4.死ぬかもしれない
三階まで昇る狭いエレベーターの中で、わたしは男に腕をつかまれたまま、うつむいていた。
男の黒い革靴とわたしの黒いスニーカーは、人ひとり分もない距離で並んでいる。
ぎゅっと目をつぶる。
逃げたほうがいいんだろう、こういうときは。
けれど、わたしはどこかで諦めていた。
これが援交か。いいじゃん、それで。
手っ取り早く、金が欲しかったんだ。逆に考えればラッキーじゃん。
無理にでもそう思おうとしていた。
目を開くと、男の足が数歩前に出ていた。
床の隅のほうに、小さいピアスが転がって光っている。
エレベーターを降り、男が部屋のドアを開くと、薄暗い部屋のなかの色あせたカーペットが目に飛び込んできた。
ゆるゆるした音楽が流れている。
ぱたんとドアが閉まり、部屋のなかを進むと、枕もとの蛍光灯に照らされた白いベッドが壁際に置かれていた。
狭い部屋で、それだけがやけに大きく見える。
カーペット以外は真新しく、薄暗さの中に白々と浮かび上がる大きすぎるベッドをのぞけば、普通の部屋となんら変わりなく見えた。
大きなテレビがあって、安っぽいソファがあって、テーブルがあって。
陳腐なカラオケマイクが二本、テレビボードに突っ込まれて置いてあるだけだ。
ラブホなんて初めて入ったけれど、なんだこんなものかと、この状況でも少しがっかりした。
もっとこう、お姫様みたいな気分になれると思っていた。
高校生時代、「行ってきた」と自慢していた女子の会話から頭に仕込んでいた前情報とはだいぶ違っている。
田舎のホテルのほうが、案外快適なのかもしれない。
密閉された重苦しい空気は、他人の部屋に上がりこんでしまったときのように気持ち悪かったけれど、もう腹をくくることにした。
男は上着を脱ぎ、マイクの方など一度も見もせず、ネクタイまで外している。
処女を捨てるなんて、こんなもんなんだろう。
勢いか、焦りか、過ちか。
初めての相手が誰かなんて、思い出としてとっておくほどのものでもないと思う。
むしろ恥ずかしさと痛みのほうが、記憶に残るのだろうから。
バスルームから、ジャワジャワと勢いのいい音が聞こえくてる。
いつのまにかパンツと靴下だけの格好になっていた男は、にやにやしながら部屋に戻ってきた。
ぎょっとした。
生白い身体は、やっぱり骸骨だ。
浮き上がったあばらは、別の意味で恐怖心をよみがえらせた。
わたしの目の前まで来た男はおもむろにパンツを下ろした。そして靴下を脱ぎ捨てた。
凝視するしかなかった。声など出てこない。
その身体に、それか。
初めて見た。こんなになるものなんだろうか。
震えさえ起きなかった。ただ唖然として眺めていた。
ニヤついた男は背を反らし、どこか満足げに腹をさすっている。
「先に入ってくるから、テレビでも見てて。ちょっと待っててね」
鼻にかかった声で男はそう言うと、わたしの返事など待ちもせず、やや小走りでバスルームへ戻っていく。
わたしはへなへなと力なく床にへたり込んだ。
目の前に、男の脱ぎ捨てたパンツと靴下。
小さいさくらんぼが散らばった紺色のパンツだった。足先が擦れた靴下はゴムが伸びていた。
思い出なんて、抱え込むだけ無駄なものはいらない。にしても、これじゃ記憶にばっちり残る。
過ちで済めばいいけれど、わたしはここで死ぬかもしれない。
ちょっと待っててね? 待ってまですることのものだろうか、あの男と。
死ぬかもしれないときの相手くらい、やっぱりちゃんと選びたい。
バスルームから、シャワーの音と、何だか分からないメロディの鼻歌が聞こえてくる。
わたしはドアの隙間から這い出すように漏れてくる白い湯気を眺めていた。
呼吸が速くなってきている。
「逃げよう」
決心は早かった。
立ち上がり、ゆっくりと深呼吸をしてから、だらしなく丸まった男のパンツを踏みつけて、ドアへ向かう途中で気がついた。
テレビボードの隅に置かれた男の黒い鞄。
ごくりと唾を飲み込んで、じっと見下ろした。
きょろきょろと、誰もいないはずの部屋を見渡し、しゃがみ込む。
バスルームからは、まだ男の鼻歌が聞こえてくる。
角だけ窪んでいると思っていた鞄は、全体的にくたびれていた。サラリーマンの背中そのものだ。
変色した持ち手部分に触れないようにして、静かに開けた。
手帳と何かの書類、水着を着た女が表紙の雑誌、栄養ドリンクの空き瓶と、薬袋。
くしゃくしゃの薬袋には、「岩田義則様」と書かれている。
他人の名前は文字にすると、もっとずっと遠くの誰かに感じる。
眼鏡ケースとボールペン、そして二つ折りの黒い財布に行き当たって手を止めた。
確認するだけだ、と自分に言い訳をして中身を抜き出し、数えてみる。
一万円札が一枚と、千円札が三枚。
これだけでも持って帰れば、一日のアルバイト代としてはたいした額だ。
一瞬そんな考えが浮かんだ頭をぶんぶんと振って、金を財布に引っ込める。
財布を鞄に戻しかけたときに、ふと思った。
ぎりぎりの緊張感のもとでは、案外、頭の回転も速くなるものらしい。
わたしは、この金で買われようとしていたのだろうか。
一万、三千円で。聞いている相場の半分以下で。
そもそも、男のほうにわたしを買う気などさらさらなかったのではないか。
ラーメン一杯で釣れた、ラッキー、ぐらいの気持ちで鼻歌なんぞ歌っているのだろう。
あばらの上に、石鹸を滑らせているのだろう。
嘘みたいに立ち上がったあれを、どうやって洗っているのだろう?
860円で釣れた女とこれからすることを想像して、さぞ気分のいいことだろう。
思っているうちに胸やけに似たむかむか感が込み上げてきた。
もう、震えていなかった。
なんとなく千円札三枚は引っ込めて、一万円札を尻ポケットに押し込んだ。
立ち上がってから、もう一度しゃがんで、雑誌を引き抜いて小脇に挟んだ。
シャワーの音が止む。
からんと音がして、男の鼻歌も止まった。
足音を立てないようにして、わたしはバスルームの前を通り過ぎた。
擦りガラスに映る肌色の輪郭はぼやけていて、ただのカタマリにしか見えない。
入り口ドアを引くと、かちゃっと音がして、ぴんぽんと甲高い電子音がした。
驚いて、部屋から駆け出した。
振り向かず、非常階段を転がるように駆け下りた。
自動ドアの前でホテルに入ってきたカップルとおもいきりぶつかって、よろめいた女の人が「きゃ」と声をあげたけれど、謝る余裕なんてまったくなかったわたしは、猫のようにひらすらに前進した。
歌舞伎町の人ごみのなかを、全力で走る。
どこまで走っても、追いかけられているような気がして振り向けなかった。
ピンク色は、わたしに執拗についてくる。
足がもつれて、派手に転んだ。
雑誌は二メートルくらい先まで飛んで、水着の外れた女が横たわっているページを開いている。
アスファルトは、生ぬるかった。
手のひらを見ると、滲んだ血の隙間に細かい砂がいっぱい挟まっている。
人、人、人、靴音。
耳元でするたくさんの音は、雑誌とわたしを取り囲むようにして、だけど絶えず流れていく。
二メートル先でしんなりと横たわる女の写真を見ながら、自分は歌舞伎町の女には絶対なれないだろう、地面に突っ伏したまま、そう思った。