3.カラオケだけだから
店内は煙っていて、空気は湿っていて、案の定、静かだった。
中国人らしき店主と客の若い男が二人、朱色のカウンターを挟んで向かい合っている。
カウンターの端っこに新聞紙がたくさん積んである。ちょんと押せば、崩れそうだ。
人ごみから開放されたわたしはその閑散さに安堵し、カウンターにつくなり出された水を一気に飲み干した。
すうっと食道を下る冷たさが気持ちいい。
胃を過ぎた水がくねくねと腸を流れていって、ああこんなにお腹が空いてたんだと思ったら、笑えた。
隣の骸骨をちろっと見て、歌舞伎町のメインストリートを思い浮かべる。
目の裏に映像をよみがえらせると、改めて男密度の濃い街だ、とコップを戻しながら軽く身震いした。
ぐっと伸びをして、ストレッチついでに店内を見回してみる。
まだらに汚れた茶色の壁には、変色した紙が適当に貼られている。
その上にへたくそな筆字でメニュー名が書かれていて、どうやらそれを見て、注文するらしい。
『醤油ラー麺』『ミソラー麺』『チャーシュウ麺』『チャーハソ』……
わたしがこの店の前を何度も通り、何度も看板に書かれたメニューを見直していたのは、このカタコトの日本語の、読みにくさの、面白さからだった。
小さい頃からわたしは、どうでもいいものに心惹かれてしまうところがある。
スモックを着て、黄色い鞄を提げて、まだわたしが年相応にハツラツとしていた当時、同じ年長組だった亜子ちゃんという女の子を泣かせてしまったことがある。
お弁当の時間、亜子ちゃんのスヌーピーの描かれた赤いお弁当箱の左上に、タコさんウインナーが入っているのを発見したときのことだ。
タコさんの足を数えると六本だった。それがどうにも気になった。
タコの足は八本だ。
父と茶色いテーブルを挟むひっそりとしたいつもの夕食で、スーパーのパックに入れたままのぶつ切りのタコを口に運ぶ父の姿を、わたしは気味悪い思いで眺めていた。
ぶちぶちの丸い吸盤。赤みたいな紫みたいな奇妙な食べ物。
タコを口の中でいつまでも噛みしごきながら、眉間に皺を寄せるわたしに父が教えてくれたのは、タコの足は八本だという豆知識だった。
なのに、亜子ちゃんのタコさんの足は六本なのだ。
それがどうにも気になって亜子ちゃんに豆知識をひけらかしていたら、彼女の黒くて大きな目から、いつのまにか涙がぼろぼろとこぼれていた。
裕子先生に叱られた。
「でもやっぱり八本だもん」といつまでも小さな反抗を続けるわたしをなだめる先生の顔は、今思えば、怒ってもいなければ、嘆いてもいなかった。
苦笑いの顔とでも言うんだろう。
わたしはそれから、同じ顔をいくつも見てきた。
他の人にとっては何でもないものが、わたしには重要だったり、貴重だったりする。
しかし関心を持ったそのほとんどがたいして役にたつものではないので、結局、どうでもいいものばかりが身体に、知識に、経験に、増えていくだけだった。
未だに、正しいとされる判断の、基準とかボーダーラインがどういうものなのか、わたしは分かっていないような気がする。
「とりあえず醤油ラー麺」と注文すると、「あいよ」とぶっきらぼうに店主が答えた。
となりで骸骨と店主がなにやら親しげに会話を始めたけれど、わたしはカヤの外だ。
その様子を、観察する。
よく来るのだろうか、ここにある、この店を、あえて選んで。
店主の発する言葉もメニュー同様たどたどしくて、つい吹き出しそうになるのを堪えてもう一杯水を飲んだ。
べたべたに汚れた回転椅子とカウンターが気になったけれど、力の抜けきったこういうところは、なんとなく居心地がいい。
足が休まった開放感も手伝って、身体をよじってくるくると回転椅子で遊ぶ余裕も出てきていた。
醤油ラーメンの差し出されたカウンターで、割り箸をぱちりと弾く。
真ん中から上手く割れた。何かいいことがありそうだと思ってみる。
骸骨は黙々とラーメンをすすっている。
「二人で食べたほうが美味しいから」と言ったくせに、わたしに話しかけてくることはなく、時々店主と会話を交わすのみで、こちらをちらりとも見やしない。
まあ、そのほうが気楽だった。
人と話すのにはエネルギーがいる。
会話にエネルギーを消費するくらいなら、沈黙に耐えていたほうがわたしにはラクだ。
やや脂臭い感はあったけれど、ラーメンはそれなりに美味しかった。
三杯目の水を飲み干し、ほっと一息入れる。
骸骨はおしぼりでメガネを拭いていた。
顔の大半を閉めていたメガネが外れると、骸骨さ加減はますます濃くなっていて、本当に病人みたいに見えた。
なんだか申し訳なくなって視線をカウンターに移す。
器の汁の表面で、クラゲの集団みたいな脂が揺れている。
うつむいたわたしの顔が、いくつも映っている。
少し、眠そうだ。
「これから時間ある?」
骸骨はおもむろに口を開いてそう言った。
「はい?」
店に入って初めてわたしにかけられた男の言葉。
意味よりも、唐突さに戸惑った。
メガネを拭いていたおしぼりと同じもので顔をぬぐった男は、首をかしげるわたしに構わず言葉を続ける。
「カラオケ好き?」
「はあ」
「ちょっとつきあってくれないかな」
「カラオケ、ですか」
「嫌い?」
「いや、嫌いというか、数えるくらいしか行ったことがなくて」
突然何を言い出すんだろう、そう思って男をまじまじと見たけれど、骸骨はさっさと会計を済ませて席を立つ。
つられてわたしも立ち上がる。
尻に張り付いたジーンズは、しっとりしていた。
とりあえず「ごちそうさまでした」と後姿に声をかけ、男の後について店を出る。
さっきの猫は、もう居なかった。
「すぐそこだから」
前方を指差し、振り返った男は、ぼんやりとしているわたしの腕を取って歩き出す。
途端、わたしの心臓は跳ね上がった。
つかまれた腕が熱い。
「ちょっ…」
放して、と声にしようとしたけれど、喉に詰まって出てこなかった。
動悸したまま、引きずられるようにして男の後についていくしかなかった。
「ここ、カラオケできるから」
男が立ち止まった場所は明らかにラブホの入り口前だった。
焦った。
カラオケなんてこんなところでやる必要ないだろう、と思ってみたけれど、ああやっぱりという気持ちで胃が締め付けられる。
それよりも、男につかまれている腕のほうが気になって仕方ない。
早く放してくれ、と言いたいのに、やっぱり声は出なかった。
「いいよね?」
骸骨が笑う。
なかなかいい印象を持っていたさっきまでの笑顔は、まるで別人のようだった。
窪んだ頬が影を作り、銀縁の奥の目は隣のピンサロ店の明かりを受けてぎらぎらと気持ち悪く光っていた。
「カラオケだけだから」
マズイ、どうしよう。
足がすくむ。
胃はますます締め上げられ、口の中に胃液が込み上げてきた。
奥歯をかみ締めて、ぐっと堪える。
ラーメンにつられた自分が馬鹿だった。
よく考えれば、いや、考えなくたって分かるようなことだ。
誰が見ず知らずの他人に、気前良く飯をおごるんだと。
上京してまもないとはいえ、こんな安直な手に引っかかるなんて、わたしという人間はなんて世間知らずなのかと。
男の力は、体格からは想像つかないほど強かった。
逃げる隙も与えてもらえず、わたしはずるずると中に入るしかなかった。