9.カクアリタイモノヨ
中央線で東京まで一気に出てしまい、山手線に乗り換えて新橋へ向かう。
平日の電車は、サラリーマン率が高い。
東京駅から一緒に乗り込んだグレーのスーツのおじさんが、隣で「はあ」と深く息を吐いている。
つり革にもたれるようにつかまって窓の外を見ているけれど、表情は無く、眺めるともなしに明後日のほうを見ているという感じだ。
前に座るおじさんも同じ顔をしている。
時々ぎゅっと目をつぶり、顔中に皺を寄せ、渋々といった感じでゆっくり目を開けて、わたしのスニーカー辺りをぼんやり見始める。
くっくと足を動かすと、おじさんの視線が外れて、ため息とともにまぶたが閉じられた。
サラリーマンの疲労度合いなど、わたしには分からない。
けれど時々、鞄を抱えて眠り込む姿を見ると、泣きたい気分になるのはどうしてだろう。
そんなことを思っていると背筋の伸びたサラリーマンが乗り込んできた。見るからにバリバリだ。おじさんなのに、勢いが違う。
人によって、抱えるものも考えも、重みも違ければ受け止め方も様々なのだろう。
電車の乗り換えは面倒くさい。
第一、何に乗ればどこへ運んでもらえるのかが、まだよく分からない。
地下鉄は苦手なので避けている。あの、もんやり感が好きになれない。
新橋駅に着き、そのまま改札を出る。
SL広場は結構な人がいて、にぎわっていた。
古本市をやっていたので一通りぐるりと眺めて見てまわる。
何冊か手に取り、面白そうなものを適当に選らんで、二百円を払う。
スカーフを頭に巻きつけたおじさんに、「へえ、おねえちゃん若いのにこういうの読むの?」と感心されたけれど、こういうの、という内容がどんなものか分からないので「ええ、読むんです」とだけ答えておいた。
本を受け取るときに手が触れて、どきりとした。
ずらりと並ぶガード下の飲み屋街を過ぎ、さらに小さな飲み屋の立ち並ぶ細い路地を歩く。
一度夜のこの辺を間違って通ってしまって、冷や汗とあぶら汗をかきながら歩いたことがある。
ふらふらになったたくさんのおじさんたちとすれ違った。
ぶつからないように必死で避けながら歩いた。
触れるのも酒臭いのも嫌だったけれど、陽気に肩を組み歩くその姿は気に障らなかった。
うっぷんを晴らすように笑う赤い顔を見て、大いにはしゃげ、とさえ思った。
翌日にはまた、何か重いものを抱えて、ぼんやりとした表情で電車に乗り込むのだから、ふらふらになるまで飲んで騒ぐ日があっても、いいと思う。
店と店の間に突っ込まれた看板やビールケースなんかを見て、敦司もサラリーマンになったらこういうところに通うようになったりするんだろうかと、ふと思う。
ボタンの似合う男だ、たぶん、スーツも着たその日からしっくりと似合ってしまうんだろう。
けれどスーツ姿の敦司を、新橋の、この路地裏の雰囲気に当てはめようとしてみても何だか旨くいかなかった。
どちらかといえば、駅の反対側に見える、新しいビル街の、そっち側の人間になるような気がする。
大きな道路に出て、見えた東京タワーに向かってひたすら真っ直ぐ進む。
歩いてる側の日射しが強すぎてめまいがして、横断歩道を渡って反対側へ移動した。
背中と脇の下に薄っすらと汗が滲んでくるのが分かる。
コンビニに寄って、迷ったけれど炭酸じゃなくお茶を選んで買って、また迷ったけれど、いつもの弁当屋へ向かった。
途中の狭い道に入り、少し進むと小さな弁当屋がぽつんと建っている。
おべんとう、と書かれた緑色ののぼりが、道路に向かって二本、頭を垂れている。
左側の壁に吊るされたホワイトボードに黒マジックで、数種類の弁当名が丸っこい文字で書いてあって、価格もリーズナブルだ。
カウンターの右端に乗せられたガラスケースの保冷器には二種類のペットボトルのお茶と、何故か、瓶入りのコーヒー牛乳が入っている。
わたしがこの弁当屋をみつけたのは、何てこと無い、道に迷った末の結果だった。
上京して三日目、東京に来たら東京タワーだろうと、中学生以来の観光気分でやってきたのだが、案の定、迷った。
適当に歩くうちにものすごく腹が減って、ふと目に入ったのがこの弁当屋だった。
のり弁を買った。店頭に立つ人の良さ気なおばちゃんからおつりを受け取るときに、話しかけられた。
「学生さんかい?」
「いや、違います。観光みたいなもので」
「観光? 一人でかい? 東京タワー?」
「はい、そんな感じです」
久しぶりに見る三角巾を頭に小粋に巻いたおばちゃんは、ほうれい線がくっきりと刻まれた頬にさらにえくぼを食い込ませ、気持ちのいい顔で笑った。
赤いエプロンの胸の部分に、熊の刺繍がしてあった。大きな胸はぱんぱんに張っていて、その下の腹も、気前よく張っていた。
わたしは、人に話しかけるという行為が得意じゃない。
けれど目の前のおばちゃんの、ゴム鞠のような風貌を見て、話しかけても、言葉の妙な吸収などせず、ぽんと素直な軽やかさで返事が返ってきそうな感じがした。害はないように思えた。
弁当を受け取って、しばらくその場でもじもじしていた。
するとおばちゃんの方から話を切り出してくれた。
「どうしたんだい?」
「あの、分からなくなってしまって。その、東京タワー。そのためにここに来たんですけど」
「なんだ、迷ったの」
「はい」
「すぐそこさ、ほら、見てみ?」
おばちゃんの指差す方向に身体を向けて見上げると、この店に降るはずの日光をさえぎっているビルの空の上に、タワーのてっぺん部分が見えていた。
ああ、なんだ、近くに来てたんじゃん、そう思ったら安心して可笑しくなって、振り向いて笑った。
「お、いい笑顔だね。味噌汁つけてあげるよ、持っていきな」
笑顔を褒められたのなんて初めてのことで驚いた。
笑顔ひとつで味噌汁までサービスしてくれるのか、このおばちゃん少し単純すぎるんじゃないかとその時は思ってしまったのだけれど、どうやらそうではなく、単に人がいいのだということを後々知った。
話しかけてもらったのと、味噌汁をサービスしてくれたのと、おばちゃんの雰囲気が好きだったことで、わたしは東京タワーに行く前に、この店に寄るようになった。
弁当を買うと、やっぱり味噌汁をつけてくれる。
まだ四回目だけれど、相変わらず赤いエプロンでにこにこと顔を出すおばちゃんとは、仲良くなったと思う。そういう気に、わたしがなっているだけかもしれないが。
「こんにちは」
「こんにちは。今日も東京タワーかい? 飽きないね、あんたも」
「はい、飽きないです」
「天気のいい日はすっきり見えるからね、遠くまで。たまには夜のタワーに上ってみたらどうだい? そのほうが綺麗だろ、若いし、そういうの好きだろ」
「夜は、駄目なんです。それに上ってるわけじゃないし。下で弁当食べて、見てるだけなんです」
「見てるだけ? なんだい、それ」
「下から見るタワーが好きなんで」
変わった子だねえ、とほうれい線をさらに奥にへこませて、おばちゃんは笑った。
弁当を受け取って、タワーへ向かう。
どんどん大きくなってくるタワーは、水色の空をバックに、凛と朱色に構えている。
変わらずにそこにある安心感、それが好きだ。
途中の大きな方の芝公園の中を突っ切った。
カメラを手にした若い男やおじさんがたくさん居て、何をしているんだろうと近くに寄ってみたら、花壇の前でしゃがんでにっこり微笑む女の人がいて、どうやらその姿を撮影しているらしかった。
ちょうどタワーが真後ろに見える位置の小道でも撮影をしていて、腰に手を当てた女の人が次々にポーズを変えていく。
ビニール袋をぶら下げたまま、しばらくその様子を見ていたけれど、隣に立った若い男の視線を感じ始めてそっちを見ると、カメラを向けられて、驚いて逃げた。
学生たちがロードワークをしている。
歩道の端に寄り、そろそろと歩きながら交番の手前の小さい方の芝公園まで歩く。
いつものベンチに荷物を置き、背伸びしてタワーのほうを見やると、平日だというのに相変わらず入場待ちの列が出来ていた。
その前で、でんと、堂々と、東京タワーがそびえ建っている。
待ち構えているわけではないけれど、来るものを拒まない、そんな感じだ。
力強いのに何処か優しい感じがして、わたしは下から見る東京タワーが好きだ。というか、好きになった。
初日、タワーに来たのはいいけれど、入場料がもったいなくなって中に入るのを諦めた。
真下で口を開けてタワーを見上げているうちに、下から見るその姿にはまってしまった。
こちらは一心に見上げて感心しているのに、タワーのほうはと言えば腰を屈めるようなことはしてくれず、かと言って見下すようなこともしない。
ただ遠くをじっと見据えて、自分の中に入ってくるものを受け入れて、涼しい顔をして、立派だ。
上ってしまうと分からないけれど、下からこうして見上げると本当に大きくて、てっぺんがどの辺りまで伸びていているのか、曖昧になってくる。
今日みたいに雲の無い日は尚更で、天井が果てしない分、先が見えなくて吸い込まれそうで、くらくらする。
しばらくぼんやりとタワーを見上げて、わたしは味噌汁を啜った。唇についたわかめを舌で取って、飲み込んだ。
木の陰を、車が忙しく過ぎていく。
のり弁を食べきって、ベンチに横になる。
平日のこの辺りは、犬を連れた散歩のおじいさんくらいしか通らない。
買った本を読もうかと広げてみたけれど、直ぐに眠気が襲ってきた。
わたしは本を頭の下に敷いて、両手を胸の上で組んで、すっかり青くなった葉の隙間で踊る木漏れ日を目で追った。
時々鋭く落ちてくる眩しさに目を細める。
木漏れ日の向こうで、東京タワーの朱色の身体が、傾きかけた日の光を受けて鮮やかに色を増していた。
水色の空と光以外、背後に何も抱え込まないタワーが羨ましい。
カクアリタイモノヨ、なんて思ってみて目を閉じると、輪郭だけになったタワーがまぶたの裏に映っている。
まぶたを閉じたまま、緑色のその輪郭を眺めているうちに、わたしはいつしか、眠りに落ちていた。