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25.気づかないうちに

 日曜日、敦司はバイトが入っていた。


 わたしは弁当屋が休みなのですることがない。


「六時過ぎには帰るから」亭主みたいな言い方をした敦司を見送って、久しぶりに部屋の掃除をすることにした。


 腕まくりをして、伸びてきた髪を結わえると、だんだんその気になってくる。


 テーブルも群青色の長座布団も部屋の隅に追いやって、メタルラックもずらしてみたりして、徹底的に、隅々まで磨きこんだ。


 風呂もトイレも流しも、どこを見てもぴかぴかだ。


 黙々と、何も考えずにできる地味な作業は、案外わたしに向いている。


 満足して前髪をかきあげた額に、窓から入り込む風が涼しい。


 カーテンが揺れて、取り残しの埃がすすすと足の甲を越えていく。


 慌ててあとを追いかけて、掴んで丸めて柵の向こうに放り投げた。


 風に浮いた埃は一時その場で舞って、長い時間をかけて砂利の上に着地した。



 前の家の側溝の、数日前よりもさらに面積を増した雑草のなかに白い塊が見えたような気がして目を凝らすと、いつもの猫がうずくまってこちらを窺っていた。


 久しぶりの再会に、嬉しくなる。


 ちっちっちと舌を鳴らして呼んでみると、ほんの少し身体をずらして、反応した。


 もう一度呼ぶと、驚いたことに数歩前に出てきた。


 やっと顔を覚えたか、と近寄ってくるのを期待して待っていると、猫は一声、「にゃあ」と鳴いただけだった。


 ふん、とは思ったけれど、何となくやつれた感のある猫に同情したわたしは、食べかけのまま流しにおいてあったパンを持ってきて、投げた。


 猫は自分の数十センチ前に落下したパンに一瞬驚いて腰を浮かしたけれど、そろりそろりと近づいて匂いを嗅いで、銜えたとおもったらすぐにどこかへ走っていった。


 

 昼になり、フローリングに直に横になってごろごろしていると、昨晩の、小さくてか細い声が至極近くで聞こえてきた。


 這いつくばって柵に近づくと、丸い毛玉が砂利の上を転がっている。


 ふわふわと頼りない、綿飴みたいなその正体は本当にちっちゃな子猫らで、数えてみると三匹いた。


 白が二匹と茶トラが一匹。


「おおっ」と腰が浮く。わたしは柵を両手で握り締めて、互いにじゃれ合うその姿を凝視した。


 子猫らは固い砂利の上で何度も転げ回り、絡み合い、倒したり倒されたりしながら一生懸命遊んでいる。


 やがて普通サイズの茶トラの猫がやってきた。目を閉じて、傍らで「にゃあ」と鳴く。


 親猫だろうか。一匹の子猫がそっくりだ。だとすると、父親はあの白猫か。いつかの声を思い出して、しばし、にやにやした。アイツもちゃんと自分の世界を生きているのだと思った。


 親猫らしい茶トラがゆっくり歩き出すと、じゃれあっていた子猫たちもはっとしたように移動を開始した。


 砂利に足を取られて幾度も転んで、歩いているのか走っているのかさえわからないその姿は、思わず手を差し伸べたくなるほどの頼りなさだ。みじめたくさえ見える。抱き上げて、目的の場所へ連れていってあげたい。


 けれど子猫らはそんなわたしの心配をよそに、おぼつかない足取りでもちゃんと前へ進んでいくのだ。行くべき所へ、しっかりと。健気に。たくましく。


 わたしは柵から身をのり出して、小道の向こうに消えていく母子らを見送った。




 ぴかぴかの部屋をあとにして、駅へ向かった。


 なにか、何でもできそうな爽快感がある。このチャンスは無駄にできないと思った。


 スニーカーの靴底で力強くアスファルトを蹴り上げて、前へ進みながら鼻歌など歌ってみた。


 切符を買い、改札を抜け、電車に乗り込み、新宿で降りる。


 相変わらず粘着力の強い、ガムテープみたいな匂いのする地下道を小走りで抜けた。途中から全力疾走に切り替えて、歌舞伎町に出た。


 ガムのいっぱい付いた裏通りに入って、あのラーメン屋の前に着いたわたしは、鞄のなかの封筒を確かめてから深く息を吸い込んだ。


 扉を開き、タノモウと言わんばかりの勢いで店内に入ると、何時ぞやの店主とひとりの男性客がいて、怪訝な顔をされた。


 店主に向かって茶封筒を突き出し、「岩田さんに渡してください」と声を上げる。少し、裏返った。


 店主が「ああ?」と言って首を捻ったので、「痩せた、眼鏡の、男の人」と説明を付け加えると、「ああ、痩せた、メガネの……岩田ちゃん」と繰り返されたので安心した。


 苗字だけは憶えていた。くしゃくしゃの薬袋に書いてあったよそよそしい他人の名前。


 あの男がここの常連かどうかなんてわからないけれど、そんなことはどうだってよかった。とにかく、金を戻した、という事実を作りたかった。


 わたしは封筒を押し付けるようにして、一度だけ頭を下げて、店を出た。出るときに目の端に映ったカウンターの上の新聞紙は、やっぱり崩れ落ちそうに山積みになっていた。


 もしかしたら店主のふところに納まってしまうかもしれない金のことを考えると少しばかりへこんだけれど、「いやこれでいいんだ」と思い込むことにした。


 歩きながら、おかしさが込み上げてくる。「借りは返したぞ」と間違っているような合っているような言葉を呟くと、本気で笑えた。


 挑発的なホストたちの写真の前で立ち止まる。あの日のように品定めしてみたけれど、どこが誰に変わったのか、もしくはまったく変わっていないのか、全然わからなかった。




 勢いついでに、新橋へ向った。


 SL広場の古本市で、『お菓子とケーキの作りかた入門』という本を買う。


 バンダナを頭に巻き付けたおじさんに、「へえ、お姉ちゃん、ケーキ作りするんだ」と言われたので「友達が少々」と答えると、「彼氏にでも作るのかね」と返されたので「未来の、お客さんに」と教えてやると、首をかしげながらも頷いていた。


 おつりを受け取る手が触れたけれど、悲観的にはならなかった。




 いつもの道順で、タワーへ向う。


 途中、弁当屋の様子を遠くから眺める。


 シャッターが降りている店先は、ひっそりと、穏やかだ。二階の窓が開いていて、洗濯された赤いエプロンとピンクのスカートなんかが見えている。


 通りの向こうを、美月ちゃんくらいの女の子が自転車に乗って過ぎ去っていった。



 東京タワーの前には、今日も入場待ちの列ができていた。


 列を追い越して歩きながら、一人ひとりの顔をちらちらと盗み見る。


 これから中に入っていくこの人たちは、足元のずっと下に広がる東京の街を見下ろして一体何を思うのだろう。


 自分はちっぽけだとか、ここであの人と約束を交わしたんだとか、感傷的になったりするんだろうか。


 それとも、運命の人はどこにいるのだろうとか、いつかこの街を手中に収めてやるとか、もっと前向きで、勇ましい、強欲な、そんなことを。


 思い思いの顔をして立ち並ぶ人たちに、面と向かって聞いてみたかった。


 タワーの真下まで行って、そっと触れた朱色の身体は、ひんやりと冷たい。


 ごおんごおんという振動が伝わってきて、変にほてったわたしの手を少しばかり冷めさせた。


 人の列が少しずつ前へ進む。


 タワーは今日も、誰も拒まない。見慣れた顔も、新しい顔も。


 受け入れて、送り出して、その繰り返しだ。


 青い空を突き刺して、でんと構えている。




 中野に戻り、スーパーでカレーの材料を揃えた。レジに並びかけた体を翻して、青果コーナーへ戻り、林檎を手にしてカゴに収めた。


 すり下ろしてカレーに混ぜてしまえば、林檎嫌いの敦司も気づかないうちに食べれるだろう。


 アパートへ戻る途中、小道ですれ違ったおばさんに「こんにちは」と声をかけられた。


 わたしは驚いて、でも反射的に「こんにちは」と返したけれど、にこにこ微笑むおばさんに見覚えはない。


 後ろに過ぎて、角を曲がるおばさんの背中を見送ってから、もしかして前の家の人かな、とぼんやり思う。


 気づかないうちにわたしもまた、この辺の住人の一部になっている。


 

 玄関の扉を開ける前に、わたしは父へ電話した。


 なかなか出ないので、切ろうとしたときに「どうした?」と焦った声が漏れてきた。


 どうしたって。思わず笑ってしまう。


 わたしからの初めての電話に驚いたのだろう。「何かあったのか」と心配する父に、「今度の日曜に一旦帰るから」と伝えた。


 六月最初の日曜は、母の命日だ。電話もしない、いきなり家を出てしまう、そんな娘でも命日を忘れるほど薄情ではないつもりだ。


 「そうか」と言った父はぶっきらぼうに、でも気づかないほどに軽い嬉しさの混じった声で「気をつけて帰ってこい」と言って電話を切った。


 

 

 部屋に入り、早速カレー作りに取り掛かった。


 林檎を摩り下ろし、カレーに溶かす。


 ルーは、甘口と中辛を半々で混ぜた。もしかしたら甘すぎるかもしれないな、と思ったけれど、まあいいや、と鍋の中身をかき混ぜた。


 じっくり、ゆっくり、焦がさないように慎重に。

 

 林檎はもう、カレーの色に溶け込んでいる。


 しばらく流しに立って、無心にカレーを混ぜていた。


 混ぜながら辺りの音に耳をすますと、換気扇の隙間から雀の鳴き声が漏れてきた。ちりんと自転車のベルの音がして、「きゃはは」と子供たちの声がする。


 かんかんかん、と階段を上る靴音がした。アパートの、誰かが帰ってきたのだろうか。ばたんとドアが閉まる音が聞こえてくるまで、わたしはじっとして、耳を傾けていた。


 夕日が差し込んでいた部屋は、いつのまにか薄暗くなっている。


 ほんの少し差したオレンジ色の光が、床を四角く切り取っていた。部屋にはカレーの匂いが充満している。


 カーテンが揺れて、外から、別の匂いが入り込んだ。




「林檎、入ってるんだけど」



 カレーを食べながら、敦司にネタばらしをした。


 敦司は黒い目を見開いて「え」と言って、カレーに鼻先がついてしまうほどの距離で匂いを嗅いでいる。



「マジで」


「マジで」


「全然わかんね」


「鈍いね」


「まろやかだなとは思ったけど」


「美味いでしょ」


「うん、美味い」



 わたしは得意になってスプーンを口に運んだ。


 林檎は丸々一個摩り下ろした。よっぽど鈍いな、とわたしは敦司の膨らんだ頬を眺めてにやけた。


 帰ってきてからずっとカレーの匂いに包まれているわたしの鼻は、少し馬鹿になっているような気がする。わたしが食べる限り、目の前のカレーはカレーだ。でも何となく、林檎の匂いの比重が勝っている気がする。


 今日も敦司は三杯おかわりをした。わたしも二杯、たいらげた。


 


 夕食後、敦司が流しを片付けているあいだ、わたしはいつもどおり風呂のお湯を張った。


 ふんふーん、と流しから、カレーの匂いに混じって敦司の鼻歌が聞こえてくる。


 乾いたバスタブの底が、ゆっくり湿っていく。一センチ…二センチ…水栓の銀色のチェーンを飲み込みながら徐々に増していく水かさを眺めていると、ふふ、と笑いが漏れた。


 鈍いのは、わたしか。


 皿を洗う敦司の隣りに立って、布巾を手にした。



「敦司」


「ん?」


「ホントは気づいてたでしょ」


「なにが」


「林檎」


「いや」


「嘘だ」


「そんな匂いはするかなーって思ったけど」


「ふーん。鈍いね」


「まあね」



 林檎の皮を生ゴミ入れに入れながらまだ鼻歌を続ける敦司の背中に声をかける。



「次の日曜、家に帰るから」


「え?」



 中腰のまま振り向いた敦司に笑いながら答えた。



「お母さんの命日だから、とりあえず一旦」


「ああ、そうか」


「うん」



 皿の水滴は、布巾にじんわり吸い取られていく。


 水分を含んだ布巾は少し、重さを増した。



 群青色の長座布団にふたりで腰かけてテレビを見た。


 時折カーテンが揺れて、夜の風が入り込む。


 昼間見た猫の話をすると、へえ、と関心していた。歌舞伎町に行ったことと、東京タワーに行ったことは話さなかった。


 またそろりと入り込んだ風が、裸足の足を滑っていく。


 ふいに、敦司がカーテンに顔を向けた。わたしも、同じことをした。


 懐かしい、夏草の匂いがする。






 

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