第十一話 世の中のことは、大体筋肉で説明がつきます。
「こ、こっち見ちゃ、ダメなんだからね!」
――分かっている。
森の奥。
静かな夜の水辺に、少女の少し上擦った声が響いた。
風に吹かれて、涼しげに波立つ湖面。
その静けさを破って、バシャン! と水の撥ねる大きな音が響き渡った。
ゴブリン飛び込む水の音。字足らず。
あの後、ミーシャは風精霊に水のある場所を尋ね、二人は黄色の水玉模様を点々と地面に描きながら、森の奥、湖の畔へと辿り着いた。
元々、腰回りに僅かな布を巻き付けただけのゴブリンであるレイは、川を見つけるなり、そのまま頭から水の中へと飛び込む。
そして、それを羨ましそうに眺めながら、ミーシャは岩陰に隠れて、いそいそと汚れた服を脱いだ。
岩陰から頭だけを出して、レイが向こうを向いたままなのを確認すると、ミーシャは再び声を上げる。
「こっち見たら許さないんだからね!」
――見ない。
レイの背中をじっと睨みつけながら、意を決したように岩陰から走り出ると、ミーシャは汚れた服を抱きかかえたまま、ざぶんと水の中へと飛び込んだ。
水音が大きく響いて、水面の月が揺らぐ。
昼間はあれほどの大雨だったというのに、今は雲間から明るい満月が顔を覗かせている。
大雨の所為で、多少水が淀んではいるが、あの吐瀉物塗れを思えば、清流みたいなものだ。
「ぷはっ」
跳ね上がる様に水から顔を上げると、ほどいた金色の髪が弧を描いて、水面を叩いた。
ああ、気持ちいい。
力を抜いて、凭れ掛かる様に、水に身を任せる。
ちらりと視線を向けると、石像のように身じろぎ一つせずに水に浸かるレイの背中が見えた。
「ねぇ、レイ……そういえば、その身体赤鶏冠のでしょ? 今なら人間の言葉で喋れるんじゃないの? あいつ喋ってたもん」
――どうだろう?
レイの首が僅かに傾く。
――身体の問題では無い様に思うな。声帯の使い方の問題なら、訓練すれば、喋れるようになるかもしれない。それより……。
「それより、何?」
――赤鶏冠は暗黒魔法を使えると言っていたが、確かに、この身体には魔力が宿っている。これなら、たぶん私にも使えるだろう。
「ふーん、そうなんだ。でもまあ、もう人間の領域に入っちゃったからね。ここからは戦う様な機会は無いかも。帰り道はまた大変そうだけど……」
――帰り道か。
途端に、ミーシャは彼の境遇を思い出して、慌てて取り繕う様に口を開く。
「心配しなくても、アンタの身体を見つけるまでは、付き合ってあげるから! も、もし見つかんなかったら、アンタも一緒にエルフの隠れ里に来ればいいのよ。うん、そうね、そうしよう!」
――なあ、ミーシャ。そろそろ、キミが人間の都を目指す理由を教えてくれないか?
唐突なその問いかけに、ミーシャは思わず身を固くする。
彼女は水底に足をついて立ち上がると、身体から滴り落ちた滴が、幾つもの小さな波紋を描いた。
「言わなきゃダメ? 聞いても反対しないって約束してくれる?」
――反対しないかどうかは、聞いてみないと分からない。
「じゃあ、言わない」
――そうか。
再び、二人の間に言い様の無い沈黙が横たわって、ミーシャはレイの背を不安げに見つめる。
「怒った?」
――怒ってない。
レイの態度は相変わらず、素気が無い。
ミーシャはだんだんとその背中が憎らしく思えてきて、今度はぷうと頬を膨らませる。
聞かれたくないけど、聞いて欲しい。
彼に、この辺りの複雑な女心の機敏を察しろというのは、そもそも無理がある。
それは、ミーシャにも分かっている。
でも、腹が立つのは仕方が無いのだ。
ミーシャは突然、口元に意地悪な笑いを浮かべたかと思うと、白々しくも大きな声を上げた。
「あーあ、でも酷い目にあっちゃったなー。まったくぅ、女の子を丸のみにするなんてぇ、変態の極致よねー!」
――な!? それは流石に、人聞きが悪すぎるだろう。
レイが動揺する素振りをみせると、ミーシャはにんまりと笑って、益々声を大きくする。
「それはそうよねー、こーんなに可愛い女の子を丸のみしてぇ、ぺろぺろしちゃったんだもん。どう? 興奮した? 美味しかった?」
――鶏ガラを食っても、うまい筈がないな。
「誰が鶏ガラよ!」
手にした服で、ばしゃんと水面を叩いて、ミーシャがレイに詰め寄る。
――お、おい。待て!
「アンタねぇ! 私は、まだあと百年ぐらいは成長期なだ……け……でって、あれ?」
レイの肩に手を掛けて、強引に振り向かせたところで、ミーシャは自分が今、どんな恰好をしているのかに思い至った。
◇ ◇ ◇
――痛い。
「悪かったわよ……もう。でも、アンタだって悪いんだからね」
腫れあがった頬を擦るゴブリンを尻目に、ミーシャはさっさと足を速める。
彼女の今の姿は、浅黄色の短衣に、緑の短袴。
昨日まで来ていた服は、まだ生乾きのまま背嚢に放り込まれている。
湖畔で野宿して一夜を過ごし、日の出とともに出発した二人は、森の中を貫く街道へと出て、西へと向かった。
「この調子なら、昼までにはハノーダー砦に到着できると思う」
――ハノーダー砦?
「うん、少し前に通った時には、只の宿場町だったんだけど、人間達がディアボラ山脈のこっち側に追いやられたもんだから、そこが人間の領域の一番端っこになっちゃったのよ。それで城壁を立てて砦にしちゃったらしいのよね」
――少し前に通ったというのは、どれぐらい前の話だ?
「お姉ちゃんの結婚式の時だから……二十年ぐらいかな」
――二十年は少し前か……それはそうと、お姉さんが人間の領域にいるのだな?
あからさまに『しまった!』という顔をするミーシャに、レイは思わず苦笑する。
――心配するな。言いたくないなら、これ以上は聞かない。
「いいわよ、別に……。お姉ちゃんは、もういないんだし」
――もういない?
「死んじゃったの! 七年前に! 流行り病で!」
――それは……すまない。
「謝んなくてもいいわよ。言ったのこっちだし……」
ミーシャが口籠ったその時、レイがピクリと耳を動かして、立ち止まる。
「どうしたの?」
――前を見てみろ。
そう言ってレイが顎で指し示した方向へと目を向けると、土煙が濛々と立ち上っているのが見えた。
騎馬の一団がこちらの方へと真っ直ぐに向かってくる。
――隠れるか?
「必要無いわよ。たぶんハノーダー砦に駐留してる兵隊さん達だと思うわ。ディアボラ山脈であれだけの騒動があったんだし、調べに来たんでしょ」
――危害を加えられる事は無いんだな。
「そりゃそうよ、だって、私、エルフだし」
何言ってんの? とでも言わんばかりの顔をレイに向けて、ミーシャは首を傾げる。
とりあえず、エルフは人間と敵対関係ではないらしい。
「あ、でも、そうか。アンタはマズいわね」
そう言うとミーシャは背嚢を下ろして、ごそごそと中を探ると、草色のローブを取り出して、レイに放り投げた。
「それを羽織って。顔が見えないように」
――丈が合わない。
「引き摺ってもいいわよ。今の私たちの絵づらって、どう見たってゴブリンに襲われる可憐な美少女だもん。アンタ、問答無用で兵隊さんに攻撃されるわよ」
――確かに。可憐な美少女、というところ以外はその通りだ。
「ぶっ飛ばすわよ!」
そうこうする内に、騎馬の一団は二人の姿を見つけたらしく、徐々に速度を落とす。
「止まれぇ!」
先頭の男が声を上げると、騎馬の一団は、二人の少し手前で馬を止めた。
赤毛の髪に同じ色の髭。
甲冑姿の、熊を思わせる大男である。
「お前達! こんなところで何を……」
男はそう言いかけたところで、突然、大きく目を見開いて、慌てて馬を降りた。
「姫! ミーシャ姫ではありませんか!」
――姫?
レイが思わずミーシャを見上げると、彼女は心底うんざりしたような顔で、頭を抱えていた。
「お願い。誰だか知らないけど、姫はやめて……。エルフには王も姫も無いんだから。おじいちゃんが長老っていうだけで、パパが長老位を継ぐわけでも無いんだし……」
「しかし! 王妃殿下の妹君であらせられる方を、他に呼びようも御座いません!」
――なるほど、そういうことか。
思わず頷いたレイを、ミーシャがギロリと睨む。
ほぼ、八つ当たりである。
「姫、再び相見えることが出来て、このゴディン。感涙に堪えませぬ」
本当に目を潤ませている大男に、ミシャは戸惑いの表情を浮かべて問いかけた。
「えーと……アンタ、誰?」
「無理も御座いませんな。前にお会いした時には、私もまだ紅顔の美少年でありました故」
ミーシャといい、こいつといい。自意識過剰な連中ばっかりなのかと、レイは思わず肩を竦める。
「ごめん、全っ然覚えが無いわ」
「左様でございますか……以前、姫がヌーク・アモーズに滞在なさられている間、護衛を命じられておりました、ゴディンでございます」
「ゴディン?」
ミーシャが眉間に皺を寄せた次の瞬間、その表情が驚愕の色に染まった。
「ええぇぇぇっ!? あのひょろひょろ!? 原型ないじゃないの! 何? 人間ってそんなに変わっちゃうものなの?」
「人間二十年もすれば、筋肉もつきます」
「筋肉の問題なの!?」
「世の中のことは、大体筋肉で説明がつきます。こんなところで姫は何を?」
ゴディンは聞き捨てならない科白を言いっぱなっしのまま話題を変え、ミーシャはツッコむタイミングを失って、僅かに口元を引き攣らせながらも、それに応じる。
「ヌーク・アモーズへ向かう途中なの」
「それは、それは! 王もさぞやお喜びになられましょう!」
ゴディンは破顔すると、背後を振り返って部下に命じる。
「おいお前! その馬を姫と従者殿に差し上げろ!」
「はっ!」
どうやら、ゴディンは勝手にレイの事を従者だと思い込んでいるらしい。
そして副官と思われる兵に、
「後は任せた。ワシは姫を砦へご案内する」
そう告げると、ミーシャの前に恭しく跪いた。
「姫! ハノーダー砦へ、どうぞお立ち寄りください。我が家と思って旅の疲れを落としていただければ、恐悦にございます」