表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/70

第一話 ゴブリンから始める肉体強奪(ボディスナッチ)

 ぴちょん。


 鍾乳石(しょうにゅうせき)を伝って、一(しずく)の水が滴り落ちた。


 長年、滴る水に削られて、動物の(はらわた)の様な(ひだ)が浮き出た岩肌。

 目の退化した虫が、カサカサと()い回る音と、断続的な水音だけが響き渡る、余りにも寒々しい風景。陽の光も届かぬそこは、洞窟の最奥(さいおう)


 ()()は、気づいた時にはそこにいた。


 ――なんでこんな所に?


 その問い掛けに応える者は無く、


 ――私は……誰だ?


 その余りに救いの無い疑問にも、返ってくる答えは無かった。


 ()()は、戸惑いと共に目を閉じる。


 (まぶた)を閉じた感覚は無かったが、目を閉じようが、開いていようが、いずれにしても大して風景に変わりはない。そこにあるのは、深い、深い、深い闇。


 自分が一体何者で、どうしてこんな場所に居るのか。思い出そうにも、記憶はあまりにも断片的。


 欠片(かけら)の様な記憶が、明確な形を取ることも出来ずに、まるで(おり)の如く意識の奥底に(わだかま)っている。


 唯一、はっきりと感じ取ることが出来たのは、身を焦がすような激しい怒り。


 だがそれも、一体何に対する怒りなのかさえ判然としない。


 その怒りの残滓(ざんし)が、胸の奥で燃え残った炭の様に、身動き一つ出来ない()()をじりじりと責め立てていた。


 ()()は想像する。


 ――私はきっと、何者かに殺されたのだろう。


 命が尽きたにも(かか)わらず、未練たらたらと現世にしがみついている亡霊。


 ――それが、今の私だ。


 身体の感覚など有るわけも無く、手足が有るのかどうかも判然としない。


 怒りの感情は有るが、それを向ける相手が誰なのかも分からない。


 無論、分かったところで、何が出来るという訳でも無い。


 だというのに、意識だけが無為(むい)にこの世に縛り付けられているのだ


 ――惨めなものだな。


 いっそのこと消滅する事は出来ないものかと(こころ)みもしたが、亡霊が自殺できる訳も無い。


 ずっとこのまま。


 永遠という名の絶望が、その亡霊のすぐ隣に(たたず)んでいた。


  ◇  ◇  ◇


 昼も無ければ、夜も無く、どれだけの昼が、どれだけの夜が、過ぎていったのかも分からない。


 だが、おぼろげな感覚だけを頼りに言えば、数年程も過ぎたある日。


「きゃああああああああ!」


 若い女の甲高(かんだか)い悲鳴が響き渡ったのを皮切りに、(にわか)に洞窟の中が騒がしくなった。


 おそらく、さっきの悲鳴の主なのだろう。カンテラを手にした女が一人、急な坂道を滑り落ちてきた。


 暗闇の中で、激しく揺れるカンテラの灯り。


 女の苦しげな息遣(いきづか)いをかき消すように、坂の上からはドタドタと多人数の足音が響いてくる。


 やがて、


 グルォオオオオオアァ!


 (うな)り声を上げながら、女の後を追って、何者かが一斉に坂道を駆け下りてきた。


 一、二、三……全部で七匹。


 カンテラの灯りに浮かぶ、子供の様な小柄な体躯(たいく)に緑色の肌。口元から覗く凶悪な牙。シルエットだけを見れば、腰の曲がった老人の様にも見える化け物。


 亡霊は、それが何者なのかを知っていた。


 ――ゴブリン?


 馬鹿げていると思うかもしれない。

 

 だが、それがそういう名前の化け物なのだと認識した途端、亡霊の心は激しく高揚(こうよう)した


 ――そう、あれはゴブリンだ!


 もやもやとした記憶の断片。その一つが明確な形を取った。


 たったそれだけの事が、驚くほどに嬉しかったのだ。


 亡霊は、一方の女の方へと意識を向ける。


 彼女はカンテラを地面に置いて立ち上がると、慌てて腰の(さや)から短剣(ダガー)を引き抜いて身構えた。


 カンテラの仄灯(ほのあか)りに照らし出されて、壁面に長く伸びた女の影が揺れる。


 いや、女と呼ぶには、かなり幼い。


 よく見れば、それは美しい少女だった。


 あどけない瞳は蒼穹(そうきゅう)のごとき、鮮やかな蒼。頭の左右で結わえた髪は純金の輝きを宿し、そこに深い海を思わせるラピスラズリの髪飾り。

 白磁(はくじ)の肌には、必死に走って来たのだろう。玉の汗が浮かび上がり、触れれば折れそうな華奢(きゃしゃ)な身体を、濃紺(のうこん)短衣(チュニック)と白のボトムスに包んでいる。


 だが、彼女を特徴づけているのは、今挙げた(いず)れでもない。


 それは長く尖った耳。


 ――エルフ……という奴なのか?


 ゴブリンの時とは異なる、きっちりとした形を為さない曖昧(あいまい)な記憶。

 おそらく知識として知ってはいても、エルフという存在を実際に見たのはこれが初めて。そういう事なのだろう。


 亡霊がそんな事を考えている内に、ゴブリンの一匹が錆びた(ナタ)のようなものを振り回しながら、エルフの少女へと飛び掛かった。


「こ、来ないでぇ!」


 少女の悲鳴じみた声が響き渡る。


 彼女はその一撃を、よろめきながらもなんとか(かわ)し、(おび)える様に目を閉じたまま、闇雲に短剣(ダガー)を振り回す。


 駄々をこねる子供のような挙動。だがそれが、偶然にもゴブリンの腹へと深々と突き刺さった。


 グ……グルぁ?


 何が起こったのか分からないとでもいう様に首を傾げながら、ゴブリンが崩れ落ち、エルフの少女は引き()った顔で、それを見下ろす。


「……やったの?」


 だが多勢に無勢。偶然、ゴブリンを一匹倒せたところで、なんら状況は好転する訳ではない。

 誰がどう見ても、あのエルフの少女は強そうには見えない。

 今の一撃にしても、たまたま突き出した短剣(ダガー)に、ゴブリンが勢いあまって突っ込んだだけ。


 どちらかといえば、事故に近い。


 むしろ一匹を倒してしまった事で、状況は悪化の一途(いっと)辿(たど)る。


 仲間を倒された事に激昂(げきこう)したゴブリンたちが、その死体を踏み越えて、彼女へと一斉に牙をむいた。


 ――可哀そうだが、これで終わりだな。


 酷薄に聞こえるかもしれないが、彼は手も足も無い霊体なのだ。助けてやることなど、出来はしない。


 この後、彼女を襲う悲劇を思えば胸は痛むが、せいぜい犯すにしろ、殺すにしろ、自分の目が届かない所でやってほしい。そう願うのみだ。


 ところが次の瞬間、彼女の瞳の奥に、唐突に驚きの色が広がった。


 エルフの少女が亡霊のいる方へ、ちらりと視線を向けた途端、ハッと息を呑むのが分かった。


 ――なんだ?


 亡霊が胸の奥でそう(つぶや)くのとほぼ同時に、彼女は大声を上げた。


「そ、そこの生霊(レイス)! ぼさっとしてないで助けなさいよぉ!」


 ――は?


 エルフの少女の必死な叫び声とは裏腹に、亡霊は思わず間抜けな声を漏らす。


 彼女の声は聞こえている。もちろん、耳には届いている。


 だが、思考が追いつかないのだ。


 ――そこの生霊(レイス)? そう言ったのか?


「は? じゃないわよ! アンタ以外に誰がいるってのよ! とっとと助けなさいってばぁ!」


 ――もしかしてキミ、私が見えて……いるのか? 


「見えてるから言ってるんでしょ! バカなの? 死ぬの?」


 亡霊に「死ぬの?」もないものだが……。


 見えている。その一言に、亡霊の胸の内から、言い様の無い感情が溢れ出す。


 それは驚きと歓喜、そして只の傍観者ではいられなくなった事への困惑。

 それがない()ぜになった複雑な感情。


 ――いや、しかし、今の私には手も足もない。何も出来はしない……。


 エルフの少女は震える指で、自分を取り囲むゴブリンたちの向こう側、自分が倒したゴブリンの死体を指し示す。


「もう! 辛気臭(しんきくさ)いわね! そのゴブリンの身体を使えばいいじゃない。まだ間に合うからぁ!」


 ――使う?


「今、胸の辺りで光が散ってるの見える? そこに手を伸ばすの! 早く! 消えちゃったら使えなくなるわよ!」


 ――手など無い。そう言っているだろう!


「ああもう! めんどくさいヤツ。イメージすんの! その光を掴むイメージ! それを思い浮かべんのっ!」


 エルフの少女は地団駄を踏む様に、足を踏み鳴らしながら(まく)し立てて、亡霊は言われるがままに、意識の中でその光へと手を伸ばす。


 亡霊のいる場所からゴブリンの倒れている所まで数メートルはあるが、イメージに距離など関係ない。


 亡霊はゴブリンの胸の辺りで、花火の様に飛び散っている光へと手を伸ばす。


 そして、その(はかな)く散っていく光の一端に指先が触れた途端、目の前の景色が白く染まった。


 眩暈(めまい)? 


 ぐわんぐわんと音を立てて、世界が回る。

 回転の最中、リンゴの皮をむく様に白い世界が破れて、その下から黒い霧が溢れ出し、亡霊の周りを取り囲む。最後に目の前で星が散って、視界が暗転した。そして次の瞬間、身体が急に重くなった。


 そう()()がだ!


 頬に感じる固い地面の感触、肌ざわり。顔を突っ込んでいる地面の(ぬめ)った苔の臭い。

ひんやりと冷たい洞窟の冷気。


 その何もかもが生々しい。


 亡霊はゆっくりと身体を起こして、自分の両手に目を落とす。


 子供の様な小さな手に鋭い爪、緑がかった肌。


 間違いない。この身体はゴブリンのものだ。


 さっきまで見下ろしていたゴブリンの身体。それがまさに今、彼のものになっていた。


 短剣(ダガー)が刺さった筈の腹部には、傷一つない。どういう理屈かは分からないが、魂が入れ替われば身体のダメージも無くなるという事らしい。


 ――ああ、重い。身体というのは、こんなに自由の利かないものだったか……。


 その不自由さに、思わず顔がにやける。


 たとえそれが、醜いゴブリンの身体であったとしてもだ。


「もーー! ニヤニヤしてないで、早く助けなさいよぉ!」


 牙を()くゴブリンたちを、短剣を振り回して牽制(けんせい)しながら、エルフの少女が切羽詰まった声を上げた。


 ――助けを求める者の物言いではないな。


「うるさい!」


 亡霊は思わず肩を(すく)める。


 だが、いかに小生意気な娘でも、恩人には違いない。


 亡霊は膝に手をついて立ち上がろうとした途端、思わず足を(もつ)れさせた。


 ――これは……なかなか厄介だな。


 手の長さの違い、足の長さの違い。生前の彼とは、おそらく何もかもが違うのだろう。


 寝転がっている分にはそうでも無かったが、立ち上がろうとすると違和感が凄まじい。


 ――これは、思う通りに動かせる様になるまで、少々時間がかかりそうだ。


 胸の内でそう独りごちて、亡霊はこの身体の主が、生前握っていた得物を拾い上げる。


 それは、赤茶けた(さび)の浮いた(なた)


 どこかの農家か、木こりから奪い取ってきた物だろう。刃も欠けてギザギザ。人間なら鉄くずとして、すぐにでもゴミの山に放り込むような代物(しろもの)だ。


 だが、どんなに身体が動きにくかろうと、どんなに得物がショボかろうと、たかがゴブリンに後れを取る事などない。


 ――そう、そんな事などありえない。


 亡霊は、なぜかそう確信していた。


 彼は軽く(なた)を振るって手ごたえを確かめると、エルフの少女を威嚇(いかく)しているゴブリンの集団へと背後から静かに歩み寄る。


 そして、今にも彼女に飛び掛かろうとしている一匹の頭上へと、一息に(なた)を振り下ろした。


 気を刀身に(みなぎ)らせ、接触する直前に手首をスナップ。


 すると、()びた(なた)の刃が、まるでバターにナイフを入れるかのように、ゴブリンの身体を、頭から股下へとすっと通り抜けた。


 ぐぎゃぎゃ!?


 斬られたゴブリンが、ふざけた子供が発する様な珍妙な声を上げて、硬直する。


 周囲のゴブリンが、不思議そうにその一匹の顔を覗き込んだ途端。


 そのゴブリンがまるで干物さながらに真っ二つに割れて、噴水の様に緑の血を噴き出した。


「きゃあ!? ちょ、ちょっと!? あんたねぇ!」


 飛び散る血しぶきに、エルフの少女が非難めいた声を上げ、ゴブリン達も「ぐぎゃ!?」と声を上げて、一斉に飛び退いた。


 ――は、はは、ははは……。


 彼女の非難の声も耳には届いているが、そんなことはすでにどうでも良かった。

 何かを斬る。その手ごたえの懐かしさに、思わず鼻の奥がつーんと痺れて、目の奥が潤む。

 この時彼は、ゴブリンにも涙腺(るいせん)があるという事を初めて知った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ