第十話 リバース
「まるで……」
聳え立つディアボラの頂。
それを見上げて、騎士団長ゴディンは、途切れた言葉の続きを胸の内でこう紡ぐ。
――この世の終わりの様ではないか。
激しく降り続く雨。篠突く雨。
ザーという雨音の向こう側から不規則に響いてくる、巨大な鞭で地を打つ様な低い打擲音。
稲光に照らされて、厚く垂れ込める雲を背景に、巨大な紐状のシルエットが浮かび上がる。
それが頂を蹂躙するかの如く、激しく身もだえていた。
ディアボラ山脈の西側、人間側の領域。
山の麓に広がる広葉樹の森を抜け、西へ十数キロ進めば、街道を塞ぐように鎮座する砦へと行き当たる。
ソルブルグ王国、東の要衝。
ハノーダー砦である。
今、その城壁の上では、ゴディンを始めとする兵士達が顔を連ね、息を呑んで、一つの方向を見上げている。
物見の兵士がディアボラ山脈で何らかの異変が起こっていることを察知してから半刻ほど後、厳戒態勢の最中のことであった。
ゴディンは、すぐ隣にいる雨避けのローブを纏った女性に問いかける。
「何が起こっているのだ? 司祭殿」
「ふむ、遂に魔物どもが山を越えようとしている。そういう事じゃろうな」
その返答は、物言いこそ老婆の様であったが、声そのものは子供の様な可愛らしいもの。
実際、フードから覗く金色の巻き毛と、真ん丸な榛色の瞳が特徴的なその顔は、かなり幼い。
只でさえ小さな体が、ゴディンの熊の様な巨体と並んでいるせいで、尚更小さく見えた。
彼女は幼げな顔を上げて、ゴディンを眺める。
「経典にも書いてあるじゃろ? ディアボラの山には神の御使いたる白蛇が住まうと」
「あの山の上で暴れている物がそうだと?」
「そうとしか思えん。この状況ではな。我々を守るために魔物共を食い止めてくださっておるのじゃろう」
「ふむ……」
ゴディンが考え込む様に、髪と同じ赤い髭に包まれた顎に指を掛けたその時、
「うわああああああぁ!? なんだアレ!」
周囲の兵士達が、一斉に驚愕の声を上げた。
ゴディンが兵士達の指さしている方へと目を向けると、ディアボラの山頂で、司祭が言う所の『御使いの白蛇』が、両端を高く持ち上げて、巨大なUの字を描いているのが見えた。
「司祭殿、あれは!?」
「し、知らん! 聞くな!」
何でもかんでも知っていると思われては敵わん。
司祭と呼ばれた幼女――ソフィーは、不満げに頬を膨らませると、改めて山頂の方へと目を向ける。
それにしても、なんと巨大な……。
当に、神の御使いに相応しい威容ではないか。
ソフィーは自らが信じる神の偉大さを思って、思わず身震いする。
だが、その途端。
雲を掴もうとするかのように持ち上がっていた『神の御使い』の両端が、ぐらりと揺らぐと、そのまま力なく崩れ落ち始めた。
それは、魂の抜け落ちた虚ろな挙動。
その巨体から力が失われた事が、はっきりと分かる無機物の落下。
「な!?」
ソフィーの驚愕の声は、兵士たちのざわめきにかき消され、そのざわめきも、巨体が大地を打ちつける音に呑み込まれる。
噴煙を上げる火山の様に、山頂を覆う土煙。
立ち昇った黄埃が、黒い雲と溶けあう様に空を侵食していく。
「し、司祭殿! 何が起こっておるのだ!」
「聞くなといっておるじゃろうが! こっちが聞きたいわ!」
ソフィーは思わず親指の爪に歯を立てながら、ゴディンを怒鳴りつける。
そして、彼女が地団駄を踏む様に足を踏み鳴らすと同時に、ミシミシと音を立てて足下の城壁が震えた。
「見ろ! 山が崩れるぞ!」
兵士の一人が上げたその声に、ソフィーが思わず息を呑む。
地の底で大太鼓でも打つかのような重い音が響き渡って、山肌が波打った。
まるで盛り塩に水を掛けたかのように、山が溶けていく。
茶色の濁流が斜面を滑り落ちていく。
その余りにも非現実的な光景に、誰もが口を閉じるのを忘れて見入っていた。
◇◇◇
ディアボラ山脈が崩れ落ちて一時間程が過ぎた頃、ハノーダー砦と同じ、山脈の西側。
雨は少し前に降り止んでいたが、夕暮れ時だというのに空は黄色味を帯びた雲に覆われ、夜宛らに薄暗い。
山肌を滑り落ちた土砂が、裾野に広がる木々を打ち倒し、森の半ばにまで侵食している。
その堆積した土砂の中に、もぞもぞと蠢く物があった。
ボコッ! という破裂音とともに、唐突に土が大きく盛り上がって、巨大な牙を持つ蚯蚓が顔を覗かせる。
溜まった雨水が滴る音が響く、静かな夜の森。
どこか遠くでホウホウと、梟が鳴いた。
そんな静かな風景の中で、巨大な蚯蚓は唐突に、ブルっとその身を震わせると、
ヴォエェェェェェ!
っと、起き抜けのおっさんが上げるような汚い音を立てて、何かを吐き出した。
それは大量の粘液。
湯気を立てる黄色の液体の中に、幾つか形のある物が見える。
その中の一つ。
黄色い粘液に塗れたそれは、大きな背嚢を背負ったエルフの少女であった。
――おい、ミーシャ、起きろ。
頭の中に響いてくるその声に、エルフの少女はまつ毛を震わせて、薄らと目を開く。
「な……に? もう朝なの?」
寝ぼけ眼を擦りながら身を起こした途端、
「ひっ!?」
彼女は目の前のデスワームの姿を目にして、喉の奥に短い悲鳴を詰まらせた。
「い、いや! た、食べたって、お、おいしくないわよ!」
ミーシャは今にも卒倒しそうな顔で、盛大に目を泳がせながら、後退ろうと、必死に足元の土を蹴る。
だが、背中の背嚢が邪魔になって、その場でジタバタするばかり。
――落ち着け、ミーシャ。私だ。レイだ。
「へ?」
ミーシャはポカンとした顔で、あらためて目の前のデスワームを見上げる。
――賭けみたいなものだったが、山崩れに呑まれる直前に、この蚯蚓の身体を乗っ取った。
「そう……なんだ」
――ぶっつけだったが、上手くいって良かった。
「よく身体から身体へ乗り移る方法が分かったわね」
――まあ、こいつが死んだ時に、飛び散った火花のデカさと言ったらなかったからな。
ミーシャは思わず、ホッと胸を撫でおろす。
だが、安心してしまえば、嫌でも自分の置かれている状況が見えてくる。
額を拭おうと持ち上げた手。その指の間で、どろりと黄色の粘液が糸を引く。
「なに……これ?」
そして、
「臭アァァァァァッ!?」
彼女は、思わず悲鳴染みた声を上げた。
糸をひく黄色い粘液塗れの身体。
見回せば、周囲一面に黄色の粘液が飛び散っていて、微かに湯気が立っている。
その中には、消化されかかって、半分溶けたゴブリンの死体が幾つも転がっていた。
「オエェェェ!」
鼻を突く臭気に、喉の奥からこみ上げてくるものを、ミーシャは必死に堪えた。
「あ、あんた! よく考えてみれば、どうやって私をここまで連れてきたのよ!」
――ん? 蚯蚓に手足なんてないからな。
「ま、まさか、アンタ……」
――結構苦労したんだぞ。噛まない様に一気に呑み込まなきゃならないし、消化されないように喉元で止めておくとか……何度も吐きそうになって、まあ……結局最後には吐いた訳だが。
「…………」
――えーと……死ぬよりマシだろう?
「ふ、ふふふ……」
ミーシャは口元だけに笑いを貼り付けると、幽鬼の様にゆらりと立ち上がり、一応形を保っているゴブリンの死体を指さした。
「アンタ、とりあえず、そこのゴブリンに乗り換えなさいよ」
――そこのって……半分消化されてるぞ? それ。
おそらくかなり珍しい光景だろう。
デスワームが、たじたじと身を反らした。
「あ゛?」
ミーシャの目は完全に据わっていた。
――い、いや、この身体は結構強いし、この先も戦いが続くならこの身体の方が良いんじゃないか……なとか?
「アンタ……その身体で人間の都に入る気?」
――うっ!? で、では、こうしよう。途中で別の怪物を倒して……。
「四の五のうるさい! ほら、もう火花が消えそうになってるわよ! 早く手を伸ばしなさいよ!」
――えぇぇ……。
まさにしぶしぶと言った様子で、巨大な蚯蚓が身を捩る。
その途端、ズシンと音を立てて、蚯蚓の先端が地面に落ちると、かわりに黄色い粘液の中で、シュウシュウと湯気を立てて身体を再生させながら、一匹のゴブリンが身を起こした。
頭に赤い鶏冠のような鬣を持つそのゴブリンは、そのまま肩を落として佇む。
――これは……………………臭いな。
「でしょ」
黄色の粘液の海。
そのど真ん中で項垂れるエルフとゴブリン。
言葉にし難い絶望的な空気が、凄まじい臭気とともに、その場に居座っていた。




