6.まだ、抜け出せない
中央線でひとつ先の中野には、あっという間に着いてしまう。
握り締めていた敦司のシャツをもう一度しっかりつかんで立ち上がると、敦司はわたしの手をシャツごとつかんでホームへ降りた。
電車とホームの隙間はぱっくりと口を開けていて、さほど深くもないのに、いつも少し、怖い。
踏み出す右足に力が入る。敦司の手にも少しだけ力が加わって、わたしは無事、ホームに帰還する。
改札を出て、中野通りを歩いて北へ向かう。
新宿とは明らかに違う空気の緩さにほっとして、幾らか新鮮に感じるその空気を吸い込んでみたらバスの排気の味がした。
東京で、田舎の空気みたいな美味さは期待していない。
ただ少しでも、安心する空気が流れる場所くらい、確保しておきたいものだ。
サンプラザ前の広場には、わたしぐらいの年齢の若者たちが大勢集まっていて、なにやら騒いでいた。
誰かのコンサートでもあったのだろうか。遠目でもわかるほど表情が生き生きとしている。
女の子たちが飛び跳ねながら腕を振り回すたびに、蛍光ピンクのサイリュウムが光の緒を引いて、めちゃくちゃに動き回るねずみ花火みたいに見える。
若いな、と思う。
馬鹿にしているのでも、批難しているのでもなくて、今を満喫していて羨ましいな、と素直に感心する。
そしてしみじみ眺めてしまう。
自分だって十分若いのはわかっているけれど、あんなふうに大っぴらに、若さを周りに振りまける同年代の人間を見ていると、妙に年寄り染みた気分になってくる。
運動会の控え席にいるときのような、学級会で漫才を披露している友人を眺めているときのような、そんな感じだ。
「若くていいね。軽やかだよね、全部」
「なにが?」
敦司はわたしを見下ろして首を傾げている。
頭ひとつぶん高いその顔に、車のライトが滑って通り過ぎた。
首筋はもう光っていない。汗は乾いたみたいだ。かわりに鼻先が少し、照かっている。
「あの子たち。楽しそう。生きてるって感じだね」
「なんだそれ」
敦司は右手で髪をかき上げて、ほんの少し笑ってまた前を向いて歩き出す。
年寄り染みた気持ちを抱えたまま、わたしもその後に続いて、斜め前方の敦司の横顔を眺めてみる。
一つ年上なだけなのに、わたしの手を引く今日の敦司の顔は、おじさんっぽく見えた。
いや、保護者の顔とでも言うのだろうか。
わたしが作ってしまっている顔なんだと思ったら、少し申し訳なくなって「ごめん」と口にすると、「は? 何が?」と不思議な顔をして振り向かれただけだった。
途中のコンビニに寄って、板チョコとコーラを買う。
わたしだって、選ぶ物は若者好みから外れていない。
魚より肉が好きだし、あんこよりチョコが好きだし、お茶は好きだけれど、炭酸水を一気飲みしたいときだってある。
若者っぽいことをあえてしようと思わなくたって、それらしいことをちゃんと選んでやっている。
なんだかんだ言っても、所詮若いのだ。
早稲田通りにぶつかって横断歩道を渡って、路地を右に入ってしまうと、途端に暗くなる。
春先の蛇みたいな、緩いくねり具合で続いている小道を五分くらい歩くと、居候先の敦司のアパートが見える。
隣の部屋の明かりがアパートの前の砂利を四角く照らしていた。
「さっきから気になってたんだけど、それ、何?」
部屋の明かりをつけた敦司は、ベランダのカーテンを引くわたしの背中を指差して言った。
指先と視線をたどると、わたしの腰のあたりに行き着いて、二つ折りになって突っ込まれている雑誌に行き当たった。
そういえば挟んだままだった。
気になっていたんならコンビニに入ったときにでも言ってくれればよかったのに、そう思ったけれど口には出さず、雑誌を引き抜いて表紙を見ると、女の顔が汗で歪んでブスになっていた。
「お土産」
「あ?」
「好きでしょ、こういうの。手ぶらで帰ってくるのもどうかと思ってさ」
「好きって。いや、嫌いじゃねーけどさ。わざわざ買ったわけ? そんなの」
「いや、拾った、みたいな」
「は? 拾った雑誌が土産かよ。っていうか、んなもん拾ってくんなって」
コーラ片手に雑誌を受け取った敦司は、湿ったページをぱらぱらとめくって、寝そべった女のページで少し止まり、だけど見なかったことみたいにしてばさりと雑誌を閉じた。
「気に入った?」
「何が」
「裸の女」
「馬鹿かお前は。それより由佳、そこに座れ」
雑誌をテーブルに放りながら敦司が指差す先には、わたし専用の群青色の長座布団がある。
中野サンモール内の小さな店で敦司に買ってもらったやつだ。
おばちゃん好みの洋服店の店先で、ワゴンの中に山積みにされていたセール品。
安物商品の布地は、どうしていつも余計な柄が散りばめられているのだろうと思いながら、積み重なった長座布団をめくっていた。
赤い小花柄や大きな牡丹みたいな絵の描いてある長座布団のなかに、一つだけ単色群青色のそれがあって、どうしてか目にとまった。
温泉宿の大広間にあるような、ただの四角い渋い座布団が、一回り大きくなっただけのような代物だ。
たぶん、そのときは良く見えたんだろう。欲しくなった。
部屋の中でごろごろとするのが日課みたいになっていたわたしに、長座布団は必需品に思えたのだ。
学校から帰ってきた敦司に金をせびり、千円札を握り締めてその店へ戻った。
六百円の長座布団を抱えて、おつりで八百屋の籠入り林檎を買って意気揚々と帰ったら、敦司は少し、むっとしていた。
そういえば敦司は、昔から林檎が嫌いだった。
林檎は摩り下ろして一人で食べた。わたしは好きなのだ。
「座る? なんで?」
「いいから座れ」
「どうせ怒るんでしょ。分かってるよ」
「分かってるなら、座れ」
命令されて、しぶしぶ長座布団に腰をおろす。
向かい側の床に腰を下ろした敦司は、テーブルの上で手を組んで、生徒指導室の先生みたいな顔をしてわたしを見ている。
じっとあの目で見られて、やっぱりそわそわして、わたしは自分の股の間に視線を落とした。
「人の多い所に一人で行くなって言っただろ」
少しだけ強い口調だけれど、ちゃんと心配が含まれていて、そこが生徒指導室の先生とは決定的に違うところだ。
「……ごめん」
「職探しするんなら、俺に言ってからにしろ。何か探してやるから」
「自分でみつけようと思ってさ。あたしなりに気を使ってみたんだけど」
「だからっていきなり歌舞伎町はねーだろ。っていうか何で歌舞伎町なんだよ。この辺だって色々あるだろ、コンビニとかスーパーとか本屋とか」
「いや、手っ取り早い方法と高い金を、と思ってさ。何となく新宿に出てみたんだけどね」
あはは、と笑ってみせたけれど、敦司は少しも吊られなかった。
それどころかますます渋い顔つきになり、組んだ手に体重を乗せて前かがみになっている。
「お前さ、何する気だったわけ? まさかキャバクラとかで仕事しようとか思ったわけ?」
「そう。そのとおり。ピンポン」
「何がピンポンだよ、出来るわけないだろーが」
「いや、大丈夫かなって思ったんだけど。結局いい店が無くってさ。ま、いいじゃん。ちゃんと戻ってきたんだし」
言ってから「しまった」と思い、上目遣いで敦司をちろりと見た。
ちゃんと戻ってこれたのは敦司に迎えに来てもらったからだ。
さも自分で戻ってきたみたいな言い方をしてしまうわたしは、本当に、救い難い。
「お前なあ」
ため息と一緒に吐き出される呆れた声。
うつむいて「ごめん」と言うと、敦司の手が頭に伸びてきて、軽く叩かれた。
「何であんなとこに座り込むはめになったんだ?」
「……いや、ちょっと人に酔っただけ」
「ホントに?」
「ホントに」
本当は話してしまいたかった。
話したほうが気分的にすっきりするように思えたし、一万円札だって、渡したい。
言い出そうと思って迷い、金魚みたいに口を開け閉めしながら、歌舞伎町での出来事を順を追って思い出してみる。
空腹のあまり、初対面の男に誘われてラーメンを食べたこと。
ラブホに連れて行かれて、あんなになったアレを初めて見て驚いて、気持ち悪くなって敦司を呼んでしまったこと。
盗んできた金が今、尻ポケットに入っていることなど、全部。
どこかを掻い摘んで話そうとしても、いいところが一つも見当たらない。
勢いで話してしまっても良かったけれど、結局は敦司の心労を増やすだけの惨事でしかないことに気付いたら、どうでもよくなった。
無駄に怒らす必要もない。
それより、外出禁止例が出たら大変だ。
「ホントだな?」
やや見上げるような黒い目が、確認するようにわたしに向けられる。
わたしはうんと頷いた。
「とにかくもう、夜一人で出歩くのはやめろ」
「了解」
確かにもう、一人で夜の街を歩くのは止めておいたほうがいいだろう。
「それこそ……男に何かされでもしたら、どうすんだ」
目の前の敦司は、疲れたおじさんみたいな顔をしている。
色白で通った鼻筋。黒目がちな大きな目。イケメンの部類に入る顔だろうに、すまないことをした、と反省する。
敦司の言うとおりだ。男に何かされたらヤバイだろう。
今回は未遂で終わったけれど、あれしきのことでさえ、わたしはへたり込むほどびびったのだから。
やっぱりまだ、駄目なのだ。
わたしはまだ、男嫌いから、抜け出せないでいる。