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8.少し負けた気分

「出かけるなら皿洗いとその辺の洋服ちゃんと片づけてそれからにしろよ。あと必ず火の元確認して戸締りは絶対忘れんな」


 大学とバイト先へ出かける朝、敦司は毎回同じことを言う。それも一息で。


 ロールパンをくわえている時もあれば、シャツに腕を通しながらの時もあり、稀に歯磨きをしながらなんて時もあるけれど、視線だけは、ながら作業ではない。


 キッとわたしを睨むみたいにして、少し、キツメに言い聞かせる。


 わたしがここに来てからおよそ二週間が経とうとしているけれど、初日を除いた二日目以降の出発前のセリフはいつもこれだ。すっかり覚えた。


 日によって皿洗いが洗濯に、洋服片づけが風呂掃除に微妙に変わったりもしながら、忙しそうに部屋中を歩き回っているのだけれど、このセリフをわたしに投げることだけは何故だか忘れない。


 今日は薄いベージュ色のシャツのボタンをテンポよく追いながら、慣れた手つきで重ね合わせている。


 しかしいつ見ても、敦司のシャツ姿は、いい。何というか、ボタンの似合う男だ。



「言わなくてもわかってるよ」


「何かしら忘れるだろ。いつも完璧なら何にも言わないの」


「はいはい。いってらっしゃいませ」



 ひらひらと手を振るわたしは、まだ布団の中で丸まったままだ。


 敦司のこのセリフを起き上がって聞いたことは、まだ一度も無い。


 天井とわたしの手のひらの間で、若いくせに渋い俳優みたいな顔をしながら敦司は、丸まったわたしを見て軽くため息をつく。



「わかってるならちゃんとやるように。そして昨日みたいな無茶はしないように。今日やったら、もう知らね」


「無茶しません。布団、干しとくから。天気いいし」



 うん、と伸びをして、窓の外に目をやる。


 一階の端の、敦司のこの部屋にはベランダがない。


 外には、布団一組を干してしまえばすぐにいっぱいいっぱいの、少しだけ茶色に錆びた柵があるだけだ。


 下半分が擦りガラス、上半分が透明の窓の外から光が射し込んで、狭い六畳部屋を照らしている。


 向かいの家のトタン屋根の上に、青に成りきらない薄い水色の空が広がっていて、その中をスズメが二羽、横切った。


 今日は一日、絶対晴れる。


 

「布団干すなら早く起きろよ」


「もう少ししたら起きるから。掃除も洗濯も、問題なし」


「ついでに乾燥ひじき、買っといて」


「乾燥ひじき?」


「作るから。久々に食いたくなった、ひじき」



 マメな男だ。


 布団の中から敦司の背中を見送った。


 今日は大学と、確かバイトもあった日だ。


 敦司はここから電車で三つ先の大学に通っていて、バイトは大学近くのコンビニでやっているらしいが、詳しいことはよく分からない。


 バイトのある日は十時半過ぎに帰ってくる。



 布団の中で膝を抱えて丸まって、一気に伸びをすると掛け布団から埃が舞った。


 射し込む光でキラキラ光って、わたしを取り囲むようにしてゆっくりと落ちてくる。


 もぞもぞと布団から抜け出し、四つんばいのまま窓へ移動してカラカラと引くと、砂利の上に白い猫がいた。


 猫は一瞬驚いて、警戒するようにわたしを見上げて、やがて何事もなかったようにそっぽを向いて小道へと歩いていった。


 ぴんと立ったしっぽの先だけがぴくぴくと動いていた。


 

 東向きのこのアパートは、朝こそ眩しく照らし出されるけれど、昼を過ぎてしまうとそうでもない。


 布団を干すなら早めに出して、昼過ぎには引っ込めるのがベストだ。


 長く干しておくと、東京の空気みたいにもんやりとして、どこかから流れてくる生臭い匂いが染み込んでしまうような気がして、干したという達成感を味わえない。


 わたしは家事というものなどままごとくらいにしか出来ないけれど、敦司が言い残していくことくらいは、ある程度、ちゃんとやる。


 洗濯をして掃除をして、気分がのってくると、それ以上のことをやったりもする。


 敦司が帰ってきて、ぴかぴかになった床などを見せ付けてみたりもするけれど、反応はイマイチだったりするので、面白くはない。次の日は大抵サボる。


 

 開けた窓からいい具合の風が入り込んで、前髪を抜けて、少ししっとりとしている額に届いた。


 立ち上がって腕を上げ、深呼吸をするとパジャマから腹が出て、外の空気に少し、冷たかった。


 

 部屋の掃除をして、言いつけの皿を洗って、服をたたんで重ねて置いて、自分の布団と敦司の布団を交代で干して、洗濯をしながら牛乳を啜り、ときどきぼんやりと濃くなり出した空を見上げてため息なんてついてみるうちに、時計は昼を回っている。


 布団を取り込んで部屋の隅に押しやり、洗濯物を外付けの竿にぶら下げて一息つく。


 することが無くなる。


 群青色の長座布団に被さるように寝そべってテーブルの下を見ると、あの雑誌が投げ出されていた。


 手を伸ばし、そのままページをめくってみたけれど、ぱらぱらと下に落ちるページが作る緩い風が顔を撫でるだけで、面白くも何ともなかった。


 しばらくごろごろとして、天井を見たり、床の傷をなぞってみたりしていたけれど、それにも飽きた。


 起き上がって流しへ行き、冷蔵庫から食パンを取り出してトースターに入れる。


 しばらくすると、パンの焼ける朝っぽい匂いが流しに広がって、わたしはそれを取り出して新鮮な気分でバターを落とし、くわえながら窓へ戻った。


 錆びた柵に寄りかかってパンを齧ってみたけれど、日はもうだいぶ高い位置にあり、朝の気分は直ぐに過ぎていった。


 さっきの猫がいつの間にか戻ってきていて、向かいの家の側溝の手前からこちらを見ている。


 丸まって両足を揃えて、目をつぶりながら微かに「にゃあ」と言っている。


 ちっちっちと舌を鳴らしてみても、やっぱり警戒しているのか少しも近づいてこない。


 そのくせ、いちいち「にゃあ」と目を閉じながら鳴くものだから、わたしもつい意地悪くなってしまう。


 もぐもぐと大袈裟に口を動かして、じっと猫を見る。


 ひとかけ分を残して砂利へ落とすと、猫は黙って、しっぽの先だけを動かして、パンとわたしを交互に眺めていた。


 わざとゆっくり窓を閉めながら、隙間からしばらく覗いて見ていたけれど、猫に動く気配はなかった。



 ぐるりと部屋を見回して、抜けていることはないかチェックする。


 皺だらけの一万円札が尻ポケットに入っていることを確認し、少し怖くなって肩掛けのカバンに腕を通した。


 その中に携帯とむき出しの一万円札を入れて、玄関へ向かう。


 流しの火の元を確認し、スニーカーに足を入れる。


 ベージュの扉を開くと、まったりとした春風が髪を揺らした。


 まだ裏手に落ちてこない日の光は、遠くのマンションのベランダを照らしている。


 気持ち良さそうにだらりとぶら下がった何枚もの布団が白く光っている。


 やっぱり今日は、天気がいい。


 行き先が必然的に決まって、わたしは玄関の鍵を閉め、抜き出した鍵をカバンに入れ、ドアノブを何度もくるくると回してきちんと閉まっていることを確認してから、歩き出した。


 アパートの前を過ぎるとき、白い猫が目の前を勢いよく走り去っていった。


 口に、パンをくわえていた。


 少し負けた気分になって後ろ姿を見送った。


 チャンスは、うまく掴む必要があるらしい。





 

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春企画「はじめてのxxx。」

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