2.ストレイキャット
裏通りに入ると、人の流れも看板もそれなりの分量で散らばっているだけになる。
どういうわけか漢字ばかりの看板が増えるので、教科書の中にいるみたいだ。
思いのほか薄暗い裏通りは、かえって原色看板の灯りが目立って眩しいのだけれど、さっきまで突っ立っていた場所に比べれば全然余裕だ。
読めない漢字がかえって心を落ち着かせる。
ふうっと息を吐く。
大丈夫だ、呼吸はまだ乱れていない。
日中、何度も通り過ぎて何度もメニューをチェックしたラーメン屋から、店先を僅かに染める程度の弱い灯りが漏れている。
脇に積まれたビールケースの隙間から、茶色の縞模様の猫がこっちを見ていた。
近寄ると、はううっと威嚇されたけれど、猫のほうに逃げる気はないらしい。
都会の猫は強気だ。
裏手から流れてくる、味噌みたいな豚骨みたいな、もんやりした匂いに腹が鳴る。
そういえば昼に近い朝食に、バターを落とした食パンをかじったっきり、何も食べていなかった。
空腹に気づくと、とことん飢えた気分になる。
のれんの隙間から、つま先立ちして中を覗き込んでみたけれど、薄汚れたうえに更に湯気で曇っているガラス窓からは何も見えなかった。
ただ、イイ匂いが漏れてくるだけだ。
ジーンズのポケットに手を入れて、小銭を確認してみる。
引き抜くまでもなく、ちゃりちゃりと僅かばかりの感触が伝わってくるだけだった。
これを使ってしまったら戻れない。諦めるしかなかった。
もう帰ろう、と一歩下がったときに、背後から突然肩を叩かれた。
「ちょっと君」
「ひいっ」
吸い込んだ息は、思った以上に喉を締め上げて、そして心臓を飛び上がらせた。
左肩に乗せられた手の感触に全神経が流れ込む。
横目でそれを確認すると、ラーメン屋から漏れる灯りが太くてごつごつした指先を照らし出していた。
なんだ、なんだなんだなんだ。
逃れるタイミングを失っていた。
振り向くこともできずに、わたしは両肩を上げたまま固まった。
ダメなのだ。
突然のこういうことは。
飛び上がった心臓は、胸を突き破って出てくるんじゃないかと思うほど、どくどくと骨を打って暴れている。
マズイ、かなり。
男が背後からわたしの前に姿を現すまで、左肩に乗せられたグローブみたいな指と、前足を揃えてじっとわたしをにらんでいるさっきの猫に交互に視線を泳がせるしかできずにいた。
わたしの前に立ったその男は、けれど予想外な笑顔で微笑んだ。
「お腹、空いてるの?」
にこにこと、中年男が口を開く。
指の印象からは想像もつかないやせ細った男だった。
銀縁の奥の目だけがやけに大きく光って見える。笑う前歯の一本は、黒ずんでいた。
「君、さっきからこの辺歩き回ってたよね。何か探しもの?」
薄い唇が続ける。
笑っているのに、頬は骨格に沿うようにへこんでいて、この上なく貧弱に見えた。
おもいきって飛びかかったら、勝てそうな気がする。
しかし笑顔に悪意は感じられない。
骸骨みたい…と薄っすら思う余裕ができていた。
「これからおじさんラーメン食べようと思ってたんだけど、君も一緒にどう?」
は? と首をかしげると、目の前の骸骨はまたにこりと微笑んで続けた。
「もちろんご馳走するから。一人で食べるより二人のほうが美味しく感じるでしょ。ああ、無理にとは言わないし、お腹空いてればの話なんだけどね。どう?」
いやあ、今日は蒸すねぇ…なんてネクタイを緩めている。
グレーの大きすぎるスーツに身を包んだ男は、サラリーマンっぽく見える。
左手に下げた黒い鞄は、角のところが剥げて、そして少し窪んでいた。
骸骨みたいな顔以外、落ち着いてよく見ると、そんなに悪い印象はなかった。
何しろ腹が減っていた。
食べさせてもらえるなら、この際誰でもいい。
棒のように固まった足も、どこかで休めたかった。
「あの……減ってます」
「そっかそっか、じゃあ、一緒に食べよう」
「でもその…いいんですか?」
「いいの、いいの」
男は振り向き、さっさとのれんをくぐって中に入っていってしまう。
いや、やっぱりオカシイでしょ…そう思ってその場を離れようとしたけれど、男が開いたドアから一気にスープの匂いが押し寄せてきた。
まあ、ラーメンくらいいっか。
瞬時にそう思い直せる自分の脳にあきれたけれど、空腹に負けたわたしは、初対面の、一言二言話しただけの男に誘われて中に入った。
これじゃ野良猫じゃないか。
頭の隅っこに、その言葉を押しやって。
ストレイキャット。
英語にしてしまえば、なかなかカッコいいじゃんと言い訳をして。