいいなさいよ!」
――良いではないか。柔らかいし。
「このダメゴブリン!!」
ミーシャが足を踏み鳴らして地団駄を踏むと、ソフィーとドナがちらりと目を見合わせる。
そして、
「それでは馬車を出します」
「あ、わ、わ、わ! ちょ、ちょっと!」
立ち上がったままのミーシャに構うことなく、ドナは手綱を握って、馬を出発させた。
「危ないじゃない! お、落ちたらどうすんのよ! 馬鹿ッ!」
「別にどうもいたしませんけど?」
「きーーーっ!!」
◇◇◇
ぎゃあぎゃあと言い争う女達の声が、風に乗って聞こえてくる。
遠ざかって行く二人と一匹を載せた馬車を眺めながら、ゴディンが虚ろな目をして、不安げな声を洩らした。
「大丈夫なのだろうか……司祭殿」
「ははっ、お主も心配性じゃのう。ドナ・バロットには封印の魔法を施した髪飾りを身に付けさせておる。以前の封印ほどではないが、そう簡単に悪霊が目覚めることもなかろうて」
「いや、私が心配しているのは、そこでは…………まあ、ともかく、勇者様がご帰還なさられたとなれば、王もお喜びになりましょう。これで我が国も安泰ですな」
ゴディンのその一言に、ソフィーは呆れるように肩を竦めた。
「あのなぁ……お主。アレは勇者などではないぞ」
「え? それは……どういう意味です」
「そのままの意味じゃよ。勇者の強さは『聖剣が使える』ということ、その一点のみじゃ。昨日、ドナ・バロットと戦っておった時、あのゴブリンは聖剣を使っておったか?」
その一言に、ゴディンは思わず息を呑む。
「勇者は……イノセ・コータは、お主らも知っての通り、別の世界から来た只の書生じゃ。聖剣の力が無ければ、ドナ・バロットどころか、その辺の兵士達にすら太刀打ちできぬよ」
「で、では、そこまで分かっていながら、なぜバロット殿を一緒に行かせたのです」
「まあ、渡りに舟という奴じゃな。トアナベの悪霊をこのままここに置いておく訳にはいくまい。兵士の士気に関わるからのう。それに、たとえ勇者でなくとも、あの強さは役に立つ。味方につけておくに越したことはあるまいて。まあドナ・バロットには、酷いことを命じたという自覚はあるがのう……」
ソフィーが自嘲する様に口元を歪めると、ゴディンは既に豆粒の様に小さくなった馬車の方へと目を凝らし、溜め息を吐いた。
「……そういえば、勇者様を最初に発見されたのは、司祭殿でありましたな」
「そうじゃ、アレはなかなか情けない男でな。最初見つけた時には大聖堂の隅でメソメソと泣いておったわ。見慣れぬ奇妙な服を着て、男の癖に剣を握ったこともないような綺麗な手をしておったよ」
ソフィーは懐かしむ様な、どこか遠い目をする。
その横顔をじっと見つめて、ゴディンは静かに問いかけた。
「もしや……司祭殿は勇者様と、恋仲であったのではありませんか?」
その一言に、ソフィーは急に目を白黒させて慌て始めた。
「な!? ば、馬鹿を申すでない。幾つ歳が違うと思っておるんじゃ、儂にとってはアレは孫みたいなものじゃ。それにお主は知らぬだろうが、王は……奴が、コータが魔王を倒した暁には、オーランジェ様との婚礼を用意しておったのじゃぞ!」
「へー、左様でございますか」
「へーって……お主、信じておらぬな? まったく。何を勘違いすれば、そうなるのやら」
ソフィーはバカバカしいと言わんばかりに、肩を竦める。
だが、どこか白々しい声音で、ゴディンは言った。
「噂ですな。司祭殿が勇者様と常に一緒におられたのは、ヌーク・アモーズで知らないものはおりませんし、司祭殿が大司教位を投げ捨てられたのも、勇者様が行方不明になってすぐのこと」
「た、たまたまじゃ!」
「なるほど、たまたまですか。司祭殿が、自ら魔王領に最も近いこの砦に来られた時には、愛する勇者様を探しに来られたのだと、兵士達の間で随分噂になったものですが」
「馬鹿げたことを、そういうのを下衆の勘繰りというのじゃ。さっきも言った通り、奴と儂では、歳に差が有り過ぎると言っておろうが」
ソフィーが背を向けて建物の方へと歩き始めると、ゴディンはその背中に向かって語り掛けた。
「司祭殿、私の叔母は恋多き女でございましてな。まあ、最後の最後まで親族全員を振り回した碌でもない叔母でしたが、彼女が申しておりましたよ」
世間話でもするようだったゴディンの声音が、急に言い聞かせるようなニュアンスを帯びる。
「『女は灰になるまで乙女』なのだと」
その一言に、ソフィーの耳が瞬時に真っ赤に染まるのが見えた。
「うるさい! うるさい! 痴れ者が! それ以上、要らぬことを口にするようであれば、お主を背教者として教会に報告してやるからな!」
ジタバタと足を踏み鳴らしながら、恨めしげな目を向けるソフィー。
ゴディンは、それを微笑ましげに眺めて目を細めた。
「それは……照れ隠しにしては、凶悪過ぎますな」
門の外、初夏の木陰で調子はずれの蝉が、ジリっと一節だけ鳴いた。