17.人と係わらない限り
カーテンの隙間から差し込む光が眩しくて、わたしは目を覚ました。
雀の鳴き声があちこちから聞こえていた。微かに羽ばたく音もする。
顔を横切る光は壁に届いて、一本の黄色い細い線を描いていた。
もぞもぞと寝返りを打って、光を遮った。
壁にくっつくようにして、敦司はぐっすり眠っていた。毛布にぐるぐるにくるまって、ミノムシみたいだ。黒い頭だけが覗いている。
敦司の枕もとの目覚まし時計を見ると、六時少し前だった。音が鳴り出すまで、あと二十分ある。
夕べはなかなか寝付けなかったので、二十分でも寝たい気分だった。けれど目を閉じて深呼吸してみても、二度寝出来る感じがしない。
仕方なくわたしはむっくりと身体を起こして、這いつくばりながら窓際へ行った。カーテンをひくと、擦りガラスを通しても朝の光が眩しかった。
ぎゅっと目を閉じる。
起こしてしまうんじゃないかと振り向いて確認してみたけれど、敦司に動く様子はなかった。細かった光は大きくなっていて、部屋いっぱいに広がっている。
静かに窓を開けた。五月の朝の、まだ汚れていない爽やかな風が流れ込む。
キスの後、特になにが起こるでもなかった。
「おやすみ」を言い合って、いつものように別々の布団に入った。
なーおなーおと鳴く猫の声を黙って聞きながら、お互いに、沈黙に耐えていた。
敦司がなかなか寝付けないでいたのはわかっていた。わたしも、布団のなかで息をひそめて丸まっていた。
動いちゃいけないような気がした。毛布を深く被って、その中でちびりちびりと呼吸していたので、苦しかった。
同じ体勢でいるのがさすがに辛くなってきて、慎重に、ちょっとだけ身体を動かした。が、布団が擦れて、かさりと弱い音を立てた。
しまった、と失敗したような気分でいると、ごそりと敦司も動いた。妙にほっとして耳を澄ましていると、「ごめんな」と小さく聞こえた。
わたしは黙っていた。寝たふりをしていたのだけれど、起きているのは敦司もわかっていただろう。
悶々というか、ぴりぴりというか、どうにも居心地の悪い空気が漂っていた。
なにか言おうかな、と何度も思ったけれど、いい言葉が思い浮かばなかった。
言ったところで、お互いの緊張がほぐれるわけでもないだろう。逆に朝まで眠れないかもしれない。
そのうちわたしは眠りに落ちた。何だか変な夢を見たような気がするけれど、覚えていない。
片目を閉じて、まだ白っぽい空を見上げた。昨日月の居た場所には、尾を引いた千切れた雲が薄っすらと浮かんでいる。
しばらく眺めていると、雲はゆっくりと、空に溶けて無くなった。
足を部屋に投げ出して、柵に寄りかかる。
夜、ここで敦司とキスをした。
その出来事も敦司の言葉も、昨日見た夢の一部だったんじゃないかと思ってみたけれど、唇に指をあててみると、敦司の感触は意外にもしっかりと残っているのだった。
毛布にくるまった敦司をぼんやり眺めていると、目覚ましが勢い良く鳴った。
もそもそと、敦司が顔と腕を出して目覚ましを止めた。少しむくんだ顔で、眩しそうに目を細めながらこちらを向く。「おはよ」と言うと、敦司は少し驚いた顔をして、「早いな」と言って起き上がった。
夢みたいな夜の後だって、朝は必ずやってくる。
昨日の残りのカレーを温めなおして、神妙な雰囲気のなか、朝ごはんを食べた。
焦げ臭さは昨日よりも鼻について、わたしは眉間に皺が寄った。敦司の顔を黙って盗み見ると、同じような顔をしながら口を動かしていた。
ほとんど会話も無いまま、わたしたちは部屋を出た。
空は、水色になっている。遠くのマンションのベランダの窓がいくつか開いていた。既に洗濯物のぶら下がっている部屋もある。
わたしと敦司が小道に出ると、白い猫が前を横切った。
塀の隅で警戒するようにこちらを見上げている。「昨日鳴いていたのはお前か」とおもわず呟くと、敦司のほうが反応して歩調が緩んだ。
大通りに出る。平日のような交通量はない。
坂を下る途中で、腕を組みながら歩くカップルとすれ違った。酔っているような足取りで、わたしたちの後ろに過ぎていく。きゃはは、と女の人が甲高く笑うのが聞こえた。
コンビニの前には中学生くらいの男の子たちがいて、漫画雑誌を全員で覗き込んでいた。一人が笑うと他も一斉に笑う。格闘シーンかそうじゃないのか。筆圧の強いページを開いている。
乗客の少ないバスが通り過ぎた。窓際のおばあさんと目が合った。ような気がするだけで、わたしの後ろの何か別のものを見ていたのかもしれない。
適度に緩い、土曜の朝だ。
無性に炭酸が飲みたくなって、自販機でコーラを買った。がごん、と景気のいい音と共にボトルが落ちてきた。
「なんか飲む?」と聞くと、敦司は少し迷ってから同じものを指差した。やっぱりな、と思いながらボタンを押す。
歩きながら半分まで一気に飲み干すと、我慢するまでもなくゲップが出た。思っていた以上に豪快だった。
あはは、と敦司を見上げて笑ってみせた。笑っているうちに本当に可笑しくなってきて涙と鼻水が出てきた。
何か拭き取るものはないかとジーンズのポケットをあさってみると昨日のレシートしか出てこなかった。焦げ付いたカレーを思い出すと全部が可笑しく思えてきて、腹を抱えて笑った。
「ぶ」
何かが弾けたように、敦司も笑い出した。「汚ねーな」とわたしの頭を叩く顔に、いつもの調子が戻ってきている。「カレー、焦げてたでしょ」と言うと、「朝気づいた」と答えた。
意外に鈍い奴だ。
すれ違ったおじさんが、いちゃつくな、みたいな顔をしてわたしたちをじろりと見ていった。
そんな感じに映るのだろうか、わたしと敦司も。恋人同士がじゃれ合うみたいに。
誰がどんな時間を過ごしていたのかなんて、すれ違っただけの人にはわからないものだ。
あのカップルも、中学生たちも、おばあさんも、おじさんも、昨日どんな時間を過ごしてこれから何をするのかなんて、わたしの知ったことじゃないし、関心だってない。
人と係わらない限り、想像だけで終わってしまうんだろう。
サンプラザ前をジョギングしている女の人がいた。水色の上下のジャージ姿だ。空の色と同じで、見ているこちらも清々しい。
ポニーテールが左右に揺れて、楽しそうだ。でも走っている本人は苦しいのかもしれない。表情だけでは本当のところはわからない。
隣の敦司を見上げると、美味そうにコーラを飲んでいる。
「コーラ、美味いね」
「朝から炭酸はちょっとキツイかもな」
そうか、とわたしは最後の半分を一気に飲み干した。
駅に着いた。敦司はいつものようにわたしの頭に手を置いた。今日はわたしも、負けじと敦司の肩を叩いてやった。
シャツの後姿を見送ってから、改札を抜けた。
ホームには今日も知らない顔たちがそれぞれの面持ちで並んでいる。
その列のひとつに、わたしも静かに連なった。
昨日は何もありませんでした、みたいな顔をして。