ニセモノヒロイン
春に変わる際のぐずついた天気を、菜種梅雨と呼ぶらしい。梅雨ほど長く降り続くわけでもないけど、雪が降らなくなって、温かくなって……アブラナが花芽を出す頃に丁度良い雨をもたらす天気だ。
まあ、農学部なので、講義の受け売りだが。
午後の二コマ目――つまり、四限を取っていたので、別棟にある次の教室へと向かう前。中途半端な雨が、これまた徒歩一~二分という微妙な距離を濡らしていた。
傘はある。
が、教科書類が無ければ差さないような雨と距離だ。
まあ、あるんだから差せば良いって話かも知れないが……。
デニムにロングTシャツと、余り色気は無い格好だが、それはこの農学部女子の中では普通の格好だ。背中の半分まで伸びた黒髪に、ちょっと似合ってないようで似合ってるレンズが大きな眼鏡、物憂げな表情は空を見上げている。
実習なんかで何度か話したことがある、十人いたら八人がちょっと可愛いな、と、思うはずの女子が、傘が無くて目の前で困っている場合、果たして自分が差すのが正解だろうか?
いや、違う。ここは――。
「晃?」
傘を開いて差し出したら、振り返り様に……違う男の名前を呼ばれ、少し、反応に困った。彼氏待ちだったか。
「余計なお世話だった?」
「あ、ううん、ありがとう。あれ? キミはどうするの?」
普通に傘を渡し、自分は入らずに行こうとすると――いや、決して、違う男の名前を呼ばれたことに対するショック症状ではなく――、すぐに呼び止められた。
「ああ、四限あるし、次、あっこだから」
目の前の講義棟を指差し、彼氏持ちの子にいらんことをした過負荷から逃げようとするが――。
「え? じゃあ、そこまで入っていこうよ」
「……いいの?」
素直にほいほいと誘いに乗るわけにもいかず――いや、彼氏出てきたら、どんな系統のヤツか分からないので、めんどくさそうだし――、迷っていると、向こうの方が察してくれたようで、軽く不安を笑い飛ばされてしまった。
「うん? ああ、彼氏とかそういうんじゃなくて、単に、そういうことをする人って他に思い当たらなくて」
「ふうん」
既に傘を渡してしまっていたので、彼女が傘を持ち、その中に入れさせてもらう形になった。
てか、ウチの学科にそんなキザなのいるんだな。
いや、まあ、俺も今さっきしたことだからアレだけど。
中途半端に間が空いたせいか、彼女の方から、さっきの謎の男――晃――について、話し始めてくれた。
「晃は、高校同じだったからねー。なんか、それだけなんだけど、同じ大学来たらやっぱり頼りやすいって言うか」
「ああ、なんか分かるな。俺も同じ高校からここ受かったヤツいるけど、高校時代そんなでもなかったのに、喋る機会増えたし」
「でしょ?」
と、たったそれだけで講義棟についてしまった。
名残惜しいが、一年の時に単位を取っておけば、後で絶対に楽になるから、と、団長の思いで傘から抜け、手を降り、階段を駆け上がり――。
「あれ? アンタ、傘持って来てなかったっけ?」
教室に入ると、そのさっきの話に出てきた、同じ高校からこの大学に進んだヤツと鉢合わせた。
が、質問の意図が分からずに首を傾げ――不自然に方が濡れてたのに気づいた。
まあ、安物の傘に二人は厳しかったか。
「未来へと投資した」
半分冗談で応えたんだが、嘆息されもせず、真顔で苦言を呈されてしまった。
「高校生以上が、雨の中走るのってバカみたいだから止めときなよ」
佐々木さんと違って、可愛くない反応をする女だ。いかにも農学部ですって、雰囲気だし。
「余計なおせっかいどーも」
着席すると、丁度講師が来て、中学の教室よりも狭い三十人教室での基礎科目の講義が始まった。
春に変わる際のぐずついた天気を、菜種梅雨と呼ぶらしい。
ぐずついた天気は、土日も続いて既に五日目だったが、どうにも俺の菜種梅雨は、なんの芽も出ずに不毛なままで困ってる。
あの時は、フラグを立てたと思っていたんだが……いや、まあ、分かってたけどな。傘差し出した時点で、別の男の名前が出て来てた以上。
しかし、なんだろう、この、期待してたわけじゃないんだけど、襲ってくる絶望感って。
多分、貸した傘が返ってきてないのと――、俺が貸した傘を、佐々木さんが普通に自分の物として使っているせいだろう。例の晃君と腕組んだ上で。
いや、まあ、大学前の百均の傘だから、デザインが同じなだけかもしれないが、ちっとは気を使え、このニセモノヒロイン。
「恋って、安くないんだな」
天気がぐずついてるってのに、実習農場での講義ってか……作業ってか、まあ、皆が皆、俺みたいに地方からの上京組じゃない以上、土に慣れるのも必要だと分かるが……。ともかく、古式ゆかしく泥まみれになった作業着から着替え、迎えた昼休み。
食堂に向かう人の流れの中で、現実を噛み締めていると……。
「金で恋人探すなよ、バカ」
後頭部を、無遠慮にひっぱたかれた。
俺は、傘を差し出されても真尋の顔は思い浮かばないが、叩かれた際には真尋の顔は浮かぶ。……ちくしょう、なんだこの差は。
「いや、そういう意味でなく。未来の投資が無駄になった件だ」
「は? ……ああ、テンプレに失敗したのね」
俺の視線を追い、なんとなく事情を察したのか、蔑んだ目を向けてきた真尋。
「うっせ」
軽く踵を蹴り返して、頭の後ろで腕を組む。
大学受験前に山ほど来た教材のおまけ漫画みたいには、現実は進まないものらしい。大学行っても彼女は出来ないし、授業は大変だし、不景気だから欲しいものがあればバイトも――。
不意に、ペシンと、尻を叩かれた。
「まあ、晩飯、割り勘で食ってやるから元気出せ、な?」
「ああ、まあ、俺等、今日、五限取ってるしな」
流石に、午前実習二コマ+午後、教養・基礎科目三コマはきつい。終わった後、飯を作る気にはなれないので、それがいつもの流れだ。同じアパートのお隣さん同士だしな。
「この夜は私のためにある」
真尋が、冗談めかして――って、それ、俺の真似か?
「五限ある火曜は、な」
出せといわれて元気が出るなら誰も苦労はしない。
色々と疲れる火曜の昼。
肩を竦めて見せると、平常運転の腹黒そうな一重瞼の視線を返された。
それは、しっかり者の、ホンモノヒロインの真尋に捕まるひと月前の出来事で。
本当の梅雨に、奮発した千円の傘で真尋をガードするひと月半前の、安物の傘の顛末。
花粉症の諸症状の改善に伴い、久々の参加です。