5.東京で頼れる人間は
とぼとぼと、新宿駅へ向かう。
擦りむいた手のひらが、ひりひりする。
打ち付けた膝は、ジーンズに擦れて痛い。カクカクと笑ってさえいる。
久しぶりの全力疾走は、身体のあちこちの力を抜けさせた。
胃は重く、なんとなく奥の方がきりきりと痛んでいる。
深呼吸をすれば少しはマシになるだろうかと思い、めいっぱい空気を吸い込んで、その勢いのまま息を吐き出したら、豪快なゲップが出て、焦った。
しかしいくらかラクになる。
放置してこようかと思った雑誌は、けれど二つ折りにして、ジーンズと腰の間に挟みこんできた。敦司への手土産のつもりだった。男は、こういうのが好きだろう。
隙間から少し冷たい空気が入ってきて、しめったパンツがひんやりする。
顔を上げるのも面倒で、スニーカーの足先を見つめてただぼんやりと歩いていたら、自分がどこにいるのか一瞬、分からなくなった。
きょろきょろと辺りを見回すと、低いところからぞくぞくと頭が現れて、そこが地下通路へ繋がる階段だと気づく。
一歩足を踏み出すたびに膝がかくんと沈み込んでしまって、手すりにつかまりながら、お婆さんみたいに腰を曲げて慎重にくだった。
地下に入ると、時々へんにぬるい風がぶわっと首筋を通り抜けていく。
地下道は嫌いだ。
接着剤みたいな、ガムテープみたいな、粘着力の強そうな匂いがする。そのまま動けなくなってしまうような気持ちに陥って、いつもなんとなく小走りになってしまう。
人の波に押されるようにして駅構内を横断し、券売機の前に着いてポケットに手を入れる。
小銭にたどり着く前に、紙の感触で手が止まった。
引き抜いた一万円札は、しんなりとしていて、くしゃくしゃに縮こまっていた。
両手で端をつかみ、そっぽを向いた諭吉を見つめてみる。
視線を逸らされている分、何だか無視されているような気持ちになり、半分ムキになってその目を睨みつけたけれど、かえって惨めになるだけだった。
それどころか、札に描かれたその顔が次第にさっきの男の顔に見えてきて、手が震えた。
にやにやと笑うへこんだ頬。
あばらの浮いた白い身体、信じられない勢いで起っていたアレ……が見つめる諭吉の顔とは別のところに浮かんできて、全身が震えだした。
札を握りつぶして、ポケットに押し込む。
小銭を取り出し、券売機に入れようと手をかけたけれど、治まらない震えは酷くなるいっぽうで、わたしは両手で身体を包んでその場にしゃがみ込んだ。
目の前を何人もの足が行き来している。
時々、革靴やヒールが立ち止まるのだけれど、声をかけてくる人はいなかった。かけられても、今のこの状態では口も開けないだろう。
この街の、こういう薄情さ加減は、でも好きだ。
這いつくばって隅に移動し、左ポケットから携帯を取り出して開くと、二件の「留守録アリ」のメッセージが表示されている。
震える指でボタンを押し、携帯を耳に押し付けた。
『――ピー……「おい、由佳、お前どこほっつき歩ってんだよ。散歩か? 買い物か? っていうか、どこに居んだよ。アイス、ハーゲンダッツ、出しっぱなしだったぞ! 食いたいって言うから高いのわざわざ買ってやったのによー。洗濯物も干しっぱなしだしよー。全部ちゃんとやってから出かけろよ。んで、ど……」――ピー…』
敦司からだった。
その声にほっとし、次のメッセージを聞く。
『――ピー……「留守録って短けーんだな。っていうか、どこ? 早く戻ってこい。倒れたらどうすんだ。これ聞いたら電話しろ、分かったな?」――ピー…』
怒っているとも呆れているとも、どっちにもとれる敦司の少し高い声は、だけど心配しているのが分かる語尾の柔らかさだ。安心してますます力が抜けた。
履歴を表示し、小刻みに震える親指でボタンを押す。
四回の呼び出し音で、勢いよく敦司が出た。
「由佳? 何やってんだよお前。もう十時だぞ? 散歩にしては長すぎるだろ」
敦司の声の向こうで、かちゃかちゃと陶器っぽい音がする。
皿でも洗っているのだろか。そういえば頼まれていた昨日の夕食の片付けもしないで出てきちゃったな、と思い出す。
携帯、濡れたらどうすんだろ……またどうでもいいことが浮かんで苦笑した。
「敦司」
「なに?」
「ヤバイ」
「あ? なに?」
「立てないんだけど。あたし」
「は? 立てないって、何? 何してんの、お前」
「座ってる」
あ? と言った敦司の声は、少し黙ったあと、思い出したみたいにして受話部分から低くこぼれた。
「由佳お前、今どこ?」
「歌舞伎町帰りの新宿」
「あ? 新宿? の、どこ?」
「駅。東口。の、券売機前…っていうか、その隅」
「何だよそれ。よく分かんねーよ。いいわ、すぐ行くからじっとしてろ。新宿着いたらまた電話するから。そこに居ろよ。動くなよ」
一気にしゃべった敦司はぷつりと電話を切った。
プー・プー・プーという音しかしなくなり、抱え込んだ膝の上で携帯を閉じた。
切符を買う人たちのほぼ全員がちらちらとわたしを見ては、怪訝な顔をする。
羽目をはずした若い女の、自分の限度を知らない女の、そんな類の酔っ払いとでも思われているのだろう。
コーチのショルダーバッグを下げたお姉さんに「どうしたの?」と声をかけられたけれど、わたしはうつむいて首を振るだけにしておいた。
かまうのも、かまわれるのも、今は面倒くさかった。
周りを無視すると、不思議と足音も声も遠くなり、前を行く人たちなんかも、スクリーンの中で動いているように見えてくる。
膝を抱えて、無声映画みたいなその光景を上目遣いで時々眺めて、敦司を待った。
四十分、経つか経たないかくらいで握り締めていた携帯が震え出した。
携帯を開いて、もしもしと言いかけたけれど、それより先に敦司のせかせかした声が耳に飛び込んできた。
「着いた。新宿。で、どこ?」
敦司の声の後ろで、電車のごおおうという音と、ホームに響く駅員の声がしている。
受話の向こうの鼻息が荒い。携帯から漏れてきそうなほどふがふがしている。
ここに着いたらたぶん怒るな、と思いながら、それでもわたしは周りに見える看板の文字や物の説明をし、敦司を誘導した。
仕方ない。立てないのだから。東京で頼れる人間は、まだ、敦司しかいない。
「は?」「ああ、はいはいはい」「なんだそれ」、少しイラついている敦司の声を聞きながら、ここに辿り着いたときの奴の第一声は何だろう、なんて想像してみる。
おそらく「アホ」とか「馬鹿」とかに違いないけれど、言われても仕方ない。その通りだ。
なんて言い訳をしよう、そう考えてはみたけれど、尻をついている床の硬さに神経は傾いていく。
どうしようもないくらい、わたしは自分本位だ。
むずむずと腰を動かしてふと前方を見ると、人ごみのなかをこちらに向かってつかつかと歩いてくる点が見えた。
携帯の中の声が途切れる。次第に近づいてくる顔の主は、敦司だった。
「よ!」
眉間に皺のよった敦司の顔を見ながら、わたしは馬鹿みたいに手を上げて笑ってみせた。
最後の数メートルを小走りしてわたしの前にしゃがみ込んだ敦司は、持っていた携帯をぱたりと閉じて、大きく息を吐いた。
グレーのシャツから覗く首元に、薄っすらと汗が光って見える。
よほど焦っていたのだろう。悪いことしちゃったな、と思いながらも心配をかけたくなかったわたしは「べ」と舌を出して笑ってみせた。
そんなわたしを見て、ぼりぼりと癖のない真っ直ぐな黒髪の頭をかいた敦司は、やれやれといった表情で、ぽんと軽くわたしの頭の上に手を置いた。
「大丈夫か」
予想外の第一声。わたしは驚いて敦司を見上げた。
「なにが、よ!、だ。馬鹿かお前は。何してたんだよ、こんなとこで」
「見れば分かるでしょ。座ってたの」
ああ、違う。
本当は「ありがとう」と言いたかったのだけれど、案の定「馬鹿」と言うセリフが出てきたことに少しばかり腹が立ち、つっけんどんに返事を返してしまう。
「そうじゃなくて。何でこんな時間に、新宿なんて一人でほっつき歩ってるんだって聞いてんの」
呆れ顔の敦司はわたしの頭から手を下ろし、まじまじとわたしの目を見ている。
黒目が大きくて、というよりも目そのものが大きくて、じっくり見られると意識しなくともそわそわしてしまう、敦司の目にはそんな力がある。
「……職探し」
リノリウムの床に視線を逸らしてそう言うと、視界の隅に映る敦司の首が傾くのがわかった。
「職探し?」
「そう」
「職探しって。何だよ急に」
「だって、ぶらぶらしてるなって、敦司言ったじゃん」
言いながら、唇がとがってくるのが自分で分かった。
迎えに来てもらってこの態度もないだろうと心では思ったけれど、話しているうちにさっきの男の顔がまた浮かんできて、言葉が詰まった。
また膝を抱えてうつむいたわたしの肩に敦司の手が触れる。
「由佳、立てるか?」
「わかんない」
「ほれ」
敦司に両腕を支えられ、まだカクカクと小刻みに震える膝をなんとか踏ん張って立ち上がる。
敦司のわき腹に手を添える。尻は痛いけれど、少しなら歩けそうだ。
切符を買い、敦司に支えられながら改札を過ぎ、ホームへ出る。
轟音を立てながら、電車はすぐにホームへ滑り込んできた。
鉄みたいな匂いの風が吹き付けて、立っている足を少しばかり踏ん張った。
乗り込む間際、気になって後ろを振り向いたけれど、知らない顔たちが笑ったり無表情だったりして通り過ぎていくだけだった。
残された部屋の中で、骸骨はどうしてるんだろう。
無くなった金に気づいただろうか。踏みつけたパンツをちゃんと穿いただろうか。
あの高ぶりは一体どこから来たものだったのだろう。わたしみたいな女に興奮するほど、飢えてるんだろうか。
居なくなったわたしと一万円札で、その気持ちもアレも治まったのだろうか。
そんなことを考えながら、わたしは敦司のシャツを握り締めて、シートに深く腰を下ろした。
窓の外に流れる景色に目を凝らし、その向こうにあるはずのホテルを探してみたけれど見えるわけもなく、映るのは、そこらじゅうに散らばる色とりどりの灯りだけだった。