第十五話 バックドロップと男女の関係
「よし、お主! そのまま離すで無いぞ!」
そう声を上げて、ソフィーが駆け寄ろうとした途端、ドナは身体を大きく仰け反らせて叫び声を上げた。
「きゃあああああああああああああああああ!」
宙に向けて発せられたそれは、まるで天を威嚇する獣の如き絶叫。
人の喉から発せられたとは到底信じられぬ、金属に爪を立てるような叫び声。
「な、なんじゃ!?」
「なんなのよ!?」
ソフィーは思わずたじろぐように足を止め、ミーシャは尻餅をついたまま、耳を塞いで身を捩る。
その余りの不穏さに、レイが手にした靄の一端を強く握りしめたその瞬間、ドナをとりまくその黒い靄が、長らく放置された漆喰の様に凝固し始め、遂にはボロボロと音を立てて崩れ落ちた。
「バ、バカな!? 解呪じゃと!?」
高位の聖職者のソフィーの目には、それは魔法の効果を打ち消す神聖魔法に見えた。
「悪霊が神の奇跡を行使するとは……悪い冗談もほどほどにしてほしいものじゃな」
ソフィーは頬を引き攣らせて、ジッとドナの挙動に目を凝らす。
大きく口を開けたまま、宙空にぼんやりと視線を泳がせていたドナは、唐突にグリンと首を捻った。
その視線の先にいるのは、一匹のゴブリン。
彼女は自分を拘束していた者の姿を見つけると、ニタリと口元を三日月の形に歪めて、「あああ……」と声を上げながら、小刻みに身体を震わせた。
怒りとも歓喜とも取れるその挙動を、ソフィーとミーシャは息を呑んで見守る。
息を吸う事すら憚られるほどの張り詰めた空気が満ちる。
だが、それを破ったのもドナだった。
彼女は大槌を振るって、弾かれる様にレイへと襲い掛かったのだ。
迅雷のごとき、おおよそ人間離れした踏み込み。
――くっ!
レイが身体そのものを投げ出して、紙一重でそれを躱すと、大槌が激しい破砕音を撒き散らして、背後の壁面を穿つ。
「ひいいいい!?」
途端に上擦った悲鳴が響き渡った。
無論、レイのものではない。
壁の向こう側、建物の中へと避難していた兵士達が、悲鳴を上げたのだ。
レイが転がりながら大きく距離を取ると、ドナは砕けた壁面から大槌を引き抜き、再び風に吹かれる柳のように、ゆらりとレイへと向き直る。
瞳孔の開ききった死人の様な目。口の端は吊り上がり、彼女の顔には、どこか道化師めいた不気味な笑顔が形作られていた。
ドナは、ゆらゆらとおぼつかない足取りで、レイの方へと歩み寄ってくる。
大槌を引き摺る耳障りな金属音が、壁にぶつかって反響した。
レイは静かに拳を握る。
彼の手にもう剣は無い。
二本ともへし折られてしまった。
焦りの色を表情に浮かべて奥歯を噛むミーシャ。
ドナの姿を視界の端に捉えながら、レイは、胸の内で彼女に呼びかける。
――次に襲い掛かってくる前に、こちらから仕掛ける。そのお子様司祭に伝えてくれ。私があいつの動きを止める。その隙になんとかしろ、と。
「……勝ち目はあるの?」
――信じろ。
ミーシャは目に力を込めて頷くと、ソフィーの方へと向き直る。
「もうすぐ悪霊女の動きが止まるわ! アンタ! その隙になんとかしなさい!」
「なんじゃと?」
ソフィーの緊張の表情に戸惑いの色が混じったその瞬間、ミーシャの脳裏にレイの声が響いた。
――這い出よ! 闇人形!
下から上へと、まさに何かを引っ張り上げるかのような挙動。
途端に、レイの足下でボコボコと音を立てて、影が泡立ちはじめた。
だが、ドナに足を止める気配はない。
次第に気泡は大きくなり、遂には、そこから次々と人の形をした黒い靄が這い出しはじめる。
その人の形をした靄は、レイの影から音も無く抜け出すと、身もだえながら、ドナの方へと這い寄っていく。
「うわぁ……」
絵画として描けば『亡者の行進』とでも表題がつくであろう壮絶な光景に、ミーシャが眉をハの字に下げ、寒さを堪えるように自分の身を抱く。
迫りくる黒い人型を前に、それまで揺らめいていたドナがピタリと動きをとめた。
そして、再び空を仰ぎ見ると、
「きゃあああああああああああああああ!」
身の毛もよだつような叫び声を上げながら、狂った様に黒い人型に向かって、大槌を振り回し始めた。
だが、大槌は、ただ空を斬るのみで、黒い影は揺らめきながら、次々とドナへと纏わりついていく。
「ど、どうなるのじゃ……」
ソフィーが思わずゴクリと喉を鳴らす。
ところが、次の瞬間、
唐突に、余りにも唐突に、黒い人型は消え去ってしまった。
それも一瞬にして、跡形も無く。
「「は?」」
思わず、ポカンと口を開けたまま固まるソフィーとミーシャ。
「お、お、お、お主! なんじゃアレは! こけ脅しではないか!」
思わず、ソフィーがレイの方へと声を荒げる。
だが、そこには既にレイの姿は無い。
ソフィーが慌てて左右を見回したその瞬間、彼女の視界の隅で、突然、ドナの身体が宙へと浮き上がった。
見れば、いつの間にかドナの背後に周ったレイが腰へとしがみついて彼女の身体を持ち上げている。
大袈裟なあの人型の靄は、只の囮。
「きゃあああああああああああああ!」
絶叫を上げながら、必死にもがくドナ。
だが、レイは彼女の腰をがっしりと捕まえて離さない。
そして、
――歯を食いしばれ。
次の瞬間、レイは身体を大きく反らせて、ドナの身体ごと勢いよく後ろへと倒れ込んだ。
「ぎゃっ!?」
ドナの口から短い悲鳴が零れ落ちた次の瞬間、ガンッ! と激しい衝突音が響き渡る。
「お、おい! お主!」
「レイ!」
ソフィーとミーシャが、思わず目を丸くする。
彼女達の視線の先、そこには身体を大きく仰け反らせ、ブリッジするゴブリンが、ドナの頭を床に打ちつけたままの態勢で固まっていた。
一瞬の静寂。
呆気に取られていた二人が、思わず目を見合わせた途端、
「ぎゃああああああああ!」
再び、ドナが叫び声をあげてもがき始め、レイは必死の形相で、腰を掴んだまま力を込める。
――ミーシャ!
「あ、アンタ! は、早く! なんとかしなさいよ!」
「何とか、何とか、うるさいわい!」
ハタと我に返ったソフィーは、つんのめりながら慌ててドナの方へと駆け寄る。
そして、暴れる彼女の額に手を翳して、高らかに声を上げた。
「主よ! 応え給え! 悪しき者、穢れし者を絡め給え!――セイクリッド・シール!」
彼女の手から光が溢れ出し、それに触れた途端、ドナの身体がビクン! と大きく跳ねる。
やがて、弛緩するように、ドナの両腕が床へと垂れ落ちて、遂には身じろぎするのをやめた。
「……死んだの?」
背後から歩み寄って来たミーシャが、肩越しにドナの顔を覗き込むと、ソフィーは小さく首を振った。
「死んではおらん。悪霊を抑え込んだだけじゃ。じゃが、この封印は一時的なものでしかないからの。すぐに礼拝所に運び込んで、ちゃんとした儀式をやりなおさねばならん」
「ふーん……そうなんだ」
ミーシャは感心なさげに唇をとがらせると、ドナの下敷きになっているレイの方へと視線を向ける。
「ご苦労様」
彼女がそう言って微笑むと、レイは大きく溜め息を吐いてこう呟いた。
――……約束する。二度と女の髪は切らない。
◇◇◇
「い、痛っ……」
目を覚ました途端、ドナは鋭い痛みを覚えて頭を抱えた。
「気づいたようじゃの」
「司祭様……?」
見回せば、ここは礼拝所。
彼女は、その祭壇の前に横たわっていた。
どれぐらい意識を失っていたのだろう。
ステンドグラスの向こうから、夕陽が差し込んで床に赤味がかった影絵を描いている。
ぼんやりとしていた意識が覚醒していくにつれ、ドナは自分の身に何が起ったかを理解しはじめる。
そして彼女は、悔しげに奥歯を噛みしめた。
「も……申し訳ございません。また、ワタクシは……」
「不可抗力じゃ。お主が悪い訳ではない。強いていうなら、悪いのはあのゴブリンじゃの」
「しかし……」
「そのまま寝ておれ。実際、あらためて封印は施したが、誓約を媒介にしたものとは比べるべくもない。じゃが、一度誓約を破ったものは、二度と誓約を媒介にすることはできんからのう、仕方あるまいて」
「お手を……わずらわせて、申し訳ございません」
ドナが再び項垂れると、ソフィーは小さく首を振る。
「かまわん。ところでドナ・バロット。お主、悪霊に支配されている間の記憶は?」
「……ございます」
何から何まで覚えている。
今も、脳裏に焼き付いた遠い記憶。自らが手に掛けた両親の恐怖の色に染まった最後の表情が、ドナを絶え間なく責め立てていた。
「では聞くが、あのゴブリンは本当に勇者じゃと思うか?」
「ワタクシは勇者様と直接の面識はございませんので。何とも……ですが、あの強さはそうとしか……」
「……そうか」
ソフィーは眼を閉じて、考え込む様な素振りを見せる。
窓から差し込む赤い陽光に染められた彼女の横顔には、僅かに逡巡する様な様子が、見え隠れしている。
やがて、ソフィーは押し殺した低い声でドナへと告げた。
「ドナ・バロット。残念ながら、お主をもうこの砦に置いておくことは出来ん。兵士達はトアナベの悪霊の名に怯えて、まともにお主と話すこともできんじゃろうからな」
「はい……」」
「そこでじゃ。お主に一つ、頼みがある」
「頼み……でございますか?」
「お主には、あの耳長どもに同行してもらいたい」
「同行?」
「そうじゃ。お主は耳長と、あのゴブリンの関係をどう見る?」
「どうと言われましても……」
「儂は、あやつらは既に男女の関係にあると見た」
ドナが、思わず目を見開く。
「だ、男女の関係って、ゴブリンですよ!?」
「耳長もゴブリンもどっちも精霊のなれの果て。似たような者じゃろうが」
ミーシャが聞いたらブチギレるであろう科白を吐き捨てて、ソフィーは更に話を続ける。
「お主も見たじゃろう? あやつらは口に出さずとも、互いの思うところを察し合っておる。さながら夫婦のようじゃ」
「確かにそうですけれど……」
「あのゴブリンが勇者だというのであれば、それを耳長なぞに奪われておるこの状況は、由々しきこととは思わぬか?」
「それは……仰る通りです」
ソフィーの言うことは良くわかる。
だが、だからと言って、どうせよというのだ。
無理に引き離そうとすればするほど、勇者は反発するのではないだろうか?
ドナが戸惑いの表情を浮かべると、ソフィーは彼女の耳元へと顔を寄せて囁いた。
「籠絡するのじゃ」
「は?」
ドナは思わず目を見開く。
「幸いにも敵は、少々整った顔立ちをしておるが、ぺったんこじゃからのう。お主の豊満な肉体をもってすれば、さほど難しいことではあるまい」
「いや……あの……ワタクシは、まともに男性とお付き合いをしたことも……」
「心配するな。なにも、あやつに最後まで許せと申して居るわけではない。このまま放っておけば、あやつは我が国を救うことよりも、あの耳長とともに、行くことを選ぶじゃろう」
「勇者様に限ってそんなことは……」
「あるのじゃよ。お主は恋の恐ろしさを知らぬ。恋とは熱病のようなものじゃ。地位も名誉も、その前には芥も同じ。損得も考えずに、愚かと知りながらも、理屈に合わぬ振る舞いをさせる」
そう言って、ソフィーはどこか寂しげに目を伏せた。
「のう、ドナ・バロット。儂に、お主の信仰心を見せてくれぬか」
赤い夕陽に照らされて、祭壇の上に神を示す十字が浮かび上がっている。
ドナは静かに顔をあげると、その十字を見つめたまま、静かに頷いた。
「……わかりました。神の化身である勇者様にお仕えできることこそ、ワタクシの喜びでございます」
この時、二人が気づくことはなかったが、窓の外で聞き耳を立てる者がいた。
子供の様な体躯のそれは、ばさりと翼を広げると夕闇に溶ける様に、ディアボラ山脈の向こうへと飛び去って行った。