23.よくわかんないんだ
厨房での敦司とカズくんの会話には、東京タワーでのわたしの失敗談が出たらしい。思ったとおりだ。
弁当屋からの帰り道、敦司はカズくんから聞いたその話を、いかにも笑えました、みたいな口調でわたしに話して聞かせたけれど、見上げる横顔はたいして面白そうでもなかった。
電車を降りて、中野に戻る。
この街に降りると、ほっとする。肩の力が抜けるというか何というか。
もんやりとした、いつものバスの匂いを割りながら坂を上る。
寝不足の身体は、少し重い。
テンションが上がりきってしまうと、あとは下がるだけだ。
少し高くなった太陽が身体を温めて、眠気が次第に増してくる。
アパートの部屋に戻り、扉を開く。
冷蔵庫の裏の、レンジの奥の、カーテンのひだの、どこか見えないところに潜んでいたような、こもった空気がとろりとわたしたちを出迎える。
一晩戻らなかっただけで、その匂いは新鮮だ。一瞬、知らない人の部屋に入り込んでしまったような気分になるけれどすぐに慣れる。生活臭は、安心する。
部屋を進んですぐに、群青色の座布団に覆いかぶさった。
敦司がカーテンを引くと、薄暗かった部屋は一気に明るくなる。
わたしが立てた埃は光に反射してゆらゆらと泳ぎ、窓が開かれるとぐわんと動いて、あちこちに散らばって消えた。
もうすぐお昼だ。
まもなく午後になろうというこの時間の日の光は、まったりと気持ちがいい。すぐに寝れそうだった。
寝そべりながら見る前の家の側溝には、結構な勢いで伸びている雑草が青々と茂っている。
いつもの定位置に、白猫はいなかった。
みゃーう、と遠いところで声が聞こえたような気がして耳を澄ましているうちに、とろとろとしてきた。
「ちょっと寝るか」
「うん」
そのあと敦司がなにか言ったような気がしたけれど、聞き返そうと思ってるうちに眠っていた。
目が覚めると、もう六時だった。
ごにょごにょと、小さな音量で声が聞こえてくる。
身体を動かしてその方向を見ると、リモコンを掴んだままの敦司がぼんやりとテレビを見ていた。背中が丸まっている。
わたしの身体には毛布がかけられていた。腕を出し、よいしょと床に手のひらをつく。
ゆっくりと起き上がると敦司が振り向いた。おはよ、と言うと、口元を指差すので確認すると、よだれの跡がついていたらしく、かさかさと音が鳴った。
群青色の座布団には、丸く濃く跡が残っていた。敦司の頭にも、珍しく寝癖が残っている。
テーブルの上に、飲み残しのコーヒーが入った白いマグカップがのっていた。インスタントコーヒーが入った瓶は、電気ポットの横に置かれたままだ。
わたしより、敦司のほうが疲れたんだろう。
外でご飯を食べようということになって、顔だけを洗って、おもてに出た。
敦司もわたしも、昨日のままの格好だ。緩いへびみたいに続く狭い小道を二人でぼんやり歩いた。
何となく服が身体にまとわりつくような感じはあるけれど、夕方の風が心地良くて気にはならなかった。
まだ薄っすら明るい空には、同じように薄い雲が広がっている。
駅までは行かず、大通り沿いのラーメン屋に入った。「何食べたい?」と聞かれて、普通に「ラーメン」なんて答えてしまったけれど、失敗した。歌舞伎町のラーメン屋を思い出してしまった。
あーあ、と思いながら店に入る。小ざっぱりとしている。少しほっとした。カウンターも椅子もテーブル席も、脂じゃなく、清潔さで光に反射していた。
店主は若くて生き生きしている。紺色のTシャツが、はち切れそうだ。「いらっしゃいませー」と大声をかけられて、敦司もわたしも急にしゃんとしてテーブル席につく。
ラーメンを啜りながら、ぽつりぽつりと話をした。
美月ちゃんとヨウコさんの話をすると、敦司は困ったような顔で笑っていた。
東京タワーに行った話は自分からはしなかった。敦司はそれとなく話題に出したけれど、わたしは意識的に受け流した。
カズくんの名前が出ると、何だか申し訳ない気持ちになる。
背負われた背中の感触を思い出して、ひやひやする。
話を逸らそうとしていることに気づいたのか、敦司も清潔なテーブルに片肘だけで頬杖をついて、弁当屋での話は打ち切られた。
妙な間に、二人同時に最後の餃子に箸が伸びた。
譲ってくれた餃子を割り箸に挟んで、持ち上げる。
ふざけて「あーん」と敦司の口元に運んだらその口が開いた。予想外の反応に、わたしのほうが驚いて、照れた。
黒い目は、餃子を通り越してわたしを見ている。
「ほい」と言いながら餃子を口の中に納めてやると、敦司は片肘をついたままもぐもぐと口を動かし、しばらくわたしを眺めていた。
「うまい?」
「うん」
「最後の一個だったのに」
「うん」
何だか非常にアンニュイだ。こんな敦司も、たまには、いい。
でもそれって反則だろ、なんて胸の内で毒づきながらもどきどきし、視線を外してラーメンの残り汁を割り箸でかき混ぜた。
ちろっと目を向けると、敦司は、カウンターに座る男の客の背中をぼんやりと見ていた。
後頭部の寝癖が立っている。
首から上だけ、敦司を幼く見せていた。
アパートまでの帰り道はもうすっかり暗くなっていて、二日前より心持ち欠けた月が浮かんでいる。
狭い道を、ゆっくりゆっくり歩いた。
同じくらいゆっくりと敦司の手がわたしの手に触れた。
敦司は黙ったまま前を見て歩いている。暗くて、その表情はわからない。湿って、温かい手に力が入って、わたしもまた、気づかれないくらいの強さでその手を握り返した。
街灯の少ない狭い道は、月明かりだけが頼りだ。
少し近くなった敦司から、緩い風にのって微かに汗の匂いがする。
部屋に戻って、敦司が淹れたコーヒーを啜った。
開けた窓の外から、やっぱりみゃーうと声がする。
会話らしい会話がなかったので、わたしは半分ありがたい気持ちになりながら窓際へ移動してその声に耳を凝らした。
みゃーう…みゃーう…
どこだろう。か細く、小さすぎる声。わたしは手招きして敦司を呼んだ。
「猫みたいな声がする」
「どこから?」
「わかんない」
敦司が隣に来て、柵から身を乗りだした。砂利に視線を這わせて、あたりの様子を伺っている。
みゃーう…
「あ、聞こえた」
「ね」
「ちっちぇーな」
「子猫かな」
みゃーう…みゃーう…
敦司とわたしの影が、砂利の上に伸びている。
しばらくそのまま、小さなか細い声に耳をすましていたけれど、やがて敦司の影が横を向いて、頭ひとつ低いわたしの影を見下ろした。
見上げると目が合った。何か言いたそうに口が開いている。
「なに?」
「あのさ」
「うん」
「好きなの?」
「え? 何が?」
「弁当屋の、あの人」
拗ねたような、だけど泣き出しそうな顔だ。シャツの襟が少し、くたびれている。
「あの人って…カズくんのこと?」
「うん」
「好きなの…って、カズくんのこと?」
「うん」
「…カズくんのこと」
わたしは俯いた。
そんなの、ちゃんと考えたことがない。
「俺は由佳が好きだし、その、一応ちゃんと返事も聞きたいし」
「…うん」
「何ていうか、その、このままっていうのも、結構しんどいし」
敦司も俯いた。砂利の上に伸びる影の肩が、揃って小さく落ちている。
改めて問われると、よくわからなかった。
そもそも、どの辺の「好き」から、特別な「好き」に当たるのかがわたしにはわからない。
でも、敦司のわたしに対する「好き」は、特別な「好き」なんだということはわかる。
それはとてもくすぐったくて、ほわりと嬉しくて、悪くない、というよりむしろ心地いい。
わたしは敦司が好きだ。でも、それが特別なのかと聞かれたら、「はいそうです」とは答えられない気がする。
敦司といると安心する。キスもした。緊張したけれど、穏やかでもあった。
でもその先を求められたらどうだろう。よく考えなくたってわかる。わたしには受け入れる自信がない。まだ、怖いのだ。
初めこそ苦手だったけれど、カズくんのことも嫌いじゃない。
好きってわけじゃないけれど、どうしてか気になる。少しずついいな、と思うところを見つけて、勝手にどきどきしたりしている。
だからと言って、カズくんとどうこうなりたい、という気持ちはない。それは敦司に対しても同じことだ。
でも、二人が離れていくのはイヤだ。このまま二人とも傍にいてくれればいいのに、そう思ってしまう。
川の字で寝た、あの感覚だ。二人がいて、間にわたしがいて、それで十分だったりする。
みんな、こんなことを思ったりするんだろうか。それともわたしが、ものすごく欲張りなんだろうか。
恋とか愛とか恋愛とか、一体、みんなどんな気持ちでスタートを切っているのだろう。
「返事、出せる?」
敦司の影が横を向く。わたしは答えられなかった。小さく、首だけを横に振った。
「そっか」
わたしは、何一つ自分じゃ答えが出せないのだ。急に情けなくなる。
寂しそうな敦司の声に、胸まで苦しくなった。初めてのやるせない感情に、鼻の奥がつんとする。
敦司に世話になって、しんどいなんて言わせて、わたしは何をやっているんだろう。
敦司の優しさとか気持ちに頼っておいて、カズくんの髪や腕や背中に触れてみたいなんて考えてるわたしは、おかしいんじゃないだろうか。
一体、何様のつもりなのだ。
気づいたら視界がぼやけていて、ぽつんと涙が落ちた。
慌ててぬぐっても、次から次に涙はこぼれて床に染みをつくる。
「由佳ごめん、責めてるわけじゃねーんだ、ごめん」
焦った声がして、わたしの頭に敦司の手が置かれる。いつもの、いたわるような温かさだ。
違うんだ、そうじゃないんだ、言葉には出さず、ぶんぶんとわたしは左右に首を振った。
「泣くなって」
敦司の手が、肩に下りる。うん、うん、うん、今度は首を縦に振った。
ひぃっくと咽が鳴る。涙と鼻水で、口の中がしょっぱかった。馬鹿みたいだ。何を泣いてるんだ、わたしは。
「汚ねー顔」
覗きこんだ敦司の黒い目が笑う。無理に笑わそうとしているのが分かる。
わたしはむくれて、「うるさい」と言って、少し笑って、また泣いた。
引き寄せられて、ほわりと敦司の匂いが近くなる。
首もとの、ボタンの奥の白い肌。
一日経った敦司の匂いは、この部屋に帰ってきたときと同じ匂いだ。居心地がよくって安心する。
ぎゅっとしがみ付く。たぶん、わたしは酷いことをしているんだろう。
このシャツを通した敦司が好きだ。でも。
白くて硬い肌に、直接触れたらどうなるんだろう。
カズくんに同じことをされたら、どうなるんだろう。
こんなふうに安心するだろうか、もっと緊張するだろうか、苦しくて逃げたくなるだろうか。
わからないことばかりだ。
「敦司」
「ん?」
「ごめんね」
「うん? ああ」
「ごめん」
「うん」
「よくわかんないんだ」
「…うん」
みゃーう…
またひとつ、小さなか細い声がした。
涙で濡れた敦司のシャツに顔を押し付けて、わたしはしばらく小さく小さく泣いていた。