第一話 ゴブリンから始める肉体強奪(ボディスナッチ)
ぴちょん。
鍾乳石を伝って、一滴の水が滴り落ちた。
長年、滴る水に削られて、動物の腸の様な襞が浮き出た岩肌。
目の退化した虫が、カサカサと這い回る音と、断続的な水音だけが響き渡る、余りにも寒々しい風景。陽の光も届かぬそこは、洞窟の最奥。
ソレは、気づいた時にはそこにいた。
――なんでこんな所に?
その問い掛けに応える者は無く、
――私は……誰だ?
その余りに救いの無い疑問にも、返ってくる答えは無かった。
ソレは、戸惑いと共に目を閉じる。
瞼を閉じた感覚は無かったが、目を閉じようが、開いていようが、いずれにしても大して風景に変わりはない。そこにあるのは、深い、深い、深い闇。
自分が一体何者で、どうしてこんな場所に居るのか。思い出そうにも、記憶はあまりにも断片的。
欠片の様な記憶が、明確な形を取ることも出来ずに、まるで澱の如く意識の奥底に蟠っている。
唯一、はっきりと感じ取ることが出来たのは、身を焦がすような激しい怒り。
だがそれも、一体何に対する怒りなのかさえ判然としない。
その怒りの残滓が、胸の奥で燃え残った炭の様に、身動き一つ出来ないソレをじりじりと責め立てていた。
ソレは想像する。
――私はきっと、何者かに殺されたのだろう。
命が尽きたにも拘わらず、未練たらたらと現世にしがみついている亡霊。
――それが、今の私だ。
身体の感覚など有るわけも無く、手足が有るのかどうかも判然としない。
怒りの感情は有るが、それを向ける相手が誰なのかも分からない。
無論、分かったところで、何が出来るという訳でも無い。
だというのに、意識だけが無為にこの世に縛り付けられているのだ
――惨めなものだな。
いっそのこと消滅する事は出来ないものかと試みもしたが、亡霊が自殺できる訳も無い。
ずっとこのまま。
永遠という名の絶望が、その亡霊のすぐ隣に佇んでいた。
◇ ◇ ◇
昼も無ければ、夜も無く、どれだけの昼が、どれだけの夜が、過ぎていったのかも分からない。
だが、おぼろげな感覚だけを頼りに言えば、数年程も過ぎたある日。
「きゃああああああああ!」
若い女の甲高い悲鳴が響き渡ったのを皮切りに、俄に洞窟の中が騒がしくなった。
おそらく、さっきの悲鳴の主なのだろう。カンテラを手にした女が一人、急な坂道を滑り落ちてきた。
暗闇の中で、激しく揺れるカンテラの灯り。
女の苦しげな息遣いをかき消すように、坂の上からはドタドタと多人数の足音が響いてくる。
やがて、
グルォオオオオオアァ!
唸り声を上げながら、女の後を追って、何者かが一斉に坂道を駆け下りてきた。
一、二、三……全部で七匹。
カンテラの灯りに浮かぶ、子供の様な小柄な体躯に緑色の肌。口元から覗く凶悪な牙。シルエットだけを見れば、腰の曲がった老人の様にも見える化け物。
亡霊は、それが何者なのかを知っていた。
――ゴブリン?
馬鹿げていると思うかもしれない。
だが、それがそういう名前の化け物なのだと認識した途端、亡霊の心は激しく高揚した
――そう、あれはゴブリンだ!
もやもやとした記憶の断片。その一つが明確な形を取った。
たったそれだけの事が、驚くほどに嬉しかったのだ。
亡霊は、一方の女の方へと意識を向ける。
彼女はカンテラを地面に置いて立ち上がると、慌てて腰の鞘から短剣を引き抜いて身構えた。
カンテラの仄灯りに照らし出されて、壁面に長く伸びた女の影が揺れる。
いや、女と呼ぶには、かなり幼い。
よく見れば、それは美しい少女だった。
あどけない瞳は蒼穹のごとき、鮮やかな蒼。頭の左右で結わえた髪は純金の輝きを宿し、そこに深い海を思わせるラピスラズリの髪飾り。
白磁の肌には、必死に走って来たのだろう。玉の汗が浮かび上がり、触れれば折れそうな華奢な身体を、濃紺の短衣と白のボトムスに包んでいる。
だが、彼女を特徴づけているのは、今挙げた何れでもない。
それは長く尖った耳。
――エルフ……という奴なのか?
ゴブリンの時とは異なる、きっちりとした形を為さない曖昧な記憶。
おそらく知識として知ってはいても、エルフという存在を実際に見たのはこれが初めて。そういう事なのだろう。
亡霊がそんな事を考えている内に、ゴブリンの一匹が錆びた鉈のようなものを振り回しながら、エルフの少女へと飛び掛かった。
「こ、来ないでぇ!」
少女の悲鳴じみた声が響き渡る。
彼女はその一撃を、よろめきながらもなんとか躱し、怯える様に目を閉じたまま、闇雲に短剣を振り回す。
駄々をこねる子供のような挙動。だがそれが、偶然にもゴブリンの腹へと深々と突き刺さった。
グ……グルぁ?
何が起こったのか分からないとでもいう様に首を傾げながら、ゴブリンが崩れ落ち、エルフの少女は引き攣った顔で、それを見下ろす。
「……やったの?」
だが多勢に無勢。偶然、ゴブリンを一匹倒せたところで、なんら状況は好転する訳ではない。
誰がどう見ても、あのエルフの少女は強そうには見えない。
今の一撃にしても、たまたま突き出した短剣に、ゴブリンが勢いあまって突っ込んだだけ。
どちらかといえば、事故に近い。
むしろ一匹を倒してしまった事で、状況は悪化の一途を辿る。
仲間を倒された事に激昂したゴブリンたちが、その死体を踏み越えて、彼女へと一斉に牙をむいた。
――可哀そうだが、これで終わりだな。
酷薄に聞こえるかもしれないが、彼は手も足も無い霊体なのだ。助けてやることなど、出来はしない。
この後、彼女を襲う悲劇を思えば胸は痛むが、せいぜい犯すにしろ、殺すにしろ、自分の目が届かない所でやってほしい。そう願うのみだ。
ところが次の瞬間、彼女の瞳の奥に、唐突に驚きの色が広がった。
エルフの少女が亡霊のいる方へ、ちらりと視線を向けた途端、ハッと息を呑むのが分かった。
――なんだ?
亡霊が胸の奥でそう呟くのとほぼ同時に、彼女は大声を上げた。
「そ、そこの生霊! ぼさっとしてないで助けなさいよぉ!」
――は?
エルフの少女の必死な叫び声とは裏腹に、亡霊は思わず間抜けな声を漏らす。
彼女の声は聞こえている。もちろん、耳には届いている。
だが、思考が追いつかないのだ。
――そこの生霊? そう言ったのか?
「は? じゃないわよ! アンタ以外に誰がいるってのよ! とっとと助けなさいってばぁ!」
――もしかしてキミ、私が見えて……いるのか?
「見えてるから言ってるんでしょ! バカなの? 死ぬの?」
亡霊に「死ぬの?」もないものだが……。
見えている。その一言に、亡霊の胸の内から、言い様の無い感情が溢れ出す。
それは驚きと歓喜、そして只の傍観者ではいられなくなった事への困惑。
それがない交ぜになった複雑な感情。
――いや、しかし、今の私には手も足もない。何も出来はしない……。
エルフの少女は震える指で、自分を取り囲むゴブリンたちの向こう側、自分が倒したゴブリンの死体を指し示す。
「もう! 辛気臭いわね! そのゴブリンの身体を使えばいいじゃない。まだ間に合うからぁ!」
――使う?
「今、胸の辺りで光が散ってるの見える? そこに手を伸ばすの! 早く! 消えちゃったら使えなくなるわよ!」
――手など無い。そう言っているだろう!
「ああもう! めんどくさいヤツ。イメージすんの! その光を掴むイメージ! それを思い浮かべんのっ!」
エルフの少女は地団駄を踏む様に、足を踏み鳴らしながら捲し立てて、亡霊は言われるがままに、意識の中でその光へと手を伸ばす。
亡霊のいる場所からゴブリンの倒れている所まで数メートルはあるが、イメージに距離など関係ない。
亡霊はゴブリンの胸の辺りで、花火の様に飛び散っている光へと手を伸ばす。
そして、その儚く散っていく光の一端に指先が触れた途端、目の前の景色が白く染まった。
眩暈?
ぐわんぐわんと音を立てて、世界が回る。
回転の最中、リンゴの皮をむく様に白い世界が破れて、その下から黒い霧が溢れ出し、亡霊の周りを取り囲む。最後に目の前で星が散って、視界が暗転した。そして次の瞬間、身体が急に重くなった。
そう身体がだ!
頬に感じる固い地面の感触、肌ざわり。顔を突っ込んでいる地面の滑った苔の臭い。
ひんやりと冷たい洞窟の冷気。
その何もかもが生々しい。
亡霊はゆっくりと身体を起こして、自分の両手に目を落とす。
子供の様な小さな手に鋭い爪、緑がかった肌。
間違いない。この身体はゴブリンのものだ。
さっきまで見下ろしていたゴブリンの身体。それがまさに今、彼のものになっていた。
短剣が刺さった筈の腹部には、傷一つない。どういう理屈かは分からないが、魂が入れ替われば身体のダメージも無くなるという事らしい。
――ああ、重い。身体というのは、こんなに自由の利かないものだったか……。
その不自由さに、思わず顔がにやける。
たとえそれが、醜いゴブリンの身体であったとしてもだ。
「もーー! ニヤニヤしてないで、早く助けなさいよぉ!」
牙を剥くゴブリンたちを、短剣を振り回して牽制しながら、エルフの少女が切羽詰まった声を上げた。
――助けを求める者の物言いではないな。
「うるさい!」
亡霊は思わず肩を竦める。
だが、いかに小生意気な娘でも、恩人には違いない。
亡霊は膝に手をついて立ち上がろうとした途端、思わず足を縺れさせた。
――これは……なかなか厄介だな。
手の長さの違い、足の長さの違い。生前の彼とは、おそらく何もかもが違うのだろう。
寝転がっている分にはそうでも無かったが、立ち上がろうとすると違和感が凄まじい。
――これは、思う通りに動かせる様になるまで、少々時間がかかりそうだ。
胸の内でそう独りごちて、亡霊はこの身体の主が、生前握っていた得物を拾い上げる。
それは、赤茶けた錆の浮いた鉈。
どこかの農家か、木こりから奪い取ってきた物だろう。刃も欠けてギザギザ。人間なら鉄くずとして、すぐにでもゴミの山に放り込むような代物だ。
だが、どんなに身体が動きにくかろうと、どんなに得物がショボかろうと、たかがゴブリンに後れを取る事などない。
――そう、そんな事などありえない。
亡霊は、なぜかそう確信していた。
彼は軽く鉈を振るって手ごたえを確かめると、エルフの少女を威嚇しているゴブリンの集団へと背後から静かに歩み寄る。
そして、今にも彼女に飛び掛かろうとしている一匹の頭上へと、一息に鉈を振り下ろした。
気を刀身に漲らせ、接触する直前に手首をスナップ。
すると、錆びた鉈の刃が、まるでバターにナイフを入れるかのように、ゴブリンの身体を、頭から股下へとすっと通り抜けた。
ぐぎゃぎゃ!?
斬られたゴブリンが、ふざけた子供が発する様な珍妙な声を上げて、硬直する。
周囲のゴブリンが、不思議そうにその一匹の顔を覗き込んだ途端。
そのゴブリンがまるで干物さながらに真っ二つに割れて、噴水の様に緑の血を噴き出した。
「きゃあ!? ちょ、ちょっと!? あんたねぇ!」
飛び散る血しぶきに、エルフの少女が非難めいた声を上げ、ゴブリン達も「ぐぎゃ!?」と声を上げて、一斉に飛び退いた。
――は、はは、ははは……。
彼女の非難の声も耳には届いているが、そんなことはすでにどうでも良かった。
何かを斬る。その手ごたえの懐かしさに、思わず鼻の奥がつーんと痺れて、目の奥が潤む。
この時彼は、ゴブリンにも涙腺があるという事を初めて知った。