20.人と係わっていくって
店に戻ると、部屋に美月ちゃんがいた。
毛布の上にうつぶせになって、雑誌を読んでいる。
若そうな、けれどわたしとは違う種類の女の子が好きそうな、パステル調の色合いが強い雑誌だ。美月ちゃんの、ピンクと水色の上下の服装とぴったりマッチしている。
わたしたちの姿を見て、美月ちゃんの目がみるみるうちに大きくなった。
「なに、なにいー? なんでおんぶなんてしてんのー?」
カズくんはわたしを背負ったままだった。
「いつのまにそういう関係になったのー?」
美月ちゃんは、明らかに勘違いしている。
毛布の上にがばりと起き上がり、見ていた雑誌を両手でつかんでばんばんと床を叩きはじめた。何だかわからないが、ひどく喜んでいる。
「ち、違う、そんなんじゃなくて」
焦ったわたしはカズくんの肩を叩きながら抱え込まれている足をバタつかせたのだけれど、カズくんの方はと言えば、この状況も楽しんでいるらしかった。
「ついさっきから」
くくくっ、と笑いながら、美月ちゃんのことまでからかい始めた。
「ついさっき! ねぇねぇ、二人でどこ行ってたのー?」
「いいとこ」
「えー?」
好奇心でいっぱいの美月ちゃんの顔は、少しばかり赤らんだ。
靴を脱ぎ、部屋に上がったカズくんは、「よいしょ」とわたしを降ろした。
降ろされたわたしは足に力が入らなくて、というよりも全身から気力が奪われていて、畳の上にへたり込むしかなかった。
「大丈夫?」
両手を畳について足を投げ出し、既にリラックスしているカズくんが笑いながらわたしを見ている。
大丈夫って、あんたがこうさせたんじゃないか、と上目遣いで睨んでみせたけれど、効果はなかった。
毛布を抱え込んで部屋の隅に移動したわたしは、まだ力が入らない。
そんなわたしを尻目に、カズくんと美月ちゃんはけらけら笑いながらおしゃべりをしている。
東京タワーに行ったこと、わたしが階段でこけたこと、何もない道路の上でおもいっきり転んだこと、わたしの失敗談ばかりをして、すごく楽しそうだ。
わたしのことなんて、完全無視だ。唇を尖らせて、そんな二人をしばらく部屋の隅でぶうたれて眺めていた。
何なんだろう。最近は疲れることばかり多くて大変だ。いろんなことに振り回されているような気がする。
敦司にしてもカズくんにしても、どんだけわたしを仰天させれば気が済むんだ、なんて少しイラつきながら、おしゃべりを続けるふたりをこちらも無視してやろうと本に手を伸ばしたとき、携帯のランプが青く点滅していることに気づいた。
確認すると留守電が二件入っていた。
「敦司だ」
二件、ということは敦司に決まっている。聞いてみるとやっぱりそうで、一件目に楽しそうな高い声で『今日は何か食いに行こうか』と入っていた。
そこで「あ」と思い出した。今日は帰らないことを言っていなかった。
朝の神妙な雰囲気に飲み込まれてて、すっかり忘れていた。
やべ、と思いながら二件目を聞くと、半分怒っているような、でも心配そうなトーンの落ちた声で『もうすぐ夜で暗くなるしどこほっつき歩いているんだ』という内容のメッセージが流れてきた。
また心配かけてしまった。
改札で別れた敦司のシャツの後姿を思い出して頭をかいていると、美月ちゃんが目敏く声をかけてきた。
「どしたの由佳ちゃん、渋い顔して。電話? あ、もしかして彼氏? えー、それじゃ浮気になっちゃうじゃん、カズくんがいるのにー。ねえカズくん」
美月ちゃんはわたしの返事など待たずに一人で勝手に妄想して面白そうにカズくんに話をふる。ヨウコさんにそっくりだ。
カズくんは、口の端だけを上げて笑っている。
「いや、違うんだけど」
「誰、誰ー?」
「いや、ちょっと」
「怪しー」
「今日、戻らないって言うの忘れてきちゃった」
言ってから慌てて口をふさいだ。これじゃ、美月ちゃんの好奇心をますます煽ってしまう。
「えー、誰にー?」
思ったとおり目を輝かせ始めた美月ちゃんに詰め寄られた。
わたしは身を引いて壁に張り付いた。小学生の女の子にビビッてどうすんだ、と情けなくなる。なんでもない、と訴えても美月ちゃんはなかなか引かない。
「由佳ちゃん、誰かと一緒に暮らしてんだー。ねえ、誰と? 女の子? 男の人?」
「友達…」
「だからぁ、女の子? 男の人?」
「お…」
「お?」
「い、いいじゃん、誰だってさ」
「あーー、男の人でしょー、言わないってことは絶対そうだ」
ますます楽しそうな美月ちゃんを横目にカズくんの顔をちろりと見た。
一瞬目があったけれど、興味なさそうに視線を逸らされる。
さっきはわたしのことをからかっておんぶまでしたくせに、今度は知らん顔だ。
なんとなく、ムカついた。
「男の人。一緒に住んでるの。ずっと昔から知ってる人。心配して電話くれた」
視線は美月ちゃんの顔を通り越して、そっぽを向いたカズくんを見てしまい、自分でも驚くほど棘のある声が出た。
なんだか、いろいろぶちまけたい気分だ。
「男の人!」
「うん、そう」
「やっぱり!」
「いつも心配かけてばっか」
「えー、由佳ちゃんそういう人居たんだー」
「まあ…そう」
あ、これでは彼氏みたいに聞こえてしまう。
「ねえ彼氏?」
「そうじゃないけど! あ、違うけど…でも! 昨日の夜、キ…」
「き?」
「キ、キ、」
カズくんは畳に横になった。うん、と伸びをしている。
なんだよ、なんなんだよ。
口をパクつかせたまま眺めていると、肩肘をついて頭をささえたカズくんがこっちを向いて、目が合った。
急に焦る。
「キ、キ、金魚」
「はあ?」
「ちょっと電話してくる!」
わたしは立ち上がって外に出た。
扉の前で寝転がるカズくんが邪魔で、その上をまたいだ。妙に緊張していた。
「あ、敦司? ごめん、あたし」
電話をするとすぐに敦司が出た。
『お前さー、もう夜だぞ、何してんだよ』
おもいっきり不機嫌だ。かさかさと、何かの音がする。また掃除でもしてるんだろうか。
「ごめん、今日帰れないって言うの忘れてた」
『は? まさか、また金盗られたんじゃねーよな。ってか、また動けないとか?』
電話の向こうの声が急に慌てだす。しん、として音が鳴り止んだ。
「ううん、そうじゃなくて、弁当屋が忙しくて。明日までにすごいいっぱい弁当作んなきゃなんないの。で、今日泊まって、夜中から皆で作業するんだ」
『……よくわかんないんだけど』
「えーと……」
頭を整理する。
敦司は「は?」とか「うん」とか、「で?」とか「日本語で話せ」とか言いながら、わたしのヘタクソな説明を聞いていた。
二メートル先の街灯が、ちかちか点滅している。
巧く説明できなくてもやもやしながら、Tシャツの裾から手を突っ込んで背中をかいた。
開いた隙間から、すうっと涼しい風が入り込む。
帽子を被った若い男の人が、狭い通りの向こうからゆっくりと歩いてきた。
店先にぽつんと立つわたしをじっとりと見ている。歩調が緩む。値踏みするような目つきだ。
ぞくりとして、携帯を耳に当てたまま一歩後ろに下がった。「あんた無防備すぎんだよ」カズくんの言葉を思い出して、Tシャツに入れた手を降ろす。
「そんなことないもん」
背筋を伸ばし、キッと男の人を睨んでやった。男の人は眉間に皺を寄せて、ぺっと唾を吐いてから大通りのほうへ消えていった。
『は? なに?』
電話の向こうで、敦司が怪訝な声を出す。なんでもない、と言いかけた時にいきなり後ろから肩を叩かれた。ひいっと声をあげて振り返ると、ヨウコさんだった。
赤いエプロンはしてないけれど、同じ色をしたTシャツ姿のヨウコさんの大きな胸が目の前にあった。「びっくりしたじゃないですか」と声をあげると、ヨウコさんの気前よく張った腹が上下した。
「下に下りてきて聞いたんだよ美月から。由佳ちゃん男の人と電話しに行ったってね」
「え?」
『おい由佳、ひいってなんだよ今の声』
「聞いたって…」
「友達かい?」
『由佳?』
「あ、なんでもない」
「その子、暇かね?」
「え?」
『おいってば。誰かと話してんの? 由佳?』
ヨウコさんと敦司の二人に質問されて、どっちと話しているのかわからなくなってきた。
わたしは二つのことを同時に進行するっていうことができない。
ひとつのことを整理するのだって、時間がかかるタイプだ。
電話に出て、カレーを焦がしたように。玄関の鍵をかけて、窓の鍵を忘れたように。
あたふたしていると、ひょいとヨウコさんに携帯を奪われた。
「あ」
「もしもし? あら、ホントに男の人だね。あ、ごめんなさいね、あたし弁当屋のものですけど。そうそう、由佳ちゃんの。こんばんは」
「えええ…」
ヨウコさんは奪った携帯で敦司と話し始めてしまった。
唖然として眺めていると、ヨウコさんの「あはは」という大きな笑い声が狭い道に響いた。大きな胸が揺れている。
「いやそんなことないよ、由佳ちゃん、すごくよく頑張ってくれてますよ。え? あはは、そうだね、ちょっと変わってるとこあるけどね」
「変わってるって…」
ドラマなんかで見る、おばちゃんの電話シーンのようだ。
ヨウコさんの手の中でわたしの携帯がぽやりぽやりと点滅している。確かに繋がっている。普通に会話しているその姿に、口を開けて見入ってしまった。
「急にごめんなさいね。ええそうなんですよ、久しぶりの大注文でね。彼氏さんだろ? 由佳ちゃん借り出しだしちゃって悪かったねえ。え? ああ違うの、なんだそうなの。うん、うん、へえ、そうなの」
「……」
敦司も敦司だ。いきなり代わられて、よく会話なんてできるものだ。しかも何の話題で盛り上がってるのだ。
「ところでさ、あんた…あ、あんたなんて悪いね、名前なんていうの? カワハラ…アツシくんね、アツシくんさ、手伝いに出てこれないかい?」
「…は?」
手伝いって、いきなり何を言い出すんだろう。わたしは驚いて目を見開いた。ヨウコさんはわたしと目を合わせて、にっと歯を見せた。
「友達ふたり、助っ人で頼んでおいたんだけどさ、急にひとり駄目になっちゃったんだよ。バイト代もちゃんとお支払いしますんで。いやいや全然。駄目かね?」
なるほど、そういうことか、と納得しかけて頷いてしまった。けれどすぐにはっとして、まじまじとヨウコさんを見つめていると、ぱっと表情が明るくなった。いつも以上にえくぼがくい込んでいる。
「ああ、ありがとうね。うんうん、ごめんね、急でね。助かります。あ、じゃあ由佳ちゃんに代わるからね」
はいよ、と携帯を差し出される。わたしは何度もまばたきをしてヨウコさんを見た。
助かった助かった、と言いながら、わたしに片手をあげたヨウコさんは、ほうれい線をえくぼと共に顔に刻み込みながら、店の裏手に消えてしまった。
ぽかんと立ち尽くす。
左手に握られた電話から、「おーい」と声が漏れてきて、慌てて耳に運んだ。
「あの」
『すげーな。いつも言ってたヨウコさんって人だろ?』
「うん。っていうか、敦司、来るの?」
『そうみたい』
「そうみたいって」
『ま、明日日曜だしいいわ』
電話の向こうで敦司が軽く笑った。
「なんか、ごめん」
『別にいいよ。それに…』
「それに?」
『心配だし』
「しん…」
『場所、教えて』
「あ、えっと」
またヘタクソな説明で敦司に弁当屋の場所を教えて電話を切った。
「はあ」
息を吐き出して携帯を尻ポケットに入れた。
大変だ。いろんなことが一気に起こると、すごく疲れる。
父とふたりで暮らしていたときは、こんなに焦ったり、緊張したり、唖然とすることだってなかったのに。
ひとつひとつ周りに何かが増えていくたび、予想もしないことが突然起こる。
社会と…いや、それじゃ大きすぎるか。人と係わっていくって、こんなことなのだろうか。
面倒だけど、どきどきする。
はらはらするのに、わくわくする。
遠足の前日みたいな感じだ。
小学生の終わりごろから、もうずっと味わっていなかった。しばらくぶりだ。久しぶりすぎて、どう対応していいのかイマイチよくわからない。
「大変だな」
飛び跳ねながら部屋に戻る。
言葉とは裏腹な自分の行動に、ふっと鼻先で笑いが漏れた。
<敦司、ヨウコさんと話すの巻>
「もし… え? 誰? 弁当屋…あ、由佳の。ああすみません、こんばんは」
「いつも由佳が世話になってます。迷惑かけてばっかじゃないですか? かなりマイペースだし」
「何だか忙しいみたいで。彼…いや、違います。兄弟みたいなもんで。最近由佳がこっちに出てきたんで一緒には暮らしてますけど」
「はい? あ、河原…敦司です。はい? 手伝い、ですか」
「ええ、そうなんですか。バイト代…いや、そんなのはいいんですけど。夜中から、ですよね」
「えっと、わかりました。明日はバイトも休みだし、行ってみます。いえいえ全然。あ、はい」