第十二話 アンタたちの勇者
「ふ~ふ、ふふふ~♪」
ハノーダー砦、北側の一隅に設けられた礼拝所。
そこに、軽やかな鼻歌が響いていた。
白地に青の十字を大きくあしらった修道着姿の女性が独り、モップを手に礼拝所の石畳の床を磨いている。
年の頃は二十代前半。
通常、修道女達が被る頭巾は身に付けておらず、後ろで一つに編み上げられた長い黒髪が、腰の下にまで垂れ下がっている。
ゆったりとした修道衣から僅かに覗く肌は、雪の様に白く、たれ目がちの黒い瞳は優しげで、見るからに淑やかな雰囲気を纏っていた。
「うふ、こんなものかしら」
そんな彼女が腰に手を当て、満足げに周囲を見回したその時、
「バロット様!」
と、礼拝所の扉を開けて、数人の兵士達が飛び込んで来た。
「あらぁ、皆さん、どうかなされまして?」
そう言って彼女が目を向けると、兵士達が一人の兵士を担ぎ上げているのが見えた。
「こいつが、訓練中に足を折っちまったんです」
「まあ、大変! そこの長椅子に下ろしてあげて、そーっとよ」
負傷した兵士は椅子の上に下ろされると、呻きながらそこに横たわり、彼女はその脇へと跪いた。
「痛んだら、言ってくださいね」
そう囁きながら、彼女が兵士のズボンの裾を捲り上げると、右足の足首が踝の位置が分からなくなるほどに、赤黒く腫れあがっていた。
「ああ、可哀そうに」
彼女は兵士の手を握ると、
「よしよーし、痛いですねぇ、もうちょっとだけ我慢してくださいねぇ」
と、まるで赤子をあやすかのように囁きかけ、負傷兵は目尻に涙を浮かべながら、こくこくと頷く。
彼女はたれ目がちの目を細めて微笑むと、腫れあがった足首へと静かに手を翳した。
「主よ、祈りに応え給え、善き物に善なる恩寵を垂れ給え――キュア・インジュアリー」
祈りの言葉の終わりと共に、彼女の掌から温かな光が溢れ出る。
それは、高位の聖職者のみが使える、治癒魔法であった。
横たわる兵士の表情が、次第に穏やかなものへと変わっていく。
やがて光が消え去ると、彼女は「ふう」と小さく息を吐いた。
あれほど腫れあがっていた兵士の足首は、既に負傷していたことすら分からぬほどに、元の状態へと戻っている。
「これで、とりあえずは大丈夫だと思いますけど、二、三日は無理しちゃだめですよ。今日一日は、宿舎のベッドでじっとしててくださいね」
「あ、ありがとうございます。バロット様」
「お気になさらないでください。皆さんはこの国を守る大事なお役目のある身。この善き国、神の教えの護り手なのですから」
そう言って彼女が微笑みながら小首を傾げると、周囲で事の成り行きを見守っていた兵士達が、一様にぽーっと惚けたような表情を見せた。
「……女神様みてぇだ」
兵士の一人が上の空でそう呟くと、彼女はすこし困った様な顔をした。
そして、
「神は唯一絶対の存在で、男性でも女性でもありません。女神などという邪教の神のことは、もう、口にしてはダメですよ」
と、優しく窘める。
窘められた兵士が、思わず気まずそうな顔をした途端、城門の方角から、激しく銅鑼を打ち鳴らす音が聞こえてきた。
「やべっ! 団長が帰って来ちまった!」
「早すぎやしねぇか?」
「知らねぇけど、とにかく! 油を売ってると思われたら、調練のおかわりが来るぞ!」
「ひー! それは勘弁!」
兵士達がバタバタと慌てて駆け出すと、それを苦笑ぎみに眺めていた彼女は、先ほどの負傷兵までが走って出て行ったのに気が付いて、慌てて声を上げた。
「こらぁ! 走っちゃダメですってばぁ!」
急に静かになった礼拝所。
そこに独り取り残された、彼女の溜め息が転がり落ちる。
「もー……悪化しなければ良いんですけど」
石畳の目地を眺めながら、そう独り言ちると、彼女の視界の端、扉の辺りで、白いものがはためくのが見えた。
静かに顔を上げると、そこには扉に寄りかかる修道衣姿の幼女の姿がある。
「司祭様?」
「ドナ・バロット。お主にも同席して貰おうと思ってな」
「同席? どなたかお越しになられたのですか?」
修道女――ドナ・バロットが小首を傾げると、幼女は苦虫を噛み潰した様な顔でこう言った。
「ああ、招かれざる客じゃよ。何を考えておるのかは知らぬが、用心はするに越したことはないからのう」
◇◇◇
「悪趣味ぃ……」
武骨なハノーダー砦の外観からは想像のつかない、白壁に金細工の薔薇をあしらった豪奢な部屋。
王族の視察の際に使われるその部屋へと通されたミーシャは、思わず頬を引き攣らせる。
自然と共に生きるエルフの彼女からしてみれば、ゴテゴテと飾り付けられたこの部屋は、不自然の極みとしか言いようが無い。
だが、不満げな顔をしながらも、彼女はソファーの上へ、えいやと身を投げる。
「でも、このソファーは悪くなーい」
そして、横たわれば自然に腰が沈むほどふかふかのソファーの感触に、目尻を下げた。
――はしたないぞ、姫。
「次に姫なんて呼んだら、ぶっ飛ばすわよ」
ミーシャは、ソファーの脇に立ったままのレイを、ギロリと睨みつける。
だが、レイに露ほども怯む様子はない。
――で、どうするのだ?
「何が?」
――旅路を急ぐ必要があるのかどうか。すぐにここを出るのかどうかだ。
「そうね……」
ミーシャは天井を眺めながら、考える素振りを見せる。
「今日はここに泊めて貰って、明日の朝出発ってことにしない? お風呂入りたいし、ひょろひょろに頼めば、馬車ぐらい貸してもらえると思うわ」
――ゴディンと言ったか。しかし、ひょろひょろという呼び名は違和感がすごいな。
寧ろ、ガチムチとでもいう方がしっくりと来る。
「あはは。でも、本当に女の子みたいだったのよ、二十年前は。信じてもらえないかもしれないけど」
――信じたくない。というのが本音だな。
フードの奥でレイが眉間に皺を寄せる気配を感じとって、ミーシャは思わず苦笑した。
「で、泊まるってことになると、うっかりアンタの顔を見られたりしたら騒動になっちゃうから、先にバラしちゃうことにするわ」
――大丈夫なのか?
「そこは、このミーシャちゃんにおまかせ! ただちょっぴりハッタリをかますから、話を合わせてよね」
――心配せずとも、キミ以外の人間とは話が出来ない。
「分かってるわよ。態度よ。態度。私が何を言っても、平然としててくれればそれで良いから」
そう言いながら、ミーシャが身体を起こすのとほぼ同時に、扉の向こう側から、「姫! 失礼します!」という、ゴディンの鯱張った声が聞こえた。
扉が開くと、ゴディンの後について、二人の人物が部屋へと入ってくるのが見えた。
二人とも、ゆったりとした白の布地に、青い十字を大きくあしらった修道衣姿の女性。
――子供?
二人のうち一人は、年端も行かない子供。
少なくとも、レイにはそう見えた。
頭巾の間から覗く栗色の巻き毛に、榛色の真ん丸な瞳。
黙って座っていれば、陶器人形と見紛う様な、整った顔立ちをしている。
もう一人はというと、二十歳を少し越えたぐらいだろうか。
旧家のお嬢様を思わせる、淑やかな雰囲気の女性。
修道女特有の頭巾は被っておらず、後ろで編み上げた髪が、長く腰の下にまで垂れ下がっているのが見えた。
ちらりとミーシャの様子を窺うと、どういうわけか、彼女は苦虫を噛み潰した様な顔をしている。
「姫は面識がお有りだと思いますが……」
ゴディンがそこまで言ったところで、ミーシャはそれを遮って、
「何で、アンタがここにいんのよ!」
と、幼女に指を突きつけた。
「おやまあ、二十年ぶりの再会じゃというのに、いきなり喧嘩腰とは、エルフというのは、本当に野蛮じゃのう」
「うるさい! 相手によりけりよ。そもそも大司教がこんなとこに出張って来なくちゃいけないくらい切羽詰まってんの? アンタ達」
――大司教? この幼女がか?
「ん? そうか。前に会うた時は、大司教じゃったか。ふむ、大司教という職はなかなか退屈でな。飽きたんで人に任せて、今は従軍司祭として、この砦に駐留しておる」
「飽きたとか……流石はインチキ宗教ね」
ミーシャがそう言った途端、幼女の後ろにいる、もう一人の女性の眉がピクリと跳ねた。
「これこれ、儂のことを揶揄するのは構わんが、我らが神を愚弄すると、命の保証が出来なくなるぞ」
そう言って、幼女が肩を竦めると、ミーシャも負けじと大袈裟に肩を竦めた。
「やれるもんなら、やってみなさいよ。そもそも二十年たっても、何一つ変わってないなんて、ほんとにアンタ、人間? 実は魔王の手下とかなんじゃないの?」
――なるほど、見た目通りの年齢ではないということか。
レイが胸の内でそう呟くのと同時に、幼女の背後で黒髪の女性が、微かに声を震わせた。
「し、司祭様……」
顔にはここへ入ってきた時と変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべてはいるが、彼女のこめかみのあたりは、ピクピクと震えている。
だが、幼女は溜め息混じりに首を振って、ミーシャへと向き直った。
「儂が歳を取らぬのは、唯一絶対の神の僕であるが故じゃ。お主の方こそ、二十年も経つというのに、相変わらずぺったんこじゃの」
「な!?」
思わず身を捩るミーシャを眺めて、幼女はカラカラと笑った。
「あ、あんただって、似たようなも……」
だが、ミーシャが声を上げるのとほぼ同時に、幼女はミーシャの傍へと歩み寄ると、顎を突き出す様にして、それまでとは表情を一変させた。
それはまるで、親の仇にでも出会ったかの様な顔。
「さて、戯れはここまでじゃ。寛大にもお主の姉を迎え入れてやった我々の恩を忘れて、救援を断った耳長が、どの面下げてここに来た、ああん!?」
幼女の突然の変貌に、レイが思わずローブの下で身構える。
すると、それを牽制するように、黒髪の女の殺気がレイへと集中した。
――ほう。
思わず、レイが黒髪の女へと向き直ると、
「司祭殿!」
ゴディンが慌てて、ミーシャと幼女の間へと割って入ろうとする。
だが、それと同時に幼女の額を自らの額で押し返しながら、ミーシャが声を荒げた。
「アンタ達に何の恩があるってのよ! そもそも魔王がここまで勢力を拡大したのも、アンタ達が勇者とかいうバカを焚きつけて、魔王にちょっかいかけたからじゃない! 長老達が呆れるのも無理ないわ」
「これだからお主らは愚かだというのじゃ! いくら大人しくしておろうとも、相手は魔物じゃぞ。いつか襲い掛かってくるのは目に見えておる。だからこそ、唯一絶対なる神が、我らの為に勇者をお遣わし下さったのじゃ。邪悪な魔物どもを滅ぼせとな!」
「ハッ! で、頼みの勇者が聖剣ごと行方不明になって、滅ぼされかけてれば世話無いわよ」
「長命種のくせに、耳長どもは、先が見えておらんようじゃの! 神の叡智は広大無辺。我らの推し量れるところではないわ。この試練の向こうには、より良い未来をご用意くださっていることじゃろう」
「あはは、負け惜しみもそこまで来たら滑稽ね」
「なんじゃと!」
「なによ!」
牛が角を突きつけ合う様に、睨みあう二人。
「まあ、まあ、お二人とも落ち着いてください!」
ゴディンがようやく二人の間へと割り込むと、幼女は一つ舌打ちをして、額を離した。
だが、ミーシャは憮然とした表情で、さらに突っかかる。
「馬鹿馬鹿しい。何が神よ! そもそも前にも言ったけど、アンタ達が神って呼んでるのは、精霊王の一人じゃない」
「まだ、そんな戯言を言っておるのか! 我らが神を精霊などという下賤な存在と一緒にするとは、不敬にも程があるわ。貴様ら耳長どもも、精霊も、神がお造り賜うたのだと、どうして分からんのじゃ!」
「全く、どこでどう間違えて、そんな解釈するようになったんだか……。ほんと人間ってのは、何かに隷属しなきゃ生きられないのね。奴隷根性が見てて痛々しいわ」
ミーシャがそう言って更に大袈裟に肩を竦めると、幼女が再び、彼女をギロリと睨みつけた。
「よう分かった。お主、我々に喧嘩を売りに来たのじゃな」
「ばーか。先に喧嘩を売ってきたのは、アンタでしょうが。そんなに暇じゃないわよ」
そう言って溜め息を吐くと、ミーシャはソファーから立ち上がって、レイの傍へと歩み寄り、そっと目配せする。
その意味するところは明らか。
今からハッタリをかますわよ。
そういうことだ。
ミーシャは勿体ぶるように、ゆっくりとした足取りでレイの背後へと移動すると、口元を歪めて嗤う。
そして、
「偶然だったんだけどね。アンタ達がどうなろうが知ったこっちゃないんだけど、まあ、見つけちゃったんだから、しょうがないわよね」
「見つけた? 何をじゃ?」
幼女が怪訝そうに眉根を寄せるのを尻目に、ミーシャは、レイの被っていたフードを一気に引っぺがした。
「「「なっ!?」」」
フードの下から出てきたのは、もちろんゴブリンの顔。
それも、赤い鬣をもつ赤鶏冠。
幼女、黒髪の女、ゴディン。
驚愕に目を見開く三人の顔を見回して、
「こいつが、アンタたちの勇者よ」
ミーシャはそう言い放った。