誘惑
のんびりとした昼下がり、器用に縫い物をしていたミラがその手を止めて近づいてくる。
「ご主人様、センサーに反応があります。川の向こうに何かが居ます。恐らく人間かと」
「ああ、俺も視線を感じた。......見張ってるみたいだな」
「大きさは子供程度ですが、油断されないように」
「分かった」
手作りの椅子から身を起こし、テーブルの上の愛銃を手元に引き寄せる。
こちらから向こうの姿は確認出来ないが、獣が向ける警戒の視線とは違い多くの感情を感じる。
迷い、恐怖、不安......。
敵意こそ感じないが、ずっと見張られているというのも気持ちいいものじゃない。
威嚇射撃でもしてやろうかと思ったときに、その訪問者は気配を消していった。
「どうやら去ったようですね。警戒を続けます」
「ああ」
元の世界なら気にすることもないような状況だが、俺もミラもこちらに来てから少し警戒心が強くなっているのだろう。
そう思いながら俺は再び椅子に背中を預けた......。
****
その監視者は数日置きに現れ、特に何をするわけでもなく数時間、俺たちを見張って去っていく。
罠を仕掛けて捕獲しようかとも考えたが原住民である可能性を考えると手荒な事はしたくなかった。
「巧みに姿を隠しているので正確には分かりませんが、解析の結果衣服のような物を身につけているようです。知性のある存在の可能性が高いですね」
「子供だと思うぞ。視線からそんな感じがするんだ」
「その仮説を採用しましょう。私もその確率は高いと思います。......どう対処いたしますか?」
「子供と言えば甘いものだろう。ケーキの材料を転移しておいてくれ」
「了解しました!」
ミラは得意のケーキ作りが出来るとあって嬉しそうに返事をした。
もちろん俺も楽しみだ。
周囲に甘い匂いをまき散らしてやろう。
鍋で煮詰められたこっちの世界の果物がそれだけで甘い匂いを放つ。
そしてミラが鼻歌混じりに楽しそうにケーキの生地を作っている。
石を加工した窯には火が入り、ベストな温度になっている。
後は彼女がそこに耐熱皿に盛られたケーキ生地を投入するだけだ。
「でわ、行きます」
「おう」
それだけでも美味そうに見えるケーキ生地が窯へと入っていき蓋がされる。
彼女の事だから見えなくとも焼き上がりに失敗することはないだろう。
窯の上部から煙が甘い匂いとともに風下へと流れていき、監視者が隠れている辺りを直撃する。
常に風下を確保していることが今回は裏目に出たようだ。
俺ならこの時点で降参している。
すでに口の中は涎で一杯だ。
「やはり水が良いと違いますね、きっと素晴らしい出来映えになることでしょう」
「ああ、美味そうな匂いだ」
「ふふ、もう少し我慢してくださいね」
この状態で尋問されたら、どんな秘密も話してしまいそうだ。
匂いに釣られてかイノシシ親子まで川辺にやってきた。
餌を待つ飼い犬のように並んで座る姿は遠目で小さく見えるために、とても可愛らしい。
近づけば山のような姿に圧倒されるのだが。
「あら、お客様が増えたようですね。腕の振るい甲斐があります」
「はは、甘い物は次元を越えるか」
「そのようです」
ミラは客が増えたことが嬉しいようでクルクルと回っていた。
「さあ、出来ました。煮詰めた果物を乗せて完成です」
「ああ、美味そうだ」
完成が間近なのが分かるのかイノシシ親子の鼻息も荒くなる。
隠れた視線からも興味と空腹の意志が感じられた。
「では、最初の物はご主人様が」
「ああ、ありがとう」
俺はミラやイノシシ親子、木の上に隠れる監視者の視線を集めながら出来上がったばかりのケーキを口に運んだ。
凄い!
その一言が頭に浮かぶ。
綺麗に焼き上がった生地は表面はサックリ、中はしっとり。
そして果物の酸味と甘さにシロップの甘さが加わり絶妙な味を作り上げている。
俺はその美味さに身体が震えていた。
「う、美味いぞミラ」
「ありがとうございます。さあ、彼らにも振る舞ってあげましょう」
ケーキの乗った板を持ってミラはスーッと川を越えていく。
そして親イノシシは子供からと一歩下がった。
切り分けられたケーキは彼らの身体からするととても小さいが広がる甘さはそれを無視してくれるだろう。
大きく開かれた子供イノシシの口にケーキが入れられると歓喜の叫び声が川辺に響く。
続くように親イノシシも叫ぶ。
きっと「美味い!」とでも言っているのだろう。
短めの尻尾はちぎれんばかりに振られ感謝の意を表すように鼻先をミラに擦り付けていた。
「気に入ってくれたみたいですね」
ミラは嬉しそうに左右に揺れる。
そして甘い匂いに絡め取られたのか、逃げることなく監視者が隠れて居るであろう木の近くにケーキを置くと、彼がその姿を現すのにそれほどの時間はかからなかった......。